目算と、誤算
最初に感じたのは、鼻筋を駆け巡る激痛だった。
「っだぁ!!」
詰まった叫び声と共に、羽刈の上半身が飛び上がった。
「痛い痛い痛―――!!」
口元にまで流れ込んで来ていた"水"を飲み込む事によって、羽刈の言葉は自然と塞がれる。
「いい夢は見れたかしら?」
羽刈の頭上から声が届き、彼は声の方へと首を向ける。
そこには、羽刈の腰辺りを跨ぐように立つ綾葉の姿が。"薄暗く"うまく捉えることは出来ないが、その表情は薄ら笑いを浮かべているように見える。
薄暗い?
「ここ、何処だ?」
落ち着きを取り戻した羽刈は、夜目になった視界で辺りを見渡した。目の前には、冷えきったハンバーグに湯気の一つも見えないコンソメスープ、それと、乾燥しているのが目に見える白米だ。
「そうだ、俺、晩飯食ってて……」
意識を失う前の自らの状況を思い出して、羽刈は"足りない物"を探し始める。
「二人なら、そこで寝てるわよ」
綾葉は探し物の答えを言い放ち、羽刈から見えるテーブルの向こう側を指で差す。
体を持ち上げ、指し示された方向へと身を乗り出す。そこには、瞼を閉じて、安らかに眠るメディナと正義がいた。
「お前、まさか……」
「えぇ、ちょっとだけ手を加えさせてもらったわ」
恐る恐る問い掛けた羽刈に対して、綾葉は特に気にしているような様子を見ることが出来ない。
あっけらかんとしたその態度に、羽刈は苦笑いを浮かべる他なかった。
「ひとつ聞いていいか?」
「何かしら?」
「俺まで眠らせる必要は無かったんじゃないか?」
「あぁ、そのこと」
綾葉は羽刈から離れ、自身の背後にあったソファに腰掛けると、続ける。
「一人一人に配膳していく時じゃ仕込めないと思っていたから、メディナさんがどこかでキッチンを離れたタイミングで入れようと考えておいたの。そうしたら見事に……」
「俺らが、帰ってきた時か……」
羽刈と正義が、天井家の調査から帰宅した時、メディナはわざわざ玄関前待て出迎えに来てくれていた。綾葉はその隙を使って、調理中の鍋に仕込んだのだ。
「彼女の優しさに付け入ってしまった様で、本当に申し訳ないのだけど」
「ホントにそう思ってるのかよ」
彼女なら、肯定すると思っていた羽刈だったが、
「……本当よ」
静かに返された綾葉の声音からは、言葉の中に込められたいつもの冷たさを、感じ取ることが出来なかった。
「……んで、これからどうするんだよ」
どこかバツの悪くなった羽刈は綾葉から視線外し、壁に立てかけられていた時計に目をやる。中心辺りにあるデジタルモニタには、『AM』と表示されており、針は丁度三時を指し示していた。夕飯が午後の七時手前辺りだったので、あれから八時間は経過している事になる。
「万が一に備えてここは出るわ。駅前のネットカフェにでも泊まって、朝を待ちましょう。夜が明けてからが本番よ」
「こいつらはいつまで眠ってるんだ?まさか、このまま死ぬって訳じゃねえんだろ。……てか、目が覚めてから俺らの事を探しに来るよな。どうすんだよ」
畳み掛けるような羽刈の質問に、綾葉は「はぁ」と、嘆息をひとつ挟んで答える。
「死んだりなんてしないわ。短い間ではあったけど、寝床を提供してもらった恩があるもの。そうね、目が覚めるのは……」
ここで、綾葉も時計に視線を移す。
「今からだったらお昼から夕方の間ってところね」
「それで、目が覚めてからはどうすんだ」
「その事に関しては、心配する必要は無いわ」
「何を根拠に」
余裕のある表情を見せる綾葉に対して、羽刈は食い下がっていく。
「貴方が知る必要はない」
「は?」
答えになり得ない綾葉の応えに、羽刈は訝しんだ。
「……」
だが、綾葉は取り合わない。彼女は無言のままソファを立ち上がり、リビングを後にしようと扉に手をかけた。
「ちょっと待てよ」
思わず、呼び止めた羽刈の語気は強くなる。綾葉は開きかけていた扉を止めて、首だけで振り返り、言う。
「お願いだから、これ以上聞かないで」
それは羽刈が耳にしたことの無い鋭い声音。睨みつける様に細められた彼女の双眸からは、追求を許さんとする意思が伝わってくる。
「……わかったよ」
羽刈は、そんな綾葉の威圧感に負けて、何か反論することも出来ずに頷いた。彼女の抱えるものから、如何に自分が遠ざけられていたのか、静かに彼は痛感することとなる。
部屋をを後にし、二人はマンション前にある広めのスペースにいた。
時間も時間ということもあり、辺りは静けさに包まれている。時折走り抜ける車の音が、静寂を切り裂いて響き渡る。
「寒いな」
羽刈は白い息を吐き出しながら、自らの肩を抱き寄せる。
「そうね」
綾葉も同様にして自分の両肩を擦りながら、なんとか震えを抑えようとする。
駅前までは恐らく凡そ三十分。そこまでこの寒さに耐えなければならいのかと、羽刈は憂鬱に溜め息を漏らす。
少ない街灯を頼りにしながら、二人が歩きだそうとした時だった。
「待ちたまえ」
静寂を破る声が、二人の後方から届いた。
「あら、"やっぱり"貴方、飲んでなかったのね」
綾葉は振り返り、不敵に笑う。その視線の先にいる者を、見る。
「気付いていたのか」
視線の先にいた男、正義もまた、彼女の言葉を聞いて笑みを浮かべる。
「あ?どういうことだ?」
何が起きているのか理解出来ていない羽刈が、一人疑問符を浮かべた。
「単純な話よ。彼は私が仕込んだことに気付いていて、あのスープを飲まなかった。それだけ」
「気付いていた?なんで?」
綾葉が簡単に解答を示しても、むしろ羽刈の疑問は深まっていくばかり。
そんな羽刈の疑問に、今度は正義が答えていく。
「気付いていたのかと聞かれると、少し怪しいものだが……倉空、貴様が"味見を全て"と言った時に、警戒を起こしていたんだよ。まさか、本当に仕掛けてくるとは、我も少し驚いたがね」
全く、危険な奴だ。と、正義は半ば呆れ気味な付け足す。
「それで、なんでお前も、アイツが飲んでないって判ったんだ」
「それもそんなに難しい事じゃないわ。……"音"よ」
「音?」
羽刈は首を傾げ、綾葉は更に笑みを濃いものにする。
「人間はね、熱いものを口に含んでいく時に啜って口元で冷ましていくことが多いの。出来立てをすぐに食べようとする日本人なら、尚更染み付いている習慣よ。ヨーロッパの方だと、そもそも熱いものを飲まないからそんな習慣すら存在しないのだけれど、彼がそんな欧州の人種に見えるかしら?」
綾葉は正義を指差し、羽刈は無言で首を横に振る。
「でしょ、そんな彼が出来たばかりで熱々のスープを飲むときね、"無音"だったの。そこで何となく察したわ。それにしても流石探偵さんね、そんな些細なヒントで見破っちゃうんだもの」
綾葉は、口元に悪戯な笑みを貼り付けながらも、鋭く正義を見据える。
「それで、貴方は何をしに来たのかしら?」
「勿論、貴様らを止めに来たに決まっている」
笑みを崩し、正義は拳を構えた。力ずくでも、と言葉なくしても綾葉達にその意思を伝えていく。
「だと、思ったわ」
はぁ、と白い息をを揺らめかせながら、綾葉は羽刈に向かって徐に手を伸ばした。
「あん?」
何事かと顔を顰めた羽刈だったが、彼女の手の中に握られているものを見て、更に眉間に皺を寄せた。
「やるのか」
「ここで放っておいたら後々邪魔にしかならないわ。そもそも、彼がここで私達をみすみす見送るなんてこともないでしょうしね」
「それも、そうかもな」
羽刈は、乱雑に綾葉の手に握られていたものを、千円札を受け取った。
「頑張れよ」
受け取ったその紙幣を、羽刈は、口の中へと放り込んだ。
"金は時成り"。
取り込んでは逃がさない"時"が、羽刈を中心に広がり始める。ドーム状に膨らんでいった膜は、半径十メートルほど広がった所で、その膨張を止めた。
「これが……」
一度は体験していた正義だったが、発動の瞬間を初めて目の当たりにし、思わず息を飲み込む。
「驚いてる場合じゃないんじゃないかしら」
声が耳に届いた時、綾葉は既に目と鼻の先だった。
「くっ!?」
視界の隅に映った彼女の手の甲から赤い光。
正義は慌てて後方に跳躍し距離をとる。着地と同時に正義も"匣"を解放し、"鉄拳制裁"を発動。
肘のあたりまでを包み込む、鋼の篭手が現れる。
「休む暇なんてないわよ」
止まることなく、綾葉は距離を縮ませようと走る。
「分かっている!」
対して正義も、今度は綾葉に向けて走り込む。
互いに腕を伸ばせば届く距離にまで詰め、視線を交錯させる。冷静さの残った綾葉の冷たい瞳と、闘士が剥き出しになった正義の熱い瞳。
一秒に満たない睨み合いの後、先に手を出したのは、
「ふんっ!」
正義だ。
走り込んだ勢いを上乗せした、素直な右ストレート。直線的故に、スピードも、勢いも、どこまでも強烈な一撃だ。
「単純すぎよ」
綾葉は素早く右手を翳し、大きな水泡を生み出した。
正義が放った拳の延長線上に現れたそれは、勢い良く打ち出せれた彼の腕を受け止める。
パァンッ!!と水面を叩く破裂音が轟き、飲み込んだ拳を中心にして飛沫が打ち上がる。
「っ!?」
水泡の内部へとめり込んだ腕の勢いは、見るからに減速していた。恐ろしいまでの抵抗が、正義を襲う。
動けなくなった正義を狙って、空いた綾葉の左手が迫る。
急いで正義は飲み込まれた腕を引き抜こうと力を込める。
「だから、単純すぎなのよ」
綾葉は笑い、その瞬間に、正義の腕を包んでいた水泡が弾けた。
突如として抵抗を失った正義の腕が、勢い良く後方に振り抜かれる。予期しない引力が彼を背後へと引っ張り、正義の身体が仰け反る。
その隙を逃すまいと、綾葉は屈み込んで正義の懐へと飛び込こんでいく。弾けた水泡が、踏み込む綾葉を濡らす。
正義は近づかれまいと、振り抜いた右腕の勢いを利用して右足を軸にした裏拳を繰り出した。屈み込んだ綾葉を狙って、斜め下へ。
風を切る太い音が綾葉の鼓膜を揺らす。
このまま踏み込んでは危険だ。そう判断した綾葉は、重心を左側に傾け踏み込みと同時に跳躍。地を転がりながら、正義との距離をとった。
標的を見失った裏拳は、止まることなく先程まで綾葉のいた場所へと叩き込まれる。地面に敷かれていたタイルを打ち砕き、破片が、土煙が、宙を舞った。
ジャラリと音を立てながら、正義はゆっくりと立ち上がる。
「死んだらどうするのよ」
「それはもう、致し方ないと我は思っている」
服や篭手に付いた土埃を払いながら、正義は難なく答える。声音に、これと言った躊躇いは感じられない。瞳に宿る闘志とは裏腹に、どこまでも冷たい一言だった。
「本気なのね」
「手を抜いたことなど、一度も無い」
正義は、再び拳を構える。
合わせて綾葉も、正義の出方を伺いながら、一歩前へ。
互いに距離を見合いながら、次の一手を模索する。水泡で作られた水溜りが、正義の足元で音を鳴らす。
「行くぞっ!」
煮えを切らした正義が、駆け出す。
その瞬間に綾葉は即座に屈み込み、地面に、広場一面に敷かれているタイルへと手を着いた。
「"水疱に帰す"!」
宣言。"匣"の灯火は赤く、強く。
タイル全体が波打ったかと思えば、溶かされていく粘土のように形を崩し、その全てが液体へと姿を変える。
足場を失った正義の身体が一瞬宙を浮く。駆け込み前方に体重のかかっていた影響で、つんのめる様な姿勢で倒れ込む。
綾葉は低い姿勢のまま、跳躍に近い形で正義との距離を詰めにかかる。倒れかかっていた正義の身体を、下方から両方の拳を掴んで捉えた。
「っ!?」
正義の表情が歪む。
綾葉は薄く笑っていた。"匣"の光を、その顔に反射させて。
"鉄拳制裁"の篭手が波を打つ。数秒で篭手は液状化を果たし、綾葉の手が改めて裸になった拳を掴む。
拳全体を、徐々に違和感が襲い来る。危険信号が、正義の脳内に響き渡った。
「ふんっ!」
強く手前に腕を引いたが、彼女は手を離さない。女性らしく伸びた爪が、ギリリと正義の皮膚に喰いこみ、僅かに鮮血を垂らす。
「それなら!」
正義は手前に引いた腕を、今度は強く押し込んだ。
「っ!」
怯む綾葉。彼女の足が、半歩後ずさる。
このまま、押し潰そうって訳ね。
もし押し負けて倒されてしまったのならば、例え正義の"鉄拳制裁"が解除されていて、綾葉に"水疱に帰す"があろうとも、男の真上からの力に勝てるとは思えない。
何としてもここで決めさせてもらうわ。
綾葉は堪えるために後方に寄せていた重心を、押し返すために、前方へ全てを乗せた。
正義の拳の液状化はほぼ終わっている。あと数秒も待てば彼の拳の皮膚、その下の血管までも消すことが出来るだろう。
綾葉の中に生まれる、勝利への僅かな余裕。
正義は、そんな小さな力の緩みを見逃す事は無かった。
体重の乗せられた綾葉の足に目を移し、前に出されたその足首へ、地を這うような低い回し蹴りを放った。
「っ!?」
すくい上げるようにして綾葉の足が水しぶきを上げながら地を離れる。視界が九十度回り、浮遊感が綾葉を襲う。
驚愕に力が抜け、正義の拳を掴んでいた手が離れる。
"水疱に帰す"の効果が中途半端に発動して、皮膚を失うまでに留まった正義の拳から微量の血が舞う。
痛みに顔を顰めながらも、正義は浮き上がった綾葉の身体を、薄く水を張る地面へと叩きつけた。
「がっ!?」
綾葉の身体が背中から地面に打ち付けられて、派手に水を打ち上げる。
衝撃に、肺から一気に酸素が吐き出され、綾葉の口から嗚咽が漏れた。一瞬暗転する視界。次に景色を捉えた時には、正義が覆い被さる様に迫って来ていた。
正義は左手で綾葉の額を押さえ込み、右手を内ポケットへと滑らせる。
「させない!」
綾葉が、空いた手でもう一度"水疱に帰す"を眼前に放つ。
「くっ!」
視界は青に染まり、突如として空気が失われた。勢い余って正義はその水を吸い込み、気管へと入り込む。
「っぁ!?」
噎せ返る正義。隙を見せた正義の懐へ、綾葉は膝を立てて蹴りを繰り出す。
鳩尾付近に激痛が走り、今度は大量の息を吐き出す。水泡の中で、沢山の気泡が生まれた。
綾葉は左側に転がり、正義の下から脱する。同時に水泡も崩れ、バシャリと水たまりの上で弾けた。
全身から水を滴らせながら、綾葉は立ち上がる。
「もう、諦めたら?」
未だ咳き込む正義に、綾葉はゆっくりと歩み寄る。
「このままだと、貴方を殺すしかなくなってしまう」
正義の脇に立ち、綾葉は両手を彼の上に翳した。
惨いから、あまり使いたくは無かったのだけれど……。
"匣"に宿る光が、更に強く光った、瞬間だ。
「諦めるのは……」
「?」
「貴様の方だっ!!」
正義は、ガッと体を捻り、自らの上に翳された綾葉の両手に鋭い視線を向ける。それと同時に、内ポケットに滑らせていた右手を素早く引き抜き、翳された、彼女の両手に向けて思い切り振るう。
とても短い時間だった。流れる様に行われた正義の行動を、綾葉はまるでスローモーションの様になった景色で追いかける。
正義の手に握られていたのは、三本のボールペン。ノック式のそのボールペンのペン尻が、綾葉の手の平に向かって繰り出されていたのだ。
「何をっ――――」
驚く暇すらなかった。
何故なら、次の瞬間には、彼女の全身を痺れるような何かが駆け巡ったからだ。
「っ!?」
さほど強くはない衝撃。しかしそれは、正義に反撃を与えるには十分過ぎた。
低い姿勢で、正義は綾葉の懐に潜り込み、いつの間にか発動させていた"鉄拳制裁"によって包まれた右腕を、その腹に叩き込んだ。飛び込んだ勢いの乗算された掌底。
綾葉の身体が、腹部を支点にくの字に折れた。そして、そのまま地につくことなく数メートル後方へと吹き飛ばされ、着地したかと思えば、抵抗も出来ぬまま水溜りの上を二度三度と転がって行った。
「ぁっあっぁ……!!」
綾葉は腹部を抑え、声にならない呻きを漏らす。
倒れる彼女を冷たく見つめながら、正義は近寄っていく。
「……な、にを?」
やっと声になった綾葉の最初の言葉は、そんな疑問符だった。
ピチャリと音を立てながら綾葉の目の前まで来た正義は、冷えきった眼を綾葉に向けたまま答える。
「ショックボールペン、と言うものを知っているか」
正義は先程綾葉に叩きつけたボールペンを手に持って言う。
「このペン尻を押し込むと電流が流れ込む仕組みでな、普段はイタズラなどに使われるものだ。こんな時の為にと思って、今日買い込んで置いたのだよ」
「おまっ、あの時のは!?」
正義の言葉を聞いて、遠方にいた羽刈が声を上げた。
「そう、少年と会った帰りだ。本当は隙を見て手に入れる予定だったのだが、まさかあそこまで監視体制がガバガバだとは思わなかったぞ」
薄く笑いながら、正義は羽刈を見る。
バツを悪そうにして、羽刈は正義の目を見ることなく俯いてしまった。
そんな羽刈の様子を見て正義は直ぐに綾葉へと視線を戻し、
「ただ使う分には、コイツは大した効力を見せない。所詮イタズラ用、それは当たり前の事なんだがな。だがどうだろう、全身に水を浴びて、程よく電気が通るようになったとすれば、話は変わる。末端までとは言わなくても、敵の力を一瞬奪う力を得る事が出来るわけだ」
それを踏まえた上で、今回正義は戦いに挑んでいた。
綾葉に多く"水疱に帰す"を使わせ、彼女自身がその力で水を浴びさせて行く為に。
「まさか、ここまで上手くいくとは、思ってあなかったが……なっ!」
正義は屈み込んで、倒れる綾葉の襟首を掴んみ、持ち上げた。
「もう、諦めてもらおうか」
だらりと首をもたげ、綾葉は何も答えない。
「これから、どうしようって言うんだよ」
何も言わない綾葉の代わりに、羽刈が息を荒らげて問う。
「貴様らには聞きたい事が山ほどある。特に倉空、貴様は何を知っている?何を見てきている?何を、しようとしているのだ!
」
正義が強く叫んでも、彼女は何も答えない。
俯いたまま、何を言おうとは、しない。
「そのまま逃げ切れると思っているのか!!」
声を荒らげて、正義は更に高く綾葉の襟首を持ち上げる。足が地を離れるかスレスレのところまで引き上げられ、「ぅっ!」と綾葉は初めて声を出した。
「おいお前――――!」
「動くな!」
踏み出そうとした羽刈の足を、正義の怒号が止める。
見た事のない、正義の怒りに染まった横顔を見て、羽刈の背筋に冷たいものが走った。
「……なくちゃいけないの」
正義の腕によって吊るされた綾葉の口から、小さく声が零れた。
怒りから、怪訝へと表情を変える正義。
何事かと、羽刈も綾葉を注視する。
「私はね、精算しなくちゃいけないの。謝らなくちゃいけないの。私が代わりに、終わりにしないといけないの!!」
小さな声はやがて叫びへと変貌し、綾葉はもたげていた首を勢い良く振り上げた。
見開かれた双眸が、正義の瞳を射抜く。怒りとも悲しみとも取れる、感情の混濁した表情で、綾葉は叫ぶ。
「止まるわけにはいかないの!やらなくちゃならないの!この選択が正しいとか間違ってるとかそんなものはどうだっていい!こうしないと、ずっと、私は……!!」
彼女の言葉の意味。正義には、欠片も理解することが出来なかった。
ただ、開かれた瞳から溢れ出す雫が、言葉の根幹にある彼女の感情を現していた。
それはきっと、後悔。
彼女が何をして、どんなことに悔いを覚えてきたのかは分からない。けれど、その後悔がどれだけの重みを有しているのかは、正義にも理解する事が出来た。
「貴様は……」
彼の中に生まれた、一抹の同情。正義を求めるが故の、"彼女の中の正義"への理解。
それが、
「だから、行かせてもらうわよ」
「っ!?」
誤算となった。
スルリと、正義の手の中から綾葉の体が抜けていく。手に込めていたはずの力が、いつの間にかなくなっていた。
何が、起きた?
疑問と共に、感じたのは腹部への違和感。手を当てるとネットリとした感触があった。正義はその手を、ゆっくりと視界に運んでいく。
「なっ……」
赤、だった。テラりと光る、赤だった。
グラりと、彼は膝から崩れ落ちる。
首を下に向けると、腹部を中心にして、赤い液体が、血液が垂れ流されていた。血は正義の体を伝って、地に敷かれた水の中へと流れ込んで奇妙な模様を描いていく。
「なにを……した……」
正義は顔を上げて、綾葉を見る。
彼女は、残る痛みに表情を歪めながら、それでも口元にだけは薄い笑みを浮かべて、
「教える訳、ないでしょ?」
と、答えた。
「メディナさんを悲しませたくないから、救急車は呼んで上げる。それまで、死なないように頑張って頂戴」
いつも通りの彼女らしい、感情の少ない声音で付け足すと、正義を一瞥して、その場で見を翻した。
遠くなっていく彼女の背中。引き止めようとしても、彼女に届く程の声を上げる力は、もう彼には残っていなかった。
腰を支える力も失って、正義の身体が仰向けに倒れる。いつの間にか"金は時成り"は解除されていたのか、背中にはタイルの硬い感触が伝わってきた。
雲の少ない、青黒い空を睨みながら、正義は一人、拳を握り締めた。
「お前、さっきのは、何なんだよ!」
救急に連絡終えた綾葉に向かって、羽刈が慌てた様子で声を掛ける。
「貴方にも教える事は出来ない。と言うか、知る必要性がないわ」
綾葉は耳からスマホを離し、"水疱に帰す"によってそれを液状化させる。乾いたタイルの上にシミを作り、綾葉のスマホは跡形もなく消えた。これで、事件として操作が始まったときの物証が消えた。
正義が綾葉の名前をつける出す事もあるかも知れないが、警察の手で解決できる事案でないことを彼も分かっているだろう。それに、万が一そうなったとしても、刺した瞬間の目撃情報は"金は時成り"の力の影響で見つかる事は無い。第一発見者としての証拠のスマホも今消した。
綾葉が疑われたとしても、物的証拠は何一つ見つからない訳だ。
「それより、早く休みましょう。流石に体が堪えるわ」
「休むって、病院行ったりしなくていいのかよ。ボロボロだぞお前」
「問題ないわよ。それに時間が無いの。今やらないと、何の為にここまでやってきたのか、分からなくなってしまうわ」
綾葉はズキズキと痛む全身の傷に顔を顰めながら、足早に歩みを進めていく。
その後ろを、羽刈が不安に満ちた表情で付いて行く。
彼女が何を背負ってここまで来ているのか、月の隠れた夜の様に真っ暗で、羽刈には、何も見出すことが出来なかった。
ただ無我夢中に歩み続ける彼女の背中を、見つめる事しか、出来ない。




