其之参 「土蜘蛛(3)」
瑶子は呆然と眺めていた。
「あれっ、工事が進んでるような?」
その視線の先にあったのは、離れの建設現場であった。
昨日よりも工事が進んでいる。
いつの間に?
今日も大工らしき姿は見当たらない。
瑶子は地面をまじまじと見つめた。
大量の足跡だ。地面には大量の足跡が残っていた。
足跡はひとりのものではなく、その大きさの違いから複数人いることがわかる。
いや、そもそもこの足跡を人と呼ぶべきものなのか。
残された足跡は大きなものともなると、瑶子の顔が収まってしまうほどもある。
謎の多い建設現場だ。
瑶子はここ場から移動した。
散策目的で歩き続けていると、微かな羽音が聞こえてきた。
辺りを見回した瑶子は屋根近くの壁にそれを見つけた。
「きゃっ」
見る見るうちに瑶子の顔色が悪くなる。
そこにあったのは蜂の巣だった。まん丸く太った蜂の素だ。瑶子の顔などよりも遥かに大きい。
巣の周りには無数の蜂が飛び交っている。
獰猛かつ凶暴なスズメバチだ。
すでに蜂は警戒行動を取りはじめ、瑶子の周囲を忙しなく飛び交っている。
かちかちと堅い物が連続して打ち鳴らされている。それは蜂の大顎だ。すぐにこの場を離れた方がいい。
しかし、瑶子は足がすくんでその場を動けなかった。
蜂の群れが瑶子に襲い掛かってきた。
「きゃーっ!」
もう駄目だと思ったとき、小柄な影が瑶子の前に立った。
それはるりあだった。
なんと、るりあは襲い来る蜂を素手で次々と叩き落としはじめた。
驚く瑶子。
角を覗けば童女であるるりあが、今はまるで大熊のように見える。
るりあに群がる蜂。無傷で済むはずがない。すでにるりあは体中を刺されているはずだ。それでもるりあは怯むことなく、暴れ狂いながら蜂を殺していくのだ。
瑶子はるりあの中に鬼神を見た。
蜂の襲撃は際限ない。いくらるりあが強くとも、多勢に無勢だ。瑶子のこともひとりでは守りきれない。
「逃げろ」
るりあに命令されるも、瑶子は膝が震えて立っていることもできなかった。
そんなるりあを抱きかかえた冷たい手。
「逃げましょう」
菊乃は瑶子を強引に引きずった。
「でもるりあちゃんが」
「今はあなたのほうが心配です。天敵の蜂の気配すら気づかないなんて、まだあなたは本調子ではないのです」
るりあを残してはいけないと瑶子は思いつつも、震えていうことを利かない躰では抗うこともできず、菊乃に引きずられるがまま。
るりあの姿がどんどんと小さくなっていく。未だ蜂と果敢にも戦い続けている。
群れから離れた蜂が執拗に瑶子をたちを追ってくる。
菊乃が蜂を素手で握りつぶした。毒針など気にも留めてない動作だ。
やがて蜂を振り切った二人は屋内へと逃げ込んだ。
菊乃は瑶子をその場に残し、戸締まりをして再び蜂の元へ向かった。
ひとり残された瑶子の躰はまだ震えていた。
「躰がすくんで何もできないなんて……ああ、るりあちゃん……」
るりあのことが心配だ。
今からでも助けに行きたいという気持ちはある。けれど気持ちとは裏腹に躰が動かないのだ。
今でも羽音や顎を鳴らす音が蘇ってくる。
血の気が引いて、手足から痺れが全身に伝わり、やがて動けなくなるのだ。
酷い恐怖だ。
蜂に刺されれば死に至ることもある。それにしても瑶子の恐怖は尋常ではない。
玄関先でぐったりとしていると、菊乃がるりあを連れて戻ってきた。
るりあの姿を見た途端、瑶子は声をあげた。
「るりあちゃん大丈夫!」
「……おら強いから平気だ」
るりあは小さくうなずいた。
体中には蜂に刺された痕がある。とは言っても、その傷は蚊に刺された程度にしか見えなかった。
菊乃が瑶子に尋ねる。
「もう自分の足で歩けますか?」
「はい、どうにか」
「ならば、ご自分の部屋でお休みください」
「あの、るりあちゃんの手当を!」
「それはわたくしがやって置きましょう」
言った途端、るりあは駆け出して逃げしまった。
「あっ、るりあちゃん!」
瑶子が名前を呼ぶが、その姿はもうなかった。菊乃もわざわざ追うことはなかった。
まだ調子がすぐれないが、瑶子はるりあを探そうと歩き出した。それを見透かされたのだろうか、菊乃が声を掛けてきた。
「お部屋までご一緒しましょう」
「あの、あたしは……」
口ごもる瑶子に菊乃は間髪入れなかった。
「無理をされては困ります。あなたひとりの問題ではないと覚えておいてください」
「あたしひとりの問題ではない?」
「そうです、あなたにはあなたのやるべきことがあります。体調を崩され、それがおろそかになれば、皆が困るのですよ」
「……はい」
少し沈んだ返事をした。
菊乃に連れられて部屋に戻る。
瑶子の部屋は六畳一間で、同じ奉公人である菊乃とは別々の部屋になっている。
「しばらく部屋で大人しくしていてください」
と言って、菊乃は部屋を立ち去ろうとする。
「あの」
「なんでしょうか?」
菊乃が振り返った。
「あたし……お役に立ててますか?」
「どういう意味ですか?」
「仕事もあまりさせてもらっていないし、逆に迷惑を掛けているような」
「此の世に存在する以上は、なんらかの役割を担っております。あなたにはあなたのするべきことがございます。自然に身を任せていればいいのですよ」
「……はい」
沈んだ返事。気分が晴れない。
再び立ち去ろうとする菊乃をまた瑶子は呼び止めようと口を開いた。
「あの」
「まだなにか?」
「どこに行くのですか?」
「蜂の巣の駆除をしなくてはなりません」
「……あ……っ」
瑶子は立ち眩みを覚えた。すぐさま菊乃が抱きかかえる。
「大丈夫でございますか?」
「……すみません。さっきにことを思い出してしまって、蜂が怖くて怖くてどうしてこんなに怖いのでしょう。菊乃さんにもなにか怖いものありますか?」
「ございません」
その返事を聞いて瑶子は肩を落とした。あると言ってくれれば、少しは気分が晴れたかもしれない。さらに瑶子は落ち込んでしまった。
三度立ち去ろうとする菊乃。今度は呼び止めることなく見送った。
ひとりになった瑶子は物思う。
このまま奉公人として仕事をまっとうできるのだろうか。
現状では仕事の多くは菊乃がひとりでこなしていた。瑶子がいなくても、家事や静枝の世話は菊乃だけでこなせるだろう。
なにかをしなくてはいけないという焦りが瑶子の中で生まれていた。
早くこの場に馴れたい。屋敷の住人として溶け込みたい。ここが自分の居場所だと強く瑶子は感じたいのだ。
なぜそう思うのか?
瑶子はふと思い付いた。
過去の記憶がないからではないかと――。
今まで過去の記憶がないことにたしいて、なぜか自然と受け入れてしまっていた。本来であれば、もっとそれについて思い悩むだろう。瑶子にはそういう考えがなかった。
それが今やっと大きな疑問として育ちはじめたのだ。
記憶を失う前のこと。
どこで、なにを、していたのか。
菊乃の態度や言動から、記憶がない以前の瑶子を知っているように思える。
「記憶を失う前も……同じ生活をしてたのかな?」
だとしたら、役立たずの自分が余計にもどかしい。過去にも同じことをしていたはずなのに。
そうだ、菊乃は瑶子が『本調子ではない』と言っていた。
記憶を失う要因があり、それによって目覚めても調子が悪い。その要因を知りたいと瑶子は思った。尋ねるとしたら菊乃か静枝の二つしか選択肢がない。話しやすいのは菊乃だが、過去に似たような質問をしたときも、具体的な答えは得られなかった。
静枝はどうか?
菊乃が具体的に答えない答えを、主人たる静枝が答えるだろうか?
それに瑶子はなぜ静枝に尋ねることが怖かった。
怖いというのは畏怖、もしくは恐れ多いとでもいうのか、静枝に尋ねることはなぜか躊躇われるのだ。
瑶子は考えることをやめた。
休めと言われたのだ、部屋でじっとして心身を休めることにした。
必要最低限の家具しかなく、部屋での楽しみはとくにない。けれど、瑶子はじっとしていることが嫌いではなかった。
まるで悟りでも開くかのような瞑想に近い状態。
部屋と一体化するように、ただじっとなにもせずに気配すら消す。
ゆるやかに時間が流れた。
翌日になり、まだ蜂のことを引きずっていた瑶子は、外に出ることをためらっていたが、午後になり決心をした。
本当は近付くのも嫌だ。足がすくんでしまう。けれど、菊乃からは駆除したと聞いている。この目で確かめなければ、いつまで経っても恐怖に苛まれたままだ。
昨日と同じ道のりを歩む。
工事現場で足を止めた。
やはり昨日よりも工事が進んでいる。
瑶子はさらに先へと進んだ。
動悸がしてくる。
耳を澄ませば羽音が聞こえてくるような気がする。
足が震えて思うように動かない。
これ以上もう歩けない。
瑶子は立ちすくんでしまった。
また蜂に襲われたら今度こそ駄目かもしれない。
足がすくんで逃げることもできないのだ。
そっと瑶子の手が温かさに包まれた。幼い小さな手だ。小さくともとても心強い。るりあの手。
「るりあちゃん」
「…………」
るりあは口を閉ざしているが、その気持ちはちゃんと伝わってきた。
「ありがとう、心配してくれてるのね」
「…………」
つんとるりあはそっぽを向いてしまった。けれど、その頬は少し赤く染まっていた。
歩み出す瑶子。
あの場所に蜂の巣はなかった。
安堵感で全身の力が抜けそうだった。
気持ちも晴れやかになり、足を弾ませながら瑶子はるりあと手を繋いだまま、この場をあとにした。
屋敷の中へ戻ろうとしていると、るりあが遠くを眺めた。
庭よりも遥か先、屋敷の敷地外に微かに見える人影。
急にるりあは瑶子の手を振り払い駆け出してしまった。
「あっ」
瑶子は小さく声を漏らしただけで、また追いかけることができなかった。るりあは一度駆け出すと、あっという間に消えてしまうのだ。
るりあのとこも気になったが、それ以上にあの人影が瑶子は気になって仕方なかった。
垣根は高く侵入者を拒むように見えるが、目は荒く外からも中からも互いにようすが伺える。
瑶子が垣根に近付いていくと、その青年は明らかに敵意を持って睨みつけてきた。
「どうかしましたか?」
瑶子は笑顔で尋ねた。
けれど青年の表情は変わらない。
「おい、弟さどこにやったんだ!」
突然怒鳴り掛かってきた。
瑶子はなにがなんだかわからない。
「はい?」
「弟さどこやったか聞いてるんだ!」
「なにを言われているのか、よくわかりませんが?」
「おめぇ、この家のもんだろ!」
「はい、この屋敷で奉公人をさせていただいている瑶子と申します」
さらに青年の顔つきは憤怒し、垣根を掴んで揺さぶってきた。
「おめぇが瑶子か! この尼、弟を返せ!!」
「何か勘違いか人違いをなれてるいるのでは?」
「弟をたぶらかして、弟は……弟は……」
急に青年は歯を噛みしめて涙を流した。垣根を掴んだまま、力が抜けていき、地面に両膝をついた。
瑶子は背を低くして青年を見つめる。
「大丈夫ですか?」
「おめぇに心配なんかされたかねえ。そうやって弟のことも騙したんだろ!」
「ですから、なにを言われているのか……」
「弟は毎日に毎日おめぇに会いに行ってたんだ。おらがもうよせと言ったのも聞かねぇで、あいつ……弟を返せ!」
垣根の隙間から青年の手が入ってきて、瑶子の服を掴んだ。
「きゃっ、なにを!」
「弟をどうした! やっぱり……やっぱり……もう……殺されちまったのか!」
「えっ!?」
「弟を弟を返せ!」
両の手で服を掴んで青年は激しく揺さぶった。
瑶子は恐怖した。
「いやっ、やめてください!」
「殺してやる!」
「ですから、なにを言っているのか、もうやめてください!」
瑶子はどうにか青年の手を振り払ってその場を離れた。
青年は垣根の向こうで喚き続けている。
恐怖を背にしながら瑶子は屋敷の中へと逃げ込んだ。