予兆
「ただいまー、っと」
午後八時頃、隼人は少女を引き連れて帰宅した。
挨拶に返事はなく、玄関から見えるリビングにも明かりは灯っていない。玄関を見渡すと、摩耶がいつも履いている革靴が視界に映る。どうやら、帰ってきてはいるようだ。
天井家の夕食はいつも七時頃に済ませていて、両親のいない日は基本的に朝と同じように摩耶が作る。
なぜ両親がいないのかと言えば、良くある海外出張と言う奴で、家には時折しか姿を表さず。帰ってきたかと思えばすぐに何処かへと旅立ってしまうのだ。摩耶の料理がどんどんと美味しくなる訳である。
「取り敢えず、」
「ん?」
「足を綺麗にしようか」
「ワカッタ」
裸足だった少女(帰りの途中で気付いた)を背中におぶって浴室で汚れを落としてから、リビングへと向かい明かりをつける。
誰もいない炬燵の上に、ラップの被せられたお皿が何枚か置かれていた。近くに寄ってみると、その傍らに一枚のメモが、
『冷たくなってると思うから、温めて食べて下さい。P.S.遅くなるならキチンと連絡してください!』
兄のために、料理をしっかりと作り置いてくれて、その上心配までしてくれる。これはやはり、妹による愛の‥‥、
「お兄ちゃん、朝からなんだけど心の声だだ漏れ、しかも愛とか有り得な‥‥い‥‥」
飛び込んできた摩耶の声は段々と尻すぼみになり、最後には聞こえなくなった。
隼人がゆっくりと振り返ると、そこには、呆然と立ち尽くす摩耶の姿があった。その視線は、隼人の隣に立つ少女へと真っ直ぐに注がれている。
「お、お兄ちゃん?これは一体、ど、どういう事かな?」
錆び付いたブリキのおもちゃの様なぎこちない動作で、摩耶は首を隼人に向けた。その瞳には、困惑の影響か光がない。表情もなんだか硬直している。
「こ、これはだな?色々と事情が僕を巻き込んで生まれた結果でな?何が何だか僕自身判ってないんだよ。気付いた時にはこんな事になっていたんだよ。つまり何が言いたかって言うとな‥‥僕は何も悪くない!」
隼人自身でも驚くほどに上ずった声による言い訳は、最終的には逆ギレへと昇華を果たし、隼人自身の叫びとなった。
対して摩耶は、
「取り敢えずそこに正座しよっか、ね?」
これまた驚くほどに穏やかな声、穏やかな表情で、隼人の足元を指差した。
「え?」
「言ってる意味、判らなかった?その場で正座しろって、言ってんの!!」
「ひぃ!?」
先程の柔和な雰囲気を一瞬で吹き飛ばし、鬼の様な形相になった摩耶は大きな声でそう叫んだ。
それを浴びた隼人は、情けない悲鳴を上げると共に、素早くその場に正座した。その姿に、兄の威厳などというのは微塵も感じられない。
「説明してもらいましょうか」
「はい‥‥」
「どうしてこうなったのかを、詳しく、ね」
「はい‥‥」
そんな、"妹の尻に敷かれる情けない兄の図"を眺めていた少女は、全く状況を理解していないようで、
「‥‥‥‥?」
と、一人、首を傾げた。
「‥‥‥‥と、言うわけなんです」
「ふ~ん、そう言う事」
隼人の一通りの説明を聞き終えた摩耶は、「うんうん」と、頷いた後、
「つまり、学校で異文化交流をすることになって、日本に訪れたその人達をホームステイさせることになって、ホームステイさせる場所を抽選で選ぶことになって、たまたまお兄ちゃんが選ばれて、今に至るって訳ね」
と、十割型嘘で作られた情報を復唱した。
「そうなんですよ本当に参っちゃいますよねえ、なんの事前説明も無く突然くじ引き始まっていつの間にか僕が選ばれてたんですよお、いやー、本当に困っちゃう」
「‥‥‥‥これ、ホントに言ってるの?」
摩耶の胡乱な目が、隼人を貫く。
思わず隼人は視線をずらし、
「し、シンジテクダサイヨー‥‥」
と、驚くほど棒読みの言葉が漏れた。
ん~‥‥と、額に手を置いて摩耶は唸る。
これで信じてくれなかったらどうしようかと言う言い訳を脳内で高速で構築していた隼人の耳に、
「まあ、信じてあげよう」
と言う、摩耶様のお優しく慈悲深いお言葉が届いた。
「マジですか?」
信じてくれなくては困るとは言え割と想定していなかった摩耶の言葉に隼人は動揺を隠せなかった。
「まあ、一応お兄ちゃんの言葉だしね。妹のアタシが信じなかったら誰が信じるんだってなっちゃうし。今回は、信じてあげます!」
「摩耶、お前って奴は‥‥」
「な、何お兄ちゃん泣きそうな顔してんの?」
「僕はお前が大好きだよ」
「なになに止めてよ気持ち悪い!!」
痺れた足など気にもとめずに、隼人は摩耶へと飛び込んだ。しかし、華麗に避けられて、そのまま床へとダイブした。
「で、この子の名前は?」
床に倒れる隼人を呆れた目で見ながら、摩耶はそう言った。
「な、名前?」
「ホームステイするなら、アタシも知ってなくちゃダメでしょ? 」
隼人の体中から嫌な汗が噴き出し始めた。
"名前は知らない"。少女自身が判らないのだから、隼人に判るはずもな。すなわち、今、名付けるしかない。
隼人は、少女との出会いを思い出す。真っ暗な夢の中、唐突に現れる少女、綺麗な顔立ちに、光り輝く銀の長い髪。
光り輝く、光、ヒカリ‥‥‥‥。
「お兄ちゃん?」
「その子の名前はな‥‥」
「うんうん」
「ヒカリ!その子の名前はヒカリだ!」
隼人は勢いよく、少女――ヒカリ――を指差した。
「ヒカリ?外国人なのに、随分日本っぽいんだね」
「あー、ヒカリの御両親が日本を凄く好きでいてくれてな、思わず娘に付けてしまったらしい。いやー、外国はやっぱり大胆だなあ!」
「ふ、ふーん……。そうなの、ヒカリちゃん?」
「……うん、そうだよ!」
「何今の間は、しかも日本語上手なんだけど」
「まあ、両親が日本好きだとそう言う事もあるよね!」
「あっ、そう……」
隼人の"肯定しろ!"と言うアイコンタクトをヒカリは見事に受け取り、その勢いを殺すわけにはいかず、隼人は勢いで摩耶を丸め込んだ。
納得させられた感が否められなかったが、摩耶は渋々
「まあ、そう言う事にしときましょうかね」
と、頷いた。
「じゃあ、ヒカリちゃんとは毎日一緒に登校することになるなる訳ね?」
「え?」
摩耶の言葉に、隼人の動きは又も硬直する。
「"え?"じゃないでしょ、異文化交流を図ろうって言うのなら授業でもこの子が必要になるんじゃないの?ホームステイさせる事だけが目的だったとしても、アタシ達が学校に行ってる間はどうする事になってるの?」
「えーっとだなあ……」
一度引いた嫌な汗が、再び全身を包み込んだ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
訝しむ摩耶の視線が隼人を見つめる。
その場の勢いで取り繕ったが為に、後のことを全く考えていなかった。
暫くの後、高速で思考を巡らせていた隼人は言った。
「お手伝いさんを呼ぶことになってるんだ」
「は?」
隼人の答えに、今度は摩耶が固まる番となった。
「お手伝いってあれでしょ?家政婦さん的な奴のことでしょ?」
「まあ、色々と突然で驚くことばっかりかもしれないけど安心してくれ、全て上手くいく!」
「な、何なの一体……?」
混乱で呆然とする摩耶と、話を全く理解できていないヒカリを放置して、隼人は二階の自室へと駆け込んだ。
ベッドに腰掛け、最近摩耶と共に買い換えたスマホを取り出し、電話帳を開く。その中から、ある人へと電話を掛けた。
何回かコール音が鳴り、そして、
「はい、もしもし。どうしたの?こんな時間に」
技術の発達によって音質のクリアになったスピーカーの向こうから、綺麗な女性の声が聞こえた。
女性の名は――三ヶ峯 麗――。隼人よりも三つ年上の十九歳だ。
上高のOGで、今は上高の丁度真裏辺りに建てられている三ヶ峯神社で巫女さんとして働いている。所謂跡取り娘と言う奴だ。
巫女さんとして働きながら、神社の仕事について学んでいるのだが、何かの行事以外ではあまり盛り上がる事が少なく、参拝者が多く訪れることがないので暇らしい。
何故知合いなのかと言うと、隼人達の両親と麗の両親との仲が良く、家を空けることの多かった隼人達の両親の代わりにお世話をしてくれたのだ。それを機に、隼人達と麗はよく遊ぶようになった。隼人からすれば、年上の幼馴染みと言ったところだろうか。
「麗さん。少し頼みたいことがあるんだけど」
「頼み?また、勉強見て欲しいとか?」
麗がそう言ったのは、隼人と真と結城が上高を受験する際に、短期間であったが三人の家庭教師を務めてくれたが故だ。因みに今は、時々であるが摩耶の勉強を見てくれているらしい。
だが、今回はそうではない。
「あー、ちょっと説明しにくいんだけど…………」
「…………それで私に二人が学校に行ってる間、そのヒカリちゃんの面倒を見て欲しいってことですか?」
「まあ、そう言う事になるのかな」
ホームステイ云々と摩耶にした説明と同様のまるきり嘘情報を伝えると麗は、
「私はなんでも屋さんではありませんよ?」
と、少し拗ねたように言った。
「そこをなんとか頼むよ!頼れるのは麗さんしかいないんだ!」
「んー……」
「しっかり、バイト代も払うから!」
「そう……ですねえ……」
考え込む電話の向こうの麗に対して、隼人は意味が無いとわかりながらも頭を下げる。そして暫くの沈黙の後に、
「わかりました。隼人くんからの頼みですし、引き受けてあげましょう」
「本当に!?ありがとう麗さん!!」
麗の快い答えに、隼人は思わず歓喜した。
「ところで、そのヒカリちゃんはどれくらいの年齢の子ですか?」
「えーっと……」
そう言えば年齢を訊いていなかったことを思い出して、隼人はヒカリの姿を頭に思い浮かべながら答えた。
「十歳くらいだと思うけど、それがどうかしたの?」
「私、神職についての勉強が落ち着いたら保育士資格を取ろうと思ってたんです。なので、小さな子供と触れ合える機会になるかなと思って」
「そうするとヒカリは……」
「いえいえ、十歳とは言え触れ合える機会があるだけラッキーですよ」
なので……、と麗は付け加えると、
「バイト代は要りません。この機会を与えてくれただけで充分です」
「えっ、でも……」
麗の言葉に隼人は動揺を隠せない。お金を払わなくて済むことは、隼人にとって嬉しいことの筈なのだが、無償でと言うのはなんだか申し訳がない。
「申し訳がない、とか思ってるんでしょう?」
そんな隼人の心を読み取ったかのように、麗は口を開いた。
「第一、そのバイト代はどこから出費しようと思ってたのですか?」
「僕の、余った貯金かな……」
隼人のその答えに麗は「やっぱり」と少々呆れの入ったく声音で言った。
「御両親がお家を空けることが多くて、その影響で多めにお金を預けられているのは知っていますが、それはもしもの時の生活費のはずでしょう?」
「その……通りです……」
「だったら、そんな使い方をしてはダメですよ」
それに、と、麗は更に言った。
「隼人くん達のサポートを任せてくれた御両親方に、申し訳が立たなくなってしまいます」
「え……?」
「あれ、聞いてません?」
麗の言葉に隼人は戸惑う。そんな隼人の様子に戸惑いながら麗は続けた。
「出張に行かれる度にいつも神社に来て、"二人を宜しく"って言っていかれるんです」
「そ、そんなことが……」
放任主義だと思っていた両親の思わぬ愛を隼人は感じた。
「とまあ、御両親方からも言われていたことですから、バイト代とかそう言うのは気にしないでください」
「わかった。でも本当に引き受けてくれてありがとう」
「いえいえ、私も頼られなさすぎてちょっと寂しかったところでしたから。それで、明日は何時頃行けばいいですか?」
「じゃあ、朝の八時頃にお願いします」
「判りました。ではまた明日、おやすみなさい」
ツーツー、と通話終了の合図が鳴る。
「ふぅー……」
取り敢えずの懸念が全て取り払われた事に、隼人は安堵の溜め息をついた。それ以上のことは、明日になってみないと判らない。
ぐう、と腹がなった。ドタバタとして忘れていたが、隼人は晩御飯を食べていなかった。
「今日のご飯はなんだったかな」
夕食に思いを馳せながら、隼人は自室を後にした。
その直後、
ベッドに置き忘れられた隼人のスマホが、着信を示す色を灯すと共に振動した。
着信相手を示す画面には、草理真と表示されていた。