表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかしの棲む家  作者: 秋月瑛
其之参 「土蜘蛛」
17/47

其之参 「土蜘蛛(1)」

記憶を失った少女。

一度足を踏み入れたら、決して外に出ることは叶わない。

人々を捕らえる糸は何か?

 それは運命の糸で編まれた住処。

 誘われた者、囚われた者は、捕食者によって今宵も狩られる。

 来る者は拒まず、去る者は逃さず。

 その幾つもの眼で獲物を捕らえ、その幾つもの足で獲物を追う。

 里の青年はそこで働く奉公人の少女に興味を持った。

 大人たちは無闇に近付きたがらない。

 しかし、青年はまだ心が幼かった。

 それは無知か無垢なのか。

 惹かれるとは引かれること。すなわち手繰り寄せられるということ。

 誰もが恐れる屋敷に青年は忍び込んだのだ。

 住人たちが寝静まったであろう夜更け。

 ――会いたいがために。

 屋敷の敷地には難なく忍び込むことができた。

 問題は屋敷の中にどのようにして入ることができるのか。

 この屋敷は普段から雨戸が閉め切られ、傍目からは閉鎖されているように見える。

 しかし、玄関の戸に手を掛けると、静かに開いたのだ。

 まるで誘われている。

 青年はそれを幸運と思った。

 逸る気持ちを抑えられず、青年は足早に廊下を進んだ。

 気配がした。

 闇の向こうで何かが蠢いている。

 ――手招きしていたのは、大蜘蛛。

「ぎゃああぁぁぁっ!!」

 青年は肝を潰し尻餅をついた。

 大蜘蛛がようすを伺いながら迫ってくる。

 生きたまま食い殺される。

 逃げなくて、逃げなくては、青年は床を掻きながら逃げようとした。

 しかし、その糸に一度絡め取られれば、逃げることなど叶わない。

 すでに青年の四肢は蜘蛛の糸によって捕らえられてしたのだ。

 青年の眼前で触肢が蠢いている。

 声も出せず口を開けていた青年の口腔に蜘蛛の消化液が流れ込んできた。

 大蜘蛛の接吻。

 まるでそれは生き血を啜るように見えるが、蜘蛛のは消化液によって獲物を体内から溶かし、それを飲み込み食事をするのだ。

 まるで躰が内側から焼けるよう。

 胃が腸が、じゅくじゅくと焼けていく。

 のどが爛れ、もう声すらも出せない。

 恐怖を味わい、苦しみながら、糸に囚われ暴れることもできず。

 最期の瞬間まで青年は悶絶しながら喰われて死んだ。

 やがて残された搾り滓。

 大蜘蛛が闇の中へと消えていく。

 しばらくして、その場に侍女の菊乃がやってきた。

 淡々と掃除をし跡形もなく、何事もなかったように終わる。

 やがて、朝を迎えれば、家族は何も知らず一日がはじまるのだった。


 眼を開けると、ぼんやりと人の顔が見えた。

「お目覚めでございますか?」

 すぐ近くでしゃべられているはずなのに、意識がはっきりとしないためか、遠くに聞こえる。

「あなたの名は瑶子。姓は土田、土田瑶子という名でございます」

「よ……う……こ」

「お上手です。そして、わたくしの名は菊乃」

「き……く……の」

「焦らずともすぐに喋れるようになります。三日もすれば前のように生活できるようになるでしょう」

 瑶子は躰を起こそうとした。

 うまく力が入らず、起き上がれない。手足の感覚も少し麻痺したように、鈍感になってしまっている。

「焦らずともと申し上げた筈です。無理をなさらず、もうひと時お休みなさいませ」

 菊乃は瑶子を寝かしつけた。

 虚ろな目をしてうなずいた瑶子。

 姿形は少女なのに、その表情はまるで赤子のよう。

 まん丸な瞳を瑶子は閉じた。

 まぶたの裏に広がる暗い暗い闇。

 その先に何かがいる。

 八つの眼。

 違う。

 それは青年の瞳に映った光景だった。

 眼の中に映り込んでいた八つの眼。

 そして、世にも恐ろしい表情をしている青年。

「きゃあああああ!」

 叫びながら瑶子は飛び起きた。

「どうかなさいましたか?」

 静かな声で菊乃は尋ねた。

 瑶子は震えたまま答えない。

 菊乃はそっと瑶子の手を握った。とても冷たい手だった。それでも握られていると安心です。

 記憶の糸を辿る。

 今見た光景はいったいなんだったのか?

 思い出せなかった。

 それどころか瑶子はなにも思い出せない。

 自らの名前でさえ。

 ようこ。

 呼ばれた感覚は違和感なく馴染んだ。

 きくの。

 傍にいる少女の名も違和感がない。

「あ……たし……は……だれ?」

 舌が回らない。

「名は土田瑶子」

「よ……う……こ」

「ご自分の顔をごらんになりますか?」

 瑶子は小さくうなずいた。

 すっと立ち上がった菊乃は引き出しから手鏡を取って来た。

 鏡面が瑶子に向けられる。

「だ……れ?」

 見知らぬ顔。

「それがあなたの顔でございます」

「よ……う……こ?」

「そのお顔が瑶子の顔」

「ようこ」

「発音がお上手になってまいりました」

 言葉を覚え、言葉を発音できる度に褒められる。まるで言葉を覚えた手の赤子のようだ。

 瑶子は再び起き上がることに挑戦した。

 今度は上半身が起き上がった。

 菊乃はすぐに瑶子の背に手を添えた。

「素晴らしい。そのまま立ち上がる気でございますか?」

 立ち上がろうとする瑶子に手を貸す。

 しかし、膝が震えすぐに瑶子は倒れてしまった。

 菊乃は瑶子の長い脚を揉んだ。

「焦らずともすぐに立てるようになります。歩けるようになったら、この屋敷を見て回りましょう」

「やしき」

「これからあなたが暮らす屋敷でございます」

「やしきでくらす」

「生まれたときからあなたはこの屋敷の奉公人。そして、使命は違えどわたくしも同じ奉公人。わからぬことがあれば、なんでもわたくしにお聞きください」

 生まれたときから。

 以前からということか?

 ならば失われた記憶もここにあるのか?


 目覚めてから一日目は寝床で過ごした。

 二日目の朝、何気ない動作で瑶子は立ち上がり布団から出た。

 まだこの部屋の外に出たことがない。

 躰が動くようにって、外に出ようかと迷っていると、菊乃がやってきた。

「わたくしがいない間にお目覚めになりましたか」

「はい、目が覚めてしまいました。とっても気持ちいい朝ですね」

 言葉もすんなりと出た。

「わたくしたちはご家族の誰よりも早く起きねばなりません。早く目が覚めることをよいことでございます。まずは着替えを済ませてしまいましょう。その姿でご家族の目に触れるのは失礼にあたります」

 菊乃は箪笥の中から瑶子の服を取りだして手渡した。

 少し粗末な着物と前掛け。

 瑶子は自分ひとりで着替えはじめた。

 寝衣を脱いだ裸体は手足が細くしなやかに伸びていた。

「きゃっ!」

 瑶子は短く叫んだ。

 躰に触れた冷たいもの。

 それは濡れ布だった。菊乃によって躰が拭かれる。手足の先から、顔まで、隅々まで拭かれるがまま。

「お躰を拭いて差し上げるのは今日まででございます。お躰が自由に動くようになった今、お一人で入浴して汗を流してください」

 躰を拭き終わると、着物に着替えるのも菊乃が手伝ってくれた。

 袖にその長い腕を通し、帯を締める。

 最後に前掛けを付ければ、すっかり姿はこの屋敷の侍女だ。

 菊乃は鏡台の前に瑶子を座らせた。

「髪を梳かし結いましょう。今はまるで乞食のような汚らしい髪です」

 鏡台の掛け布が取られた。

 正座をする瑶子の後ろで膝立ちをしながら菊乃は櫛を手に取った。

 瑶子の髪は細く艶やかで、それでいて弾力性があり強い。

 小枝が折れたような音。

「あっ」

 と、瑶子は声を漏らした。

 櫛の歯が欠けたのだ。

「ご心配なさらずに、よくあることでございます」

 それほどまでに瑶子の髪は強かったのだ。

 梳かされた髪は一本に大きく三つ編みにされた。

 瑶子は菊乃を姉のように感じた。

 鏡に映る菊乃の姿は、淡々と作業をこなしているだけ。それでも瑶子は嬉しく思う。

 ふっと鏡に何かが映り込んだ。

「菊乃さん……見えましたか?」

「なにかございましたか?」

「綺麗な女の人が部屋にいました」

 しかし、部屋のどこを見渡しても、ここにいるのは瑶子と菊乃だけだ。

「ご心配なさらずに、よくあることでございます」

 身支度を済ませると、瑶子は部屋の外に連れ出された。

「まずは静枝様にご挨拶をしましょう。静枝様はこの家の当主、何があろうとも、静枝様のおっしゃることが絶対ということを肝に銘じておくように」

「はい」

 瑶子は思った。静枝とはいったいどのような方なのだろうか?

 とある部屋の前に来ると、そこで菊乃は正座をし、瑶子の同じように座らされた。

「失礼いたします、菊乃でございます。瑶子を連れて参りました」

 そう言うと、部屋の中から声が返ってきた。

「お入りなさい」

 戸を開けると、その先にひとりの女が正座をしており二人を出迎えた。

 すぐに菊乃は頭を下げたが、瑶子は呆然として、その女の顔を見つめてしまった。

 年の頃は一〇代後半。瑞々しい肌と整った綺麗な顔立ち。しかし、顔の半分を覆う痛々しい痣。

 そして、瑶子はこれとそっくりな顔を見ていた。

「さっき見た顔」

 つぶやいた瑶子に菊乃は静かな目をして耳元で囁いた。

「そうであるなら、決して静枝様のお耳には入れないように、絶対でございます」

 内々に話す二人に静枝は声をかける。

「なにかあったのかしら?」

「いえ、なにもございません」

 すぐに菊乃が答えた。

 まだ瑶子は呆と静枝の顔を眺めてしまっている。

 鏡に映ったあの顔を瓜二つ。違うのは痣があるかないかくらいだ。

 痣の他にも気になる点があった。

 大きく膨れた静枝の腹。

 その視線に静枝も気づいたようだ。

「もう半月もせず生まれるわ、双子の姉妹よ」

 瑶子は驚いた。

「双子、それも姉妹とわかるのですか?」

「そういう定めなのよ」

「旦那様は?」

 一瞬、空気が凍り付いたような気がした。

 菊乃は無表情のまま口を結んでいる。

 静枝は妖しく微笑んだ。

「此の世にはいないわ。それも定めなのよ」

 よく瑶子には理解できなかった。

 とりあえずは一見させたので、菊乃は早々に去ることにしたらしい。

「わたくしどもはあさげの準備がございます。これにて失礼いたします」

「あ、失礼します」

 慌てて瑶子も頭を下げて、先に出て行ってしまった菊乃を追いかけた。

 部屋を出て廊下を歩き出すと、瑶子は不思議そうな顔で菊乃にあることを尋ねる。

「ほかのご家族にご挨拶をしなくていいのですか?」

「今この屋敷で暮らしておられるのは静枝様だけ、わたくしたちを加えるなら三人だけでございます」

「だってほかにも家族が?」

 なぜほかにも家族がいると思ったのか?

 そうだ、菊乃がいつだったか「ご家族」という言い方をしたのだ。ひとりしかいないのであれば、そのような言い方はしないだろう。

「もうすぐ双子のご息女がお生まれになります。そして、しばらくしたら家庭教師を向かい入れるともおっしゃっておりました。わたくしたちの仕事も増えることになりましょう」

 と菊乃は言ったが、家族はこれから増えるのであって、今いるわけではない――筈だ。

 言葉を細かく気にしすぎなのだろうか?

 二人は台所がある土間に向かっていた。これから朝食の準備をするためだ。

 侍女としての勤め。

 当たり前のように事が進んでいく。

 瑶子は今になって疑問に思った。

「ところで、なぜあたしはここにいるのですか?」

「それはこの屋敷の奉公人だからでございます」

「そういうものなのですか?」

「あなたが生まれた時からそう決まっております」

「生まれたとき……そう言えば昨日以前のことを覚えてないのですが?」

「それは特に気にするほどのことではございません。あなたはここで自分の勤めに精を出せばいいのです」

「そういうものなのですね」

 とても不思議だが、なぜか納得してしまった。

 こうして二人は朝食の準備をした。用意したのはもちろん静枝の分。ほかにあとで頂く物として、自分たち二人分も別に用意した。

 やはりこの家には三人しかいないのか?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ