其之肆 「紅い世界(完)」
たゆたうと揺れる紅い海。
その海はとても浅く、海面からは横たわる静枝の顔や乳房や足先が見えていた。
産まれたままの姿で眠る静枝。
紅い海に揺られながら。
世界を突如覆う黒い影が渦巻いた。
“渦巻くモノ”は静枝の肢体に覆い被さった。
鋭く静枝は瞳を開いた。
嗚呼、目の前でそのモノは世にも恐ろしく嗤っていた。
影に覆われた顔。
なのに嗤っているのが伝わってくる。
やがて“渦巻くモノ”は静枝の躰を犯しはじめた。
股ぐらをまさぐられ、乳房を乱暴にこねくり回される。
初めてではなかった。
そのことに気づいて静枝は恐怖した。
そうだ、あの時と同じだ。
夢か現か。懐妊の夢。喪失の朝。
「わたくしの顔、思い出せたかしら?」
“渦巻くモノ”はそう言った。静枝にはそれが女の声のように聞こえた。
静枝は思い出してしまった。
思い出したくはなかった。
そうと気づいたとき、“渦巻くモノ”は見覚えの姿に変わっていた。
「慶子!?」
「やっと思い出してくれたのね……わたくしの愛しい子」
慶子と呼ばれるモノは静枝と躰を重ね交わり合った。
大きく揺れる慶子と呼ばれるモノの乳房。
そして、下半身でそそり立つ狂気。
狂気は静枝の躰に侵入しようとしていた。
「いやっ!」
「これは夢、これは切っ掛けに過ぎない、妊娠したときもそうだった」
「いやっ、いやっいやっ!」
「貴女に新たな道を与えましょう」
「嗚呼っ!」
狂気が静枝の躰を貫いた。
渦巻く奔流が静枝の内を満たしていく。
静枝の躰を包み込む影。
どこからともなく聞こえてくる声。
「一つの糸から逃れようと、別の糸に絡め取られる。全ては箱庭での出来事」
嗤い声。
赤子、子供、大人から年老いたモノの声。
大勢の嗤い声が世界を包み込んだ。
紅い海に沈む静枝。
夢か現か。
再び目覚めた世界が果たして現実と言えるのだろうか?
廊下に転がっている少女の首。傍らには巨大な蜘蛛の脚が落ちていた。
床に滴る血痕は玄関まで続いていた。
開かれたままになっている玄関から闇が覗いている。
布に包[くる]まれた産まれたばかりの双子。
屋敷の門をくぐり抜けた菊乃は、そこで赤子を向かいに来た男に手渡そうとしていた。
「これは前金でございます。無事に届けることができれば、届け先で残りをお支払いいたします」
金の入った袋と一人目の赤子を渡したとき、闇夜を我が物のように纏った女が現れた。
「わたくしの屋敷で勝手な真似をしてもらっては困るわ」
妖しく嗤う静枝。
静枝の乱れた着物から覗く乳房に男が眼を奪われた瞬間、菊乃の首は高く飛んでいた。
般若の形相を浮かべる静枝。その手で妖しく光るのは、隠し持っていた肉切り包丁。
菊乃の首が口を開く。
「早く逃げなさい。赤子を届ければ、届け先であなたの命は保証されます。さあ早く逃げなさい!」
恐怖で顔を歪めた男は赤子を抱えて必死に逃げた。
たったひとりの赤子を連れて夜の山道を無我夢中で逃げた。
残された赤子は――菊乃の躰が優しく抱きしめていた。
運命が分かつ双子の姉妹。
静枝は菊乃の躰から“美咲”を奪い取った。
「ひとり残れば十分よ。貴女たちのやろうとしていたことは、半分成功半分失敗。しかし結局は、屋敷を出るのが早まったに過ぎないわ。ねえ、こんなことしでかして気が済んだかしら?」
「…………」
無言の菊乃。
静枝は鼻で笑った。
「本当に愛想のない子。瑶子を見習ったらどう?」
背を向けて屋敷へと歩き出しながら、静枝は言葉を続ける。
「自分の躰は自分で直せるでしょう。貴女は明日から何事もなく寡黙にこの屋敷に仕える運命なのよ。だって貴女は産まれてきた子供を見守らなくてはいけないのだから」
夜に木霊する女の嗤い声。
静枝よ、おまえは何者だ?
るりあは廊下で天井を見上げていた。
そこへやって来た瑶子。
「どうかしました?」
瑶子と目を合ったるりあはそっぽを向いて逃げるように走り出した。
その途端、るりあの顔が何かにぶつかった。
「ちゃんと前を見て歩きなさい」
顔を上げたるりあの瞳に映ったのは機嫌の悪そうな静枝だった。
静枝はるりあを押しのけて歩きはじめた。
その背中に瑶子の声が投げかけられる。
「お休みなさいませ静枝さま」
あいさつも返さず足早に静枝は自室へ向かう。
ふすまをぴしゃりと閉めた静枝は、敷かれていた布団の上に正座をした。
そして、袖に隠し持っていた肉切り包丁を布団に突き刺したのだ。
「抑えるのよ、抑えなさい。血の繋がった双子の姉妹が殺し合うことに意味があるのよ」
寝そべった静枝は悶えるようにして、布団に爪を立てながら涎を垂らした。
「この衝動に今まで耐えてきたのよ、あと少しくらい」
静かな部屋に時計の針の音が鳴り響く。
刻々と過ぎていく時間。
廊下の向こうから大きな物音が聞こえてきた。
不気味に嗤う静枝。
甲高い悲鳴。
そして、再び夜は静けさを取り戻した。
「ついに熟れた柘榴[ざくろ]が収穫されたのね」
立ち上がった静枝は部屋を出る。
蝋燭の薄明かりが仄暗く廊下を照らす。
脈打つ鼓動。
静枝は胸の高鳴りが表情にまで表れていた。
狂喜の形相。
だが、その感情は裏切られることとなった。
静枝が悲鳴があった場所に着くと、そこにあったの干からびた屍体。下男らしい粗末な服を着ていた。
歯ぎしりの音が響く。
紅蓮の炎が世界を包む。
それは静枝の瞳の色だった。
真っ赤に血走った眼で静枝は屍体を滅多刺しにした。
肉切り包丁を振り下ろし振り下ろし、振り下ろし。
幽鬼のように蒼白い顔でゆらりと柳のように立ち上がった静枝。
歩き出そうとした静枝だったが、その足が急に掴まれたように動かなくなった。
鋭い眼光で足首を見たが何もない。
「……まだ抵抗する力が残っていたのね。ここまで抵抗をするということは、どこに向かうのかわかったのね?」
それは誰に語りかけているのか?
静枝は重い足を引きずるようにして歩き出した。
肉切り包丁が柔肉を切り刻みたがっている。
女の肉。
若い少女に肉が好[よ]い。
静枝は眼を剥いた。
己の手が糸で引かれるように動き、なんと太股を肉切り包丁で突き刺したのだ。
「くく……う……おのれ……」
顎が砕けるほどに静枝は歯を食いしばった。
肉切り包丁を持つ手はさらに動き、捻るように回された。
「ギェあアッ……」
はらわたから絞り出したような悲鳴。
ぼとりぼとりと冷たい床に墜ちる黒血。
肉切り包丁を太股から抜き、脂汗を垂らす静枝は構わず歩きはじめた。
「抵抗が大きければ大きいほど、その反発も大きいというもの。全ては無駄だったと嘆き悲しむがいい!」
廊下に血の痕を引きながら静枝はついにその部屋の前まで来た。
この部屋は美花の部屋だ。
ふすまの先はとても静かだ。
静枝は紅く濡れた繊手でふすまを開けた。
部屋の中心に敷かれた布団で眠る少女。静かな寝息を立てている。
静枝は肉切り包丁を握り直し、その刃を少女の細い首筋に突き立てようとした。
その瞬間!
布団が大きく跳ね飛ばされ、黒髪を乱しながら少女が静枝に襲い掛かった。
「痺れを切らせて、いつか来ると思っていたわお母様」
その口調。
「美花ではないわね!」
少女は妖しく微笑んだ。
「私は美咲よ」
美咲は静枝に馬乗りになり、肉切り包丁が持たれた手首を床に押さえつける。
そして、自らも隠し持っていた包丁で静枝の首を突こうとした。
「殺さないで……愛しい愛しい美咲、母を殺さないで」
涙ぐむ静枝。
だが、美咲は容赦ない冷たい瞳をしていた。
「どこに母なんているのかしら?」
「やめて美咲!」
切っ先がのどに触れた瞬間、部屋に美花が飛び込んできた。
「やめて!」
響く美花の嘆き。
美咲の動きが止まり、その隙を突いて静枝は美咲の躰を押し飛ばした。
足を引きずり這って逃げようとする静枝。
体勢を直した美咲が静枝の背中に包丁を突き立てた。
「ギャァアアアッ!」
包丁で刺されながら静枝は鋭い爪で美咲を振り払った。
美咲の頬に奔った血筋。
重傷を負いながらも静枝は立ち上がり、鮮血を乱しながら逃走した。
すぐに美咲は後を追おうとする。
「逃げられたわ、止めを刺してやる!」
「嫌よお姉さま! そんなことをしてはいけない!」
「どうして! あの女は美花を殺そうとしたのよ、それでも庇うの!」
「わからない、わからないけど、お姉さまにそんな真似をさせられない!」
「だったら美花が手を下すの?」
「っ!」
美花は息を呑んで固まった。
そんな美花を美咲は構わずに、蝋燭を用意すると仄暗い廊下を歩きはじめた。
血の道しるべが示す先。
それは静枝の部屋へと続いていた。
血塗られた襖の引き手。
美咲は襖を力強く開き部屋の中を見た。
部屋の中心に敷かれた布団の上で正座する静枝の姿。あまりに静かな面持ちが不気味だった。
「殺しなさい」
と、顔を上げた静枝は静かに言った。
警戒心を強めながら美咲は摺り足で静枝に近付いた。
一歩、一歩と二人の距離が縮まる。
静枝の形相が刹那に変わった。
「死ねーっ!」
般若の形相をして静枝が肉切り包丁を振るった。
咄嗟に庇って出した美咲の手のひらが血を噴いた。
怯んだ美咲の腹を刺そうと肉切り包丁が鈍く光った。
部屋に飛び込んできた美花。
「お姉さま!」
美花はそのまま美咲を肩で突き飛ばした。
肉切り包丁が柔肉を裂く。
畳に倒れた美咲が叫ぶ。
「美花!」
同じく床に倒れていた美花が手にしていたのは、美咲が落とした包丁。
肉を裂かれたのは静枝だった。
包丁を伝わって美作の手を彩る紅い息吹。
よろめいた静枝は後退り包丁を腹から抜き、そのまま畳の上に倒れた。
風もないのに、鏡台に掛かっていた布が落ちた。
眼を見開く静枝。
鏡に映った女の顔。
「嫌っ、嫌よ、こっちを見ないで静香、静香、しずかぁぁあッ!」
鏡に映った顔は一つ。
己自身の顔にほかならない。
美花は眼を剥いたまま震えて動けずにいる。
狂い躍る静枝が肉切り包丁を持って美花に襲い掛かる。
美咲が微笑んだ。その口の端から溢れた紅い命。
同時に二人が倒れた――美花の目の前で。
そう、美咲は美花を庇ったのだ。その腹は背に達するまでの傷を負っていた。
全身を紅く化粧した静枝も立つ気力も残されていなかった。
美咲は美花にもたれ掛かった。
そして、耳元で囁いた。
「どうせ死ぬのなら、美花に喰らって欲しい。この血肉は美花の物よ」
「お姉……さま」
眼を開いたまま美咲は事切れた。
「いやぁぁぁぁああっ!」
叫び声をあげたのは美花ではなかった。
――静枝。
鏡を見ながら静枝は泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい“静枝”。でもこれでやっと……」
鏡に映る顔は一つ。
その顔は誰のものか?
呆然とする美花の手を大きな手が握った。
「すまない出るのが遅くなっちまった」
沈痛な表情をした無精髭の男――克哉は美花の手を引き、美咲の亡骸を背負って走り出した。
化けの皮が剥がれた幽鬼が絶叫する。
「逃がさぬぞ!」
叫んだ首は床に転がった。
傍らに立っていたのは斧を持った菊乃の姿。
「申しわけございません……さま」
菊乃は火のついた蝋燭を布団に向かって投げた。
遠く庭先から振り返った屋敷から煙が上がっていた。
やがて屋敷は紅蓮に包まれるだろう。
美花は地面に膝を付いて泣きじゃくっていた。
「お姉さま……お姉さまが……」
「すまない、俺がもっと早く出てれば」
美咲の亡骸を背負う克哉は苦しげに言葉を吐いた。
そして、克哉は夜空の星を見つめた。
「親父が交わした約束、半分しか果たせなかった。本当にすまなかった、もっと早く迎えに来ればよかったんだ」
涙を流しながら美花は克哉を見つめた。言葉は出なかった。
克哉が語り出す。
「数年前、俺の親父はある女性と手紙でやり取りしてたんだ。それであるとき、その女性から自分に双子が生まれたら、その子供を預かって欲しいと頼まれていたらしい。けど、まあその子供は結局うちに来ることはなかったんだ」
驚いた瞳をした美花。
「親父は数年前に死んだ。それで息子の俺がその後どうなったのかと思って、こうしてやって来たわけなんだが……」
結果は……。
克哉は懐などを手で探って潰れた煙草の箱を取り出した。
「そういや切らしてるんだった。煙草でも吸わねぇとやってらんねぇってのにな……?」
少し驚いた克哉は自分の傍らに角の生えた少女が立っているのに気づいた。
るりあは無言で何かを克哉に押しつけた。克哉がそれを受け取ると、るりあは走って姿を消してしまった。
煙草の箱。
克哉が受け取ったのは煙草の箱だった。しかも、もう片手で握りつぶされているのと同じ銘柄だったのだ。
「なんで……?」
疑問に思いながら克哉は箱の中を見た。
残されていた最後の一本。
克哉はそれを口にくわえて火と点けようとしたが、つかない。
「湿気ってやがる」
それでもその煙草を捨てることなく、口に咥えてまま手を美花に伸ばした。
「行こう、お嬢ちゃんの面倒は俺が見る。嫌なら別にいいんだが、とにかく俺の住んでる町まで行こう」
見知らぬ男にも等しい克哉。
美花は克哉の手を取った。温かい手だった。
いつしか止まっていた美花の涙。
崩れゆく箱庭の世界を背に、手を繋いだ二人は歩き出したのだった。
紅い世界(完)