集いし者達、幕開けの前
「ここね」
綾葉は、目の前にそびえ立つ上ノ山高等学校の校舎を見つめて呟いた。
正義探偵事務所のあるマンション前での抗争から夜が明け、時刻は午前の十一時頃。
駅前の店で買った新しい服に着替えた二人は、上ノ山高等学校の裏門の前に並んでいた。
短くはあるが、木に囲まれた獣道に通じる裏門には人の気配は全くない。丁度校舎の裏側に位置している事も、重なってのことなのかもしれない。
校庭では体育でも行われているのか、規則的な笛の音とやる気の感じない掛け声が遠く聞こえる。
「準備はいいかしら」
綾葉は、隣に立つ羽刈を横目に見る。
「それはこっちのセリフだよ。俺は、何も出来ないからな」
自虐的に呟きながら、羽刈は綾葉に向かって手の平を差し出す。それが意味するもの、もう答える必要なんてないだろう。
「はい、これ」
綾葉は手にしていた紙幣を、優しく羽刈の手の平の上に置く。紙幣に描かれているのは、福沢諭吉。枚数は、六。
「多くないか?」
予想外の金額の多さに、羽刈は戸惑った。がめつい自覚はあっても、いきなり大金を手渡されるとなると、話は別だ。
「念には念を入れてるのよ。いいじゃない、お金が一杯貰えて」
軽々しい調子で小さく方を竦める綾葉。一体、何故そこまでの金を持っているのか、ここに来て羽刈の中の疑問が膨らんでいく。
「流石の俺でも、他人からこれだけの金を渡されると遠慮するって事だよ、察せよ」
羽刈はそう言って、手の平の上に置かれた内の二枚を手に取って綾葉に差し出した。
「返すよ、今日は、特別サービスだ」
「あら、ありがとう。珍しい事もあるものね」
「うるせえ、さっさと受け取れよ」
羽刈は仏頂面になって、押し付けるように手を伸ばす。横目に見ていた綾葉は小さく笑って、それを受け取った。
「それじゃ、いくぞ」
「ええ、お願い」
紙幣をギュッと握り締め、羽刈はそれを、一気に頬張る。
ブワッ、と一気にドーム状に膜が展開された。高出力のドームによる、何時もよりも濃厚な感覚が綾葉の全身を走る。
広がる勢いは留まらず、上ノ山高等学校はおろかその裏に構えられた三ヶ峯神社を、そして下ノ山中学校までもを飲み込んだ。
半径四百メートルにものぼる、超巨大なドームが出来上がった。
「全部使っちゃって良かったの?」
「言ったろ、今日は特別サービスだ」
「なんだか、今日の貴方は気持ちが悪いわね」
「余計な事は言わなくていいんだよ」
文句を垂れ流しながら、二人は笑った。
なんだか可笑しいと、羽刈は思う。いつもの彼女らしくないというのだろうか、大袈裟かもしれないけれど、そんな気がしてくる。それとも、自分の方がいつもの調子でいられてないだけか?
「……」
「……」
何とも形容し難い空気が、二人の間を漂った。次に言葉を発したが最後。実感し切れない別れが訪れるのだと、羽刈も綾葉も、心のどこかで感じ取っていた。
「きっと……」
そんなむず痒くなるような静寂を破ったのは、綾葉だ。
「次に会う時は、"初めまして"でしょうから、何か言いたいことがあるなら今のうちに行っておいた方がいいわよ」
「なにか、ねぇ……」
微笑みを浮かべる綾葉から、羽刈は視線を斜めに持ち上げ、顎に手を置くと「んー」と唸った。暫く考え込んでいた羽刈だったが、
「特にねえや」
と、あっけらかんと答えて見せた。
「そう」
笑みを弱めて、綾葉は首を校舎の方へと向ける。見上げる彼女の横顔は、どこか淋しそうな……。
って、そんな訳ねえか。
自らの内に湧いてきた有り得ない答えを、羽刈は頭を振って振り払う。
最後だと言うのならば、せめて笑顔で送り出そう。彼女に響くかは分からないが、少しでも背中を押さなければと羽刈は思う。なにせ、自分は見てる事しかできないのだから。
「頑張ってこいよ」
無責任な言葉かも知れないけれど、今の羽刈がこれ以上の言葉を掛けることこそが、無責任に感じられた。
「言われなくても、判ってるわよ」
羽刈に首を向けず、聳える校舎を眺めながら綾葉は強気な声音で再び微笑む。
✕
「ん?」
天井隼人は、疑問符を浮かべた。
目の前で起こっている状況を、理解することが出来なかったからだ。
首を傾げて、隼人は周りを見渡した。
「みんな……?」
教室には、誰もいない。天井隼人、彼を残して。
先程まで馬鹿みたいに書き綴られていた黒板の数式も、先生に隠れて眠りこけていた生徒も、隼人の目の前に広げられていたはずの教材も、何もかもが、消えていた。
それは一瞬だった。
昼休み直前の授業。空腹に悶えながら、訳も分からない記号をツラツラと並べていく先生の言葉を懸命にノートに書き写していく地獄のような時間。
一ページが埋まってしまい、次のページを使おうと紙の端を手に取った時だった。
何かが全身を駆け巡るような感覚が襲い、過ぎ去ったかと思えば異様な光景が、隼人の周りに生まれたのだ。
慌てて隼人は教室を飛び出す。扉を開く音が、有り得ないくらいに響き渡る。
辺りを見渡すが人影はない。授業中なのだから、それは当たり前なのかもしれない。しかし、そんな可能性を考える必要は無いのだと、すぐに気付く。
「静かすぎる……」
そう、校舎内が余りにも静かなのだ。授業中だから当然のこと?いや違う。教師の声すら聞こえてこないなんて、有り得るわけがない。
隼人は駆けながら他の教室を覗き込むが、案の定人っ子一人いない。
「一体、何が……?」
一人取り残された校舎の中で、隼人は言い様のない不穏なものを感じ取った。
✕
下ノ山中学校、三年三組の三時限目は自習だった。
なんでも、担当の先生が風邪を引いてしまったらしい。
受験シーズン真っ盛りで、誰もが各々の教材を取り出している中で、稀音聖だけは例外だった。
自習と知った途端に教科書を閉じ、真っ直ぐに摩耶の元へとやってきたのだ。
それで何をするかと思えば、何もすることがないのでと、摩耶にちょっかいを出してくる。
それが、いつもの流れだった。
「聖やめなさい」
そんないつも通りの彼女に付き合わされて、天井摩耶は顔を腕で覆った。
肌綺麗だよねーとか言いながら、稀音聖がふざけて襲いかかろうとして来たからだ。
しかし、摩耶の予想していた聖からの襲撃はいつになってもやって来なかった。
「どうしたの聖―――って、え?」
摩耶は顔を覆っていた腕の隙間から外を覗くと、思わず素っ頓狂な声を上げた。
理由は、ついさっきまで摩耶に襲いかからんと両手を広げていた聖の姿が、忽然と消えていたからだ。しかも、それだけでは無い。
「あれ?」
摩耶の前の席にいた生徒も居ない。見れば、その前も、そのまた前も、摩耶を残して一列全員が居なくなっていた。と言うか、摩耶を残して、教室全員が居なくなっていた。
「……」
頭上に連続して浮かび上がる疑問符。何が起きたのか聞こうにも、相手がいない。
戸惑いを隠せず、摩耶はガタンと立ち上がり椅子を鳴らすと、言う。
「取り敢えず、職員室に行こう」
✕
「やっちまったよ〜」
誰もいない坂道で、善祇龍馬は頭を抱えて呻いた。
本日は平日。そして時刻は午前の十一時頃。
なのに、なぜ彼は学校におらず、誰もいない坂道をトボトボと歩いているのか。
答えは単純、寝坊である。
彼にしてはとても珍しい事だった。目覚ましよりも早く目が覚める彼にとって、イレギュラーすぎるこの寝坊は彼の心に思いのほか大きなダメージを与えていた。
「また誤解が増えちまう」
彼にとって、見た目で中身を計られることは一番許されないことであったりする。
金髪ツンツンで着崩した制服を着ておきながら、何を言ってるんだお前はと言いたくなってしまうかもしれないが、とにかくそうなのだ。
そのため、今まで遅刻などしたことはないし、授業もサボるどころか寝た事も無い。益々見た目を何とかすればと思われるかもしれないが、彼には拘りがあるらしい。
とにかく、あってはならない遅刻の精神的痛みに苛まれながら、龍馬は生徒どころか"誰もいない"つづら折りの坂道を登っていた。
左に視線を向けると、そこには下ノ山中学校。
"無駄に静かな"その姿を眺めながら、去年はここに通っていたんだよな、なんて今更ながらに振り返る。
流石に中学時代は金髪などではなかったけれど、それ以外は大体今と同じ感じだった。盛った他校に喧嘩を売られる事が多く、進路には悩んだものだ。
「って、俺はなんで思い出に耽っちゃってんだよ」
自らに下手くそな突っ込みをかます龍馬。想像以上に、ダメージは大きかったのかもしれない。
"静けさ"に何の違和感も感じることなく、ただただ坂道を歩いていた時だ。
「何なのよこれえええぇぇぇ!!」
静寂を引き裂く、甲高い絶叫が、轟いた。
✕
「何処に行ってしまったんだ、妹ヨ」
場所は三ヶ峯神社。その境内。
そこに、天然物故の煌めきを放つ金髪をなびかせ、寂しそうに眉尻を垂らせる一人の少年がいた。
アイゼル=ウェイダラー。"空気創造"を使う、通称"狂気の妹依存症"である。勿論、アイゼル自身がそう呼ばれていることなど知る由もないが。
彼と彼の妹であるエイゼルは、ある仕事で上ノ山に訪れていた。その仕事もついに終わり、さあ帰ろうという時のことだった。
「アニキ、ちょっと……」
林の中、小さく手招きをするエイゼル。どこか深刻そうなその表情に、アイゼルは慌てて彼女の元へと駆けていく。
「どうしタ?」
「ちょっと、耳貸して。大きな声じゃ言えないから」
そう言われ、アイゼルは彼女の口元へと自らの耳を寄せる。耳元で感じるエイゼルの吐息、風に靡く髪から漂う甘い香り、そのどれもが愛おしくこの瞬間を生きていて良かった、とアイゼルは感動すら覚える。
「ちょっと……したいから、そのへんで見張ってて」
極端に小さな声でエイゼルは囁く。辛うじてその言葉を聞き取ることが出来たアイゼルは、
「―――!?」
妹よりも恥ずかしそうに、しかしどこかから喜びを感じる、簡単に言えばとても気持ち悪い表情をしていた。
「任せロ任せロ、お兄ちゃんがしっかり見届けてやるかラ」
「ワタシじゃなくて周りを見ててよ。て言うか、絶対にこっち見ないでよ!」
頬を僅かに赤らめながら、エイゼルはバッと待てを示す手をかざす。アイゼルに言わせれば可愛い行動という認識でしか無く、正直話など半分聞いているかいないかだ。
「アーアーわかってますヨ。"絶対に"覗いたりなんかしないっテ」
だからこそ、彼女の目も見ずに適当に相槌を打ち、"守る気もない"約束を交わした。そう、守るつもりなど無い。他では滅多に見ることの出来ない彼女のあられもない姿だ、兄としては、見ないわけには行かないというものだ。それに、万が一他の輩に見られてしまうくらいなら、そこは血の繋がった兄が見ていた方が、彼女も安心するに違いない。
ごちゃごちゃと頭の中で御託を並べて、アイゼルはひとり強く頷く。見ることを前提とした言い訳の羅列であり、エイゼルからすれば何の意味もない。全く言い訳にはなっていない訳だが、興奮度が最高潮に陥った彼の脳はもうそんなことを思考する余裕なんて持ってはいなかった。
少しの時間を置き、
「よし」
アイゼルは、忍び足で彼女が歩んでいった方向へと進んでいった。
十二月でもはや落ち葉も消え、乾燥した地面を踏みしめる音だけが小さく小さく鳴っていた。
あともう少しだろうと、暫く歩いていアイゼルだが、流石に違和感を覚えた。
遠過ぎないカ?
かれこれ二分近く歩いたが、彼女は見つからない。音を立てないようにゆっくり歩いていたとはいえ、それでも結構歩いている筈だ。
だが、"それらしい"音も匂いも、聞こえて来ない。
「まさか……!?」
そして、彼の中で閃く。
「これは、神隠し!?」
という事があって、彼は隠された妹を見つける為に、神の祀られた、この三ヶ峯神社に赴いた訳である。
結果として、彼女は見つからなかった。まあ、彼女は神隠しにあったわけではないので当然のことである。そもそも神隠しにあうと神社に連れてかれるという話も無いのではないだろうか。
言ってしまえばエイゼルは逃亡をしただけなのだが、妹を愛してやまない彼からすればそんな答えはあり得ない、その解が導き出されることなんてありはしないのだ。
大好きな妹が見つからなくて、意気消沈している時だった。
「イッチばーん!!」
「ちょっと……待って……下さい……速過ぎます……」
快活な声と、対して途切れ途切れの疲労し切った声がアイゼルの耳に届いた。
「ン?」
何となく"聞き覚え"があった。
声の方向に首を向けると、そこには。
✕
「嘘だったとは言っても恥ずかし過ぎ!」
屈辱に表情を歪ませながら、林の中を楔を繋いで駆け抜けていく彼女の名は、エイゼル=ウェイダラー。"匣"の力は"血の楔"。
自らの血管を、楔として手の平から射出する力だ。対象に打ち込み引き寄せる事も出来れば、逆に自らの身体を対象に寄せていく事も出来る。
現に今も、次々と射出しては木々に打ち込み林の中を悠々と移動していくエイゼル。
「仕事も終わったし、アニキに見つかる前に行かないと」
苦々しい表情から一転して、エイゼルの顔に笑みが浮かんだ。発せられた声音にも、先程とは違ってスキップする様な明るさがある。
その理由は、今日が久々に遠出を許されている日だからである。
彼女達は現在、町外れの工業団地跡に居を構えているが普段はその敷地からの無断外出は許されていない。だからと言って、なにか許可を出せばいいのかという話ではない。彼女達工業団地跡の住人が敷地の外に出ていく事を許されるタイミングは、今回の様に仕事を請け負った時に限るのだ。
何故そうなのかと聞かれると、エイゼルは詳しく答えることが出来ないが、理由としては、エイゼル達の長が決めたものだと言われている。
面倒臭くても仕事を請け負う理由はここにあるという事だ。
そんな貴重な貴重な外出時間を、あんなヤツと過ごすなんてことはエイゼルにとっては受け入れがたきものだ。
ただでさえ普段から付き纏われるのに、大事なプライベートタイムを邪魔されてたまるものか。
エイゼルは鼻歌でも聞こえてきそうな嬉々とした表情を浮かべて、脳内では今日の予定がどんどんシュミレートされていく。
楔を駆使して林の中を駆け抜けて、次第にその終わりが見えてきた。
林を抜けると、目の前には住宅街による低い景観が広がっていた。
エイゼルはちょっとした高垣の上に出たようで、首をしたに向けると一、二メートル下にアスファルトが見えた。
「っと」
エイゼルは臆することなく林の中から飛び出し、道路の真ん中辺りによろけること無く綺麗に着地する。
「ここは……どの辺りかしら」
辺りを見渡してみるが景色に見覚えはない。アイゼルを撒くために適当に走ってきたのが仇となってしまった様だ。
「取り敢えず山を降りとけばいいでしょ」
もう一度周りを見渡し、人がいない事を確認する。確認を終え、エイゼルはガードレールを乗り越え崖の淵に立つ。
「まあこれくらいの高さなら何とかなるでしょ」
下にある地面まで数十メートルはありそうな崖下を見下ろして、彼女は余裕そうに呟いた。
「よし」
一つ呼吸して、彼女は飛ぶ。
全身に風を感じる。耳元を流れていく空気が轟音を鳴らし、二つ結びになった髪は天に向かって靡く。
地面が近くなってきたところでエイゼルは首を上げる。道の端、ガードレールの向こう側に植えられた木に向かって楔を放ち、太めの枝の上に華麗に着地した。
「んー?」
彼女はここで初めて違和感に気づいた。なんとなく気付いていたけれど、無視していたと言った方が正しいだろうか。
余りにも静か過ぎる街。そして、一つとして無い人の気配。
エイゼルは耳を澄ます。しかし、遠くから何か聞こえくることも無ければ、近くからも物音一つならない。
完全なる無音。
「まさか……」
彼女の中で一つ、とても嫌な予感が生まれてきた。
それには何故かとても強い確信があって、彼女の表情に淀みが生まれる。
変な汗を感じながら、エイゼルは目の前に手をかざす。
「"血の楔"」
彼女の手のひらから一本の楔が放たれる。それはどこか遠くまで伸びていくはずで、絶対に"目の前で止まることなんて有り得ない"。
そう、絶対に。
「……」
だが、彼女の思いとは裏腹に、手の平から射出された楔は眼前で見えない何かによって弾かれた。カンッ、と小さな金属音を鳴らして楔はエイゼルの手の平の中へと吸い込まれて行く。
「な……」
引きつった表情を作り上げて、エイゼルは楔を弾いた箇所に向かって手を伸ばす。
そこには何も無い。そのまま前方に体重を掛ければ枝から滑り落ち、彼女の体は宙空へと落下していくだろう。エイゼルは分かっていながらも、手を伸ばすことを止めなかった。分かっていたからこそ、止めなかった。
しかし、果たしてそうはならなかった。
何も無い空間の上で、彼女の手は何かに触れ、エイゼルの体は支えられてしまったのだ。落ちることなく、見えない壁に遮られて。
「何なよこれえええぇぇぇ!!」
×
「おっきいねー」
場所は、上ノ山の麓。ヒカリは目の前に聳える山を見上げて、感嘆の声を上げた。
「そうですね、でも目的地はもうすぐですから、頑張りましょうヒカリちゃん」
「うん!」
隣に立つ三ヶ峯麗が、ヒカリの頭をポンポンと叩いてエールを送る。ヒカリは嬉しそうに表情を綻ばせると、力強く頷いた。
隼人と摩耶が学校に行ってる間は、麗がヒカリの面倒を見てくれている。
そして今は、家に篭ってばかりじゃつまらない。と言うことで、麗がヒカリを外に連れ出しているのだ。
そんな二人の目的地は、麗の実家である三ヶ峯神社。山の中腹あたりにあり、上高の後ろに位置している。
「おっさんぽおっさんぽ楽しいなー」
「あんまり走ると、危ないですよ」
銀髪を揺らしながら駆けていくヒカリを、麗は微笑みながら宥める。
「ごめんなさーい」と、謝るヒカリだったが彼女は駆けることを止めない、楽しそうに前をゆくその姿を見て麗はそれ以上止めようとすることは出来なかった。
なんて平和な時間なんだろうと思う。
あれから麗の周りでは、事件めいたものは何一つ起こっておらず。隼人や摩耶にも、変化は見られない。結城も、もうすぐ退院できるようになるんだと聞いた。
日常が確かに戻りつつあるんだと感じながらも、どこかで、いつ終わってしまうのかと、不安が付き纏う。彼女は、麗は、何となく分かっていた。こんな平和は一時的な休息でしかない事を。まだ何も終わっていないんだと。
しかしだからこそ、そんな限りある安らぎを、大切にしたいとも思う。
「そそろかなー」
「はい、もうすぐ着きますよ」
気付けば神社のすぐ近くまでやって来ていた。林の中にポッカリと空いた、神社へと続く階段が現れる。
「なっがーい」
数えるのが億劫になりそうな長い階段を見上げて、ヒカリは今日二度目となる間延びした感動をこぼす。
「ここを登りきればつきますから、ラストスパートですよ」
「頑張るよー!」
ヒカリは気合いの雄叫びを上げるとともに、一気に階段を登り出す。
「ちょっと、ヒカリちゃん……!」
ワンテンポ遅れて、麗も慌ててヒカリの後ろに付いていく。
若さなのか、何なのか。いくら登っていってもヒカリのペースが落ちることは無い。それどころか、ゴールである鳥居が近づいていく度に元気が増しているような気がする。
はしゃぎながらどんどんと登っていくヒカリの三歩ほど後ろを、息を上がらせながら、麗がくいついていく。
そして、ゴールに辿り着く。
「イッチばーん!」
「ちょっと……待って……下さい……速過ぎます……」
鳥居の真下で、元気いっぱい飛び回るヒカリ。一体、どこにそんな体力があるのだと真面目に聞きたくなる。
荒く息を吐き出しながら、やっとの思いで麗も境内へと辿り着く。膝に手をついて、深呼吸。
毎日登り下りしていると言っても、こんな早いペースで登るなんてことは無い。疲れが現れてしまうのも、仕方が無いというものだ。
「ン?」
そんな声が聞こえて、麗は地面に向けていた首を持ち上げた。
視線な先にいた者は、平穏の、終わり告げる印だった。
×
役者は揃った。
偶然か必然か、それは誰にもわからない。
大きな使命、小さな思い。様々なものを抱えた様々な者達による騒乱が、始まろうとしていた。




