善なる者、悪なる者の揺らぎ
「それじゃ、調査に関しての最終確認でもしましょうか」
それは、襲撃事件の翌日のこと。
場所は、変わることなく正義探偵事務所。
そのリビング兼応接部屋にて、綾葉のそんな一言から始まった。
「俺は寝ててもいいか?」
羽刈は、気に入ったのかなんなのか来客用のソファに仰向けに寝転んで、首だけを対面のソファに座る綾葉に向けて気だるげに言った。
「アンタにも聞いてもらわなくちゃいけないから、それは却下よ」
「まじかよ……」
あからさまに嫌そうな表情を作って、羽刈は天井へと首を向け直す。
「確認と言うのは具体的に何だ?」
綾葉の背後、窓際の大きなデスクの前に腰掛けていた正義からそんな疑問符が投げられる。
「昨日はゴタゴタして、私達の、と言うよりはほぼ私なんだけれど……何も知っている情報を話すことが出来なかったから、その事について貴方達にお話しておこうと思って。その方が捜査も捗るでしょう?」
「……」
綾葉は肩越しに正義へと視線を送り、正義は無言で頷いて理解を示した。
「じゃあ、早速説明を始めたいんだけれど、ホワイトボードとかはないのかしら?」
「何故だ?」
「こういう時はよくホワイトボードを使って相関図とか書いてりしているでしょう?私そういうのに憧れてたのよね」
「それはドラマに影響されすぎだ。そもそも、その手のは刑事ドラマだろうに、期待を裏切ってしまうようで申し訳ないが我らの事務所にホワイトボードはない」
若干呆れ気味に正義が説明すると、綾葉は肩を落とし、見るからに落ち込んでいた。
「そんなにホワイトボード使いたかったのかよ……」
「ええ」
引き気味に羽刈が問い掛けたのに対して、綾葉は力強く肯定してみせた。
だが、寧ろその行動は羽刈を益々引かせ、
「お前やっぱ頭悪いんじゃ」
と思わずこぼれさせた。
「トイレに流してあげるから、ちょっとそこに立ちなさい」
「すいませんでした」
飛ぶようにソファから立ち上がった羽刈は、そのまま流れるような綺麗なフォームで土下座へとシフトした。
美しとすら形容できそうな羽刈の土下座姿を目にして、
「仕方ないわね、今回だけよ」
と、許しを出した。
「お二人は仲がとても良いんですね〜。お付き合いしたりしてるんですか〜?」
その時、台所の方からそんな間延びした声がリビングに向かって届く。メディナが四人分の湯呑みをお盆に乗せ、リビングへとやってきた。
「そう見え……」
「違いますし有り得ないわ」
嬉しそうに顔を上げた羽刈の言葉を遮って、綾葉は強く否定の意を唱えた。
またしても羽刈は床に顔を沈め、メディナは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そろそろ、本題に入ろう」
メディナが湯呑みを全員に配ったところで、正義が口を開いた。
綾葉は湯気の立つ緑茶を一口啜ると立ち上がる。
「口頭で行かせてもらうけど、構わないのよね?」
「いつもそうしてもらっているからな、なんの問題もない」
言って、正義は傍らから手帳を取り出した。
視線を綾葉へと向けて正義は頷き、準備が出来たことを伝える。
「ここまで改まってしまってから言うのも何なのだけれど、正直私が持ってる情報はそこまで多くはないわ。きっと調べたらすぐに分かっちゃう事」
綾葉はポケットからスマホを取り出し幾らか操作して、画面を正義へと向ける。
明るいディスプレイの中には、襲撃時にも見せられた三人の少女が並ぶ例の画像が写っていた。
撮影者であろう真ん中の少女はとても快活な笑みを浮かべており、その写真一枚で明るい正確なんだと自然と伝わってくる。その左隣には倉空綾葉。不器用だが、一応の笑顔をは見せていた。
そして、一番右端の少女。黒い艶のある長い髪、白銀に煌めく瞳、少女らしい幼い顔つきをしていながらどこか大人びた空気を漂わせている。その面影には見覚えのある正義だったが、彼の知っている姿とは "雰囲気が全く異なっている"。
「そう言えば、最初に見せた時この中の子を知っている雰囲気だったけれど、どうなのかしら?」
「……」
「知人を売れないだ何だは、今となっては意味の無いことだと思うわよ?」
押し黙っていた正義に向けて、綾葉は妖艶にも似た表情で促すように問い掛ける。
はぁ、と正義は嘆息を吐いて、
「一番端の、小さな少女に見覚えがある。今は、"随分印象が変わってしまったようだが"」
「印象が変わった……どういうことか、詳しく話してもらえないかしら?」
正義の言葉に、綾葉は片眉を上げて訝しむ。
「我の知っているそこ少女は、そんな黒い髪をしてはいなかった。丁度その瞳の様な綺麗な銀髪で、逆に瞳は黒水晶の様な煌めきがあったと思う。言うなれば、そこに写っている少女と我の知る少女は "雰囲気が正反対" という事だ」
「何だそれ、姉妹にしては体の特徴違い過ぎるぜ。てかもうそれ、知人とは言えない気がするんだが?」
「顔立ちなどは全く一緒と言っても過言ではないのだ、もしかしたら何か事情があって変わってしまった同じ人間という可能性も捨て切れんだろう」
「義理堅いというか、なんと言うか……」
暑苦しい奴だなあ、と呆れ気味にぼやいて羽刈は残り少なくなったお茶を一気に飲み干した。
「おかわり」
バッ、と羽刈が湯呑みをメディナに向かって差し出すと、
「はい」
と、メディナは快く湯呑みを受け取って立ち上がる。
「拒んだって構わないのに」
綾葉がジトっとした目線を羽刈に送りながら呟いたが、メディナは何も言わずにリビングへと歩いていった。
「素直なのね、あのメディナって子は」
視線を正義に戻して綾葉が言うと、正義は手帳から目線を外してリビングの向こうのキッチンへと向けた。
「メディナは元から人を疑うことが少ないが、あの様子だと貴様らに心を許してしまっているのだろうな。我としては、あまり感心できることではないのだが」
そう言った彼の声音からは、長い付き合いになるであろうか、既に諦めた様子が感じ取れた。
「……で、もう聞きたい事はないのか?」
「そうね、最後にこれだけ聞かせて頂戴。その子の名前、分かる?」
「名前は確か、"ヒカリ" と呼ばれていた筈だ」
「ヒカリ、ね……」
何かを確かめるように、綾葉はその名を繰り返す。
「因みになんでその子を知っていのかしら」
「そこまで言わなくてはならないのか」
安々と情報を受け渡すことを快く思っていないのか、正義は苦い顔を作る。
「どうせ調べてもらって後で話してもらう事になるでしょうから、その手間が今、回ってきただけだと思うわよ?……ここまで言っても話す気が起きないって言うのだったら、こっちは人質を使うしかなくなってしまうのだけれど」
「っ……」
正義は一瞬申し訳なさそうに顔を下げたが、
「以前に色々あって知り合った少年が連れていたんだ。その時に少年が少女のことをヒカリと読んでいた、それだけだ」
「その少年の名前は?」
「……天井隼人だ……」
「そう」
綾葉は静かに相槌を打ったが、その表情には僅かな笑みが浮かび始めていた。
「隼人君が"匣"使いだったら、その力の内容も教えて欲しいのだけれど」
「それは……!」
「知人の情報を売りたくない貴方の正義心溢れる考え方は嫌いじゃないけれど、知らないなら調べてもらうだけだし、何度も言いたくはないけど、人質がいることを忘れないで頂戴ね?」
語気に力を持たせ綾葉が告げると、正義は唇を噛み締めた。
屈するしかない状況に、悔しさを感じているのだろう。
「"漆黒の刃"という、影から刃を出すことが出来る力だった筈だ」
「……その刃は、"匣"を消す力を持っている」
「……っ!?」
綾葉の言葉に、正義の体は戦慄した。
「何でその事を……、って顔してるわね。でもごめんなさいね、話すことは出来ないの。……あの子の名誉の為にも」
「貴様は、何者なんだ」
「大した人間じゃないわ。ただ貴方達を利用している犯罪者よ」
言いながら、綾葉は微笑む。
正義はデスクの下で人知れず拳を握り締めることしかできない。
例え、手の平の上で踊らされるだけだと判っていても。
正義は、自分の想像以上に無力だった。
「貴方に確認したいことはもうないわ。ここからは私の話に戻すことにしましょう……と言っても、あまり説明することはなくなってしまったのだけれど」
綾葉は再び例の写真の表示されたスマホの画面を正義の眼前へと運んだ。
「この中央に写っている子は、天井摩耶。貴方の知人である天井隼人の妹よ」
「なに……!?」
「そして、私が調査をして欲しかったのはこの天井兄妹について……だったのだけれど、天井隼人が"匣"所持者であることは判明したし、ヒカリという少女が彼との近くに存在していることも分かった。後調べて欲しいのは天井摩耶についてなのだけれど、これも、知人として天井隼人に直接訊けば直ぐに判りそうね」
淡々と話を終えた綾葉は、
「簡単にお仕事が終わりそうで、良かったわね?」
と、何処か挑発的とも取れる笑みで正義へと問い掛けた。
「我に、友を騙せというのか!」
「嫌とは、言わせられないわね」
笑みを消した綾葉の瞳は、虚言などではないと語っていた。
「それじゃあ、我は調査に向かうことにする」
それは、翌日のこと。
場所は、変わらず正義探偵事務所の一室。
濃い紺色の背広をピッシリと羽織り、真っ白のワイシャツの中心には真っ赤なネクタイがこれまたピッシリと締められている。
髪をワックスで綺麗に後ろへと流し、普段はかけることのない黒縁の眼鏡をかけているのは、正義だ。
今日は綾葉達と約束した調査の日であり、そのための変装を正義はこなしている訳である。
だが、見た目は完全に筋肉質なインテリヤクザ。変装だ云々だ以前に近づこうとする人間は少ないのではないかと思える。
「……なんで、俺も行かなくちゃいけないの」
そんな正義の隣には、スカジャンを羽織った見た目下っ端チンピラの入宮羽刈。
顔を顰め、背を曲げたダラっとした立ち方。明らかにやる気がなそうで、文句を唱えた声量にも覇気がない。
「一応監視役は必要でしょ?人質がいるって言ったって、彼が勝手な行動に出ないとは限らないし。彼女を見捨てて一人で逃げちゃうかも知れないじゃない」
冗談めかして綾葉は言ったが、
「……彼はそんな事は絶対にしません」
と、すかさずメディナから反論が唱えられた。
メディナと綾葉は今、来客用の大きめのソファに並んで座っている、と言うよりは座らされている。
綾葉は常にメディナの手首を握って、"水疱に帰す"によっていつでも殺められるようにしている。
メディナは逃げるつもりなど、ましては正義を裏切る気持ちなど毛頭なく、それについては綾葉自身も分かってはいるが一応の為とこの形をとった訳である。
「分かってるわよ、冗談なんだからそんなに怒らないで頂戴」
綾葉は相も変わらず軽い調子でメディナを宥めると、視線を再び正義達へと向けた。
「そうは言ってもよ、コイツがあの武器取り出したら俺じゃ勝てないぜ。暴れられたら俺に勝ち目はないんだが?」
我はそんな事はせん、と正義が口を挟んだが、綾葉はとりつかずに言う。
「アンタが戦う必要なんてないわ。勝てないのなんて私だって判ってるし。万が一正義さんが暴れるような事になったら、私にワン切りしてアンタはすぐに"金は時成り"で彼を閉じ込めて」
「費用は?」
「後払いでいいでしょ」
「了解」
交渉は成立。羽刈はうんうんと頷くと、その場で身を翻す。
「んじゃ俺外行ってっから、よろしく」
ガチャリと羽刈は部屋を後にし、正義もそれに続いて行こうとした。
「判ってるわよね?」
しかし、綾葉の言葉が正義の動きを遮った。
「何がだ」
首だけを動かして正義は背後を見る。
綾葉が、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「人質がいて、アナタは私達を裏切れない。私達の言うことを聞くしかできないこの状況を」
「何度も言わせるな、我は裏切ったりなど断じてしない。人の命を疎かにする事は、決して正義のしていいことではないからな」
「そう、なら安心だわ」
「もう行っていいか」
「ええ、行ってらっしゃい」
ガチャりと扉を開け、正義も部屋を後にする。
「くっ……!?」
扉を抜けた廊下で、正義は力強く手を打った。
ジンジンとした痛みが、手の平から伝わって来る。
「何が正義だ……!!」
正義を名乗り、正義を体現しておきながら、いとも容易く屈してしまった。ましてや、メディナも隼人もヒカリも、何もかもを巻き込んでしまい、危機に晒してしまっている。
"正しき"を守るとしてきた者として、とても、悔しかった。
思えば、十一月のあの夜も何も守れていなかったではないか。
一人の少年少女が命を落とし、一人の少年は失意に沈み、一人の少女は消えない傷を背負わされた。
襲い来た悪も成敗することが出来ず、若き少年には重すぎる責任を被らせてしまった。
自分は、こんなにも無力だったのか。
口ばかりの自分とは、サヨナラしたんじゃなかったのか?
心の内に生まれるそんな言葉。正義の中の、もう一人の自分。
そうだ。
決めたんだ。
正義の味方として、善を守り、悪を滅していく存在になると。
正義は改めて、拳と拳を打ち付ける。
今度こそ、必ず、何もかもを守ると誓って。
「で、俺らは今何してんの?」
「これからの細かい計画を立てる」
時刻は正午に差し掛かろうかというところ。
場所は、下ノ山中学校付近の喫茶店。
正義と羽刈は窓際の小さな二人掛けのテーブル席に腰掛けていた。
正義は持ってきていたノートパソコンをバッグから取り出し展開。対して羽刈は、注文したホットコーヒーをちまちま啜りながら暇そうに外を眺めていた。
喫茶店があるのは小さな商店街で、お昼時になったからかちらほらとスーツ姿の人間が増えてきていた。お昼休みのサラリーマンが、昼食をどこで取るかを物色してるのだろう。
商店街自体は今時にしては珍しく盛んな様子で、お昼のかき入れを狙おうと店前で色々な人が大きな声を上げている。夕方になったら、学校終わりの学生で溢れそうだな、と羽刈は騒めく外を眺めながら思う。
「それって、結構時間かかんの?」
視線を外から正義へと移して、羽刈はノートパソコンと睨み合う正義へと問い掛けた。
ん?と、正義は一度ノートパソコンから顔を上げた。
「いや、道具の整理や対象者の最終確認ぐらいだから大して時間はかからんが……相手が学生だからな、そもそも放課後になるまで動く事は無い。と言うか出来ない」
「それならこんなに早く出てくる必要はなかったんじゃないか?」
ため息混じりぼやいた羽刈の言葉を、正義は首を横に振って否定する。
「何があるか分からんからな、早め早めに動いておいて損なんてことは無い」
「俺は大切な時間を損してるんですけどー」
羽刈は体を後ろに大きく伸ばして、正義から視線を外した。
それを見て、正義も再びノートパソコンへと目を落とす。
ディスプレイに映っているのは、最近流行りのチャット型コミュニティツール。
やりとりの相手は、天井隼人だ。
放課後に会う約束を取り付ける事が目的、と言うのが建前。密かに情報を抜き出す、が本音である。
監視だなんだと言われたので、初めは建前を利用してこのツールを使用しようとしていたのだが、蓋を開けてみれば羽刈は付いてくるだけで何もしない。ノートパソコンを覗き込む様子どころか、そもそも興味を持っていない雰囲気すら感じる。
がさつ過ぎる監視体制に、溜息をつきそうになったが、正義にしてみればそれは好都合。
正義は、羽刈の目につかない今の内に、隼人から話を聞き出そうと考えたわけである
『今日の放課後、時間は空いているだろうか。少し、話したいことがあるのだ』
正義が文章を打ち込むと、数秒待たずして返信が来る。
『突然話って……何かあったんですか?』
恐る恐る、文面だけで隼人からそんな様子を感じ取れた。
『詳しく話している時間が無いんだ。すまない。簡単に説明だけさせてもらう』
正義は素早く打ち込み、また次の文面に向けてキーボードを叩き始める。
様子を伺っているのか、隼人からは返信がない。
『先日、"匣"所持者からの襲撃を受けてしまってた。そこでメディナを人質に取られて、その命と引換に、天井隼人、天井摩耶、そしてヒカリ君の調査を命じられた。我の力不足で陥ってしまった事態だ。本当に、申し訳ない』
文章を打ち込んでいく度に、自らの不甲斐なさを改めて思い知る。ゆっくりと悔しみが込み上がってくるのを、正義は胸の内から感じ取った。
『そんなことが……』
困惑しているのだろう、隼人からそれ以上の言葉は続いてこなかった。
『それで、会うことは可能だろうか』
『はい、それは大丈夫だと思います』
『そうか……それなら、会う前に少年に訊きたいことがある。倉空綾葉、入宮羽刈という人物を知っているだろうか?』
正義が打ち込むと、数秒の間の後に、
『すいません。知らない名前ですね……それがきっと、襲ってきた"匣"所持者ですよね?』
『ああ』
『どうして、僕達の名前を……。というか、僕に妹がいたこと、正義さんに言いましたっけ?』
『いや、依頼主の倉空綾葉の口から初めて聞かされたよ。正直、我よりも彼女の方が少年達に詳しいんじゃないかとすら感じた。故に少年に訊いてみたのだが……』
間髪を入れずに、正義は発言を続けていく。
『では、摩耶君からこの名前を聞いた覚えもないという事だね?』
『そうですね……多分、聞いたことは無いと思います。摩耶が秘密にしている可能性もあるけど、何の意味があるのか……』
困惑を隠せていない隼人からの言葉を見て、正義の中に疑問符が浮かび上がり、彼はコーヒーを一口啜ると顎に手を置いた。
調査対象が依頼主の知り合いで、調査対象が依頼主のことを認知しているというのが、大体のパターンになる。浮気調査や、行方不明者の捜索などがその場合に入る。
逆に調査対象が依頼主のことを認知していないで、依頼主からの一方的な認知からの調査によって、ストーカー行為の手伝いをさせられていた。そんなパターンも、無い話ではないのだが……。
倉空綾葉は、天井摩耶と一緒に写った写真を持っていた。隠し撮りや偶然写り込んだものではなく、"一緒に撮ろう"という意思を感じる写真だ。
しかも、写真から考えられるに、先導していたのは恐らく天井摩耶の方だ。
不器用に笑っていた綾葉の表情が、彼女から率先していったことではないと物語っている。
何故、彼女は摩耶を知っていて、何故摩耶は、隼人は、綾葉を知らないのだろうか。
このすれ違いは、何だ?
ピースのような物が、頭の中で蠢いていくのを正義は感じた。
彼女は、倉空綾葉は"何かを"知っている。
「何か問題か?」
思考に耽っていた正義の意識を、羽刈のそんな言葉が現実を引き戻した。
「あぁ、いや、何事もない。むしろ順調だ」
早々と言葉を切って正義は、
『ありがとう。一先ず放課後に改めて話を聞かせてもらうよ』
と打ち込んで、コミュニティツールのウインドウを閉じた。
「そうか、なら暇だから、ちょっとお話しないか?」
とっくに冷めてしまったコーヒーに口つけて、羽刈は首を傾けた。
「別に構わぬが、何かあるのか」
正義はノートパソコンを閉じて、羽刈を見る。
「正義さんはさ、何で探偵をしてるんだ」
「改まって何を聞いてくるかと思えば、そんな質問か」
「"そんな"なんて言わないでくれよ。将来に悩んだ大学生の、未来に関する真剣なお話さ」
真剣な、なんて言いながらも羽刈の口調は相変わらず軽々しく、正義は少し呆れながらも口を開く。
「そんな物は単純だ。正義を守りたかったから、それだけだ」
「"正義を守りたい"か、職にする理由としてはちょっと漠然としすぎてないか?それなら警察とか、そっちの方が合っているような気が――――」
「それでは駄目なんだ」
羽刈の言葉を遮った正義の声音には、何処と無く、怒りが混じり込んでいた。
穏やかな空気の中、正義と羽刈を包む空間に、僅かに冷気が入り込む。
「弱き者の傍に常に寄り添い、"正しき"を"正しい形"で行使する為には、こうでなくてはならないのだ」
「"正しい形"、ね……アンタは、正義さんは随分と"正義"って奴にこだわるよな。そこまで善悪に拘っていく理由はなんなんだ?」
「……貴様に語る義理はないであろう」
正義の言葉からは、断固とした意思を感じた。
話されはしないと羽刈自身も予想していたのか、二度三度と頷くだけで、追求しようとはしなかった。
だが、
「振れない信念を自分で持ってるのはいい事だと思うぜ?正しい事、悪い事、その境界線をしっかりと線引いてるのは"正しい"と感じるさ。でもよ、その"自分の中の正義"を押し付けることが"正しい事"かどうかは別だと思うぜ?」
「……何が、言いたい……?」
羽刈の言葉に、正義は眉根を寄せて訝しむ。
正義の視線を受け止めた羽刈は、相も変わらず飄々とした態度で言葉を続けた。
「詰まるところ、人間は誰しもエゴの塊ってこと。自分の思想と他人の思想がぴったり一致することなんて早々ないのさ。何処かのお父さんが言ってたろ、"正義の反対は、また別の正義"ってな」
言い切るだけ言い切ると、正義の反論も待たないまま羽刈は席を立ち上がる。
「何処へ行く」
「トイレだよ。コーヒー、一気に飲み過ぎちった」
空になったカップを傾けて底を正義へと見せつけると、羽刈は早足で席を離れていった。
静けさが一気に舞い戻ってくる感覚が正義を襲う。外の喧騒が、嫌に大きく耳に届く。
一人取り残された正義の頭の中を、羽刈の言葉がグルグルと回る。
「我は、正しい筈だ」
そう、信じてきた。
「我の願いは、間違っているのか……?」
一人こぼした問い掛けの、答えはどこからも返ってはこない。
正義の心に、チクリと何かが刺さっていた。
×
「二人きりになってしまいましたね〜」
場所は、正義探偵事務所のリビング兼応接室。
時は、正義と羽刈が事務所を出ていった直後だ。
綾葉と並んで座っていたメディナが、穏やかな口調で呟いた。
「貴女って人は……」
微笑みすら浮かべるメディナを横目に見て、綾葉は溜め息を漏らす。
「自分がどんな状況に置かれているのか考え直した方がいいんじゃないかしら?」
「人質、なんですよね〜。でも、私は皆様を信じていますから〜」
間延びした声でメディナは言うと、ソファから徐に立ち上がった。
手を繋いでいた綾葉の腕も、メディナに引かれて自然と伸ばされる。
「何処へ行くの?」
「お茶を入れようかと思ったのですけど〜、ダメでしょうか〜?」
眉尻を下げて、子犬のように懇願するメディナ。
「……仕様がないわね」
無下にすることが躊躇われた綾葉は、渋々頷いて立ち上がる。
「ありがとう御座います〜」
笑みを強くして、メディナは綾葉の手を引いてそそくさとキッチンに歩いていく。
「こっちはこれでも怪我人なのだから、あまり強く引っ張らないで欲しいわ」
「ご、ごめんなさい〜」
後ろを振り返って、メディナは平謝りをする。
「そんなに謝らなくてもいいわよ」
謝られたこちらが何故か申し訳なくなって、綾葉は首を横に振った。
とてもじゃないが、自らの命を他人に握られている状況でとれる行動だとは、綾葉には思えなかった。
"皆様"を信じている、か……。
正義だけではなく、他にも誰かこの状況を打破してくれるような仲間がいるのか。あるいは、"綾葉達"をその括りに含んでしまっているのか。
もし後者だとしたら、彼女は相当に浅はかだ。
三日程度を共に過ごしてきた中で、確かに和気藹々とした雰囲気になった事もあるかもしれない。友人の様なやり取りを、幾つかしてきたかも知れない。
けれど、そんな物はたかが知れている。
本物ではなかったとしても家を破壊し、仲間に傷を追わせた人間を、こうも簡単に信用出来るものなのだろうか。
綾葉には、到底考えることの出来ないものだ。
「ちょっと待ってくださいね〜」
メディナが軽く背伸びをして、食器棚から新たな湯呑みを取り出そうとした時だった。
「きゃっ!?」
パリンッ、と乾いた音が静かな室内に響き渡った。
メディナの手をすり抜けた湯呑みが、床にガラスの破片となって散らばった。
「大丈夫?」
「は、はい〜、私の方に問題はありません。すぐに片付けますから、すいません少しの間手を離してもらっても良いですか〜?逃げたりなんて、絶対にしませんから〜」
あたふたとしながら、執拗に頭を下げるメディナを見て、綾葉は、
「判ってるわ、だから、早く片付けてしまいましょ」
と、軽く微笑んで手を離して見せた。
「ありがとう御座います〜」
またも深く頭を下げると、メディナはしゃがみ込んで散らばった破片を拾おうと手を伸ばした。
しかしそこで、綾葉は気付いてしまう。
伸ばされた彼女の腕が、微かに震えている事に。
「震えているの?」
問う必要なんて、無かった事なんだと思う。
けれど、その言葉は、綾葉の口から自然とこぼれていた。
「……私は、臆病なんです」
とてもか細い声で、メディナはゆっくりと呟いた。
震える手を徐々に引いて、自らの胸元へとメディナは両手を押し付ける。
「倉空さん達がそこまで悪い人間ではないっていうのは、少しの間ですけど、過ごしてきた中で判っていたんです。だけど、いざ自分の命が危ないんだって思ったら、やっぱり、怖くなってしまって……ごめんなさい、信頼しないといけないはずなのに……」
メディナは小さく声を紡ぎながら、顔を上へと向ける。
見上げて綾葉の瞳を見つめるメディナの表情は、今にも泣きそうなくらいに歪み潤んでいた。
「何時も、こうなんです。いざという時、私はは背中から見ていることしか出来ない。倉空さん達が来た時なんて、見守る事もままならないで、足を引っ張ってばかり。共に歩む力を手に入れたのに、私は、何一つ変わる事が出来ていませんでした」
最早それは、綾葉に向けての言葉ではなくなっていた。
"臆病"と称した、メディナ自身に対しての嘆き。
再び俯いてしまったメディナの足元に一つ、雫が落ちた。
雫が破片に当たり、鳴らされた小さな音が、二人を包む静けさを濃厚にする。
「安心したわ」
沈黙を破ったのは、綾葉のそんな言葉だった。
「へっ?」と、メディナは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「初めから強い人間なんていないし、力を手に入れたからって急に変われる人間もいないわ。貴女が、怖くなって震えてしまうのなんて当然の話なのよ。むしろ、気丈に振舞っていた今までの方がおかしいって思っていたんだから」
何を言っているんだろう。
"悪"として彼女の前に立つ人間の言葉ではないと思った。
「それでも貴女が変わりたいって、怯える自分に嫌気が差してしまったなら、頼りなさい。貴女の信じる"皆様"に、目一杯甘えていけばいいのよ。"共に歩む力"を持っているんだから、独りで歩いていく必要なんてないのよ」
「…………」
メディナは、何も答えなかった。
代わりに、瞳から次々と雫が溢れていく。
「取り敢えず今は、流しちゃいなさい」
綾葉は膝を折り、その場に座り込む。
涙を流すメディナの瞳を真正面から見つめて、その頭に手を添えた。
"貴様らに心を許してしまってるのだろうな"
ふと綾葉は、正義の言葉を思い出す。
心を許してしまってるのは、果たしてどっちなのかしら?
綾葉は自問しながらも、答えを探そうとはしなかった。
見つけてしまえばきっと、綾葉は"悪"でいられなくなってしまうから。
「全く、早速甘えてるんじゃないわよ」
呆れ気味に呟きながらも、綾葉は僅かに微笑んだ。




