埋め込まれた愛
彼女には夢があった。
世界一速くなること。
それが彼女の夢だった。
小さい頃から走る事が好きだった。寧ろ、走ること以外がてんでダメだった。
だから夢も自然と固まっていった。単純かもしれないけど、走ること以外は深く考えられないから仕方がない。
そんなある日に夢を見た。
"願いを叶えたいか"。
そんな怪しいセリフと共に、綺麗な少女が現れたのだ。
信用なんか出来なかった。だけど、目のくらんだ自分もいたのは確かだ。
だって夢なのだもの。夢の中でくらい、ズルしたっていいじゃないか。
彼女は思ってしまったのだ。願ってしまったのだ。
少女に差し出された手。その上には、真っ黒な立方体が、"匣"が、乗せられていた。
彼女は触れた。
夢を叶えるために。
「一人で帰るのって、なんか久しぶりかも。いつもは部活のみんなと帰ってたしなあ」
って、まだ帰ってるわけじゃなかったけど、と、結城は閑静な住宅街を一人で歩きながらそんなことを呟いていた。
当初は隼人と二人で訪れるはずだった真の家に、何か用事ができたからと言われ、結城は一人で向かっていたのだ。
周りが静かなこともあり、結城の独り言は割と住宅街の中で響いていたのだが、彼女自身にあまり気にした様子はなかった。むしろ、これを聞いて誰か出てきて欲しいと少し思っていたくらいだ。
住宅街の角の、少し大きめの一軒家。
真の家が視界に入ってきた。
先生に渡された今日のプリントなどを鞄から取り出して、結城はインターホンの前に立つ。
「はぁー…………ふぅー…………」
なんとなく深呼吸をひとつ挟み、結城はインターホンを鳴らした。
ピンポン、と、無駄に響くインターホンの音。
「………………」
少し待っても反応はない。
念の為にと、もう一度インターホンを押そうとした時だった。
「古枯か、た、助けてくれ!!」
勢い良く玄関が開け放たれた。と思った時には、彼は結城の目の前にまで迫ってきて危機迫る声音でそう言った。
声の主は、何故か全身に傷の目立つ真だった。
「な、な、なに?なに?なんなの!?」
「今は取り敢えず、俺と一緒に逃げてくれ!」
混乱する結城を余所に、真は結城の手を引いて走り出す。
一瞬つんのめりそうになりながらも、結城は真の後ろを走る。
「マコくん待って!!」
結城の聞き覚えのない女の声が、走る二人の背後から聞こえてきた。
振り返ると、そこには病的な程に肌が白く髪の長い少女の姿があった。その瞳は今にも泣き出しそうな程に潤んでいたが、表情は怒りに染められて、鬼の様な形相だった。
そんな怒りに狂う少女の瞳が、結城を鋭く睨んだ。
「っ!?」
結城は思わず目線を前へと戻した。殺意すら感じた視線に、結城は耐えることが出来なかった。
「あの人、誰!?」
前を走る真へと、結城は訊いた。
真は振り返らずに答える。
「俺の幼馴染みだ。そして、俺の親を殺した人殺しだ」
「え!?」
「良いから、今は何も考えずに逃げてくれ!」
真はそれ以上何も言わず、さらに強く結城の手を握る。
結城は、もう一度後ろを振り返った。
「待てぇええぇえ!!」
少女が、狂った様に叫びながら駆けている。その距離は、先程よりも近づいている様に思えた。真は怪我をしていて満足に走れていないのだろう。足取りが重くなっていっているのが、結城には簡単にわかった。
「逃げ切ったら話してくれるんだよね」
「え?」
「掴まって!」
結城は一度手を離し、スピードを上げて、勢いのままに真を抱き上げた。
「ん!?な、なんだよこれ!?」
真は唐突な状況の変化に驚きを隠せず叫ぶ。
「喋らないで、舌噛むよ」
だが、結城は聞かず、足に意識を集中させながらそれだけ言った。
そして、
「"光速移動"!!」
宣言と同時に、結城の両足に熱が溜まる。
燃えているのではないかと錯覚しそうになる足で、結城は一つ、地面を蹴った。
すると、
「っ!!」
視界が急速に流れた。何処をどう走っているのか、常人には理解出来ない。
豪風が襲いかかった。台風を思わせる強い風、もしくはそれ以上のものが、二人の髪を勢い良く後ろへと靡かせる。
たった一歩。一秒にも満たない時間で、二人は五十メートル以上進んでいた。
そのまま、時間にして三秒。距離にして、元の場所から三百メートル程離れた場所にて、結城は動きを止めた。
場所は大きな公園の森林の中。結城が間違っていなければ、ではあるが。
「流石にここまで来れば」
念の為に、結城は後ろを振り返る。案の定、例の少女の姿はなく、生い茂る森林のみが視界に入った。
「そろそろ、降ろしてくれないか?」
と、そこで結城に抱かれたままになっていた真が、恥ずかしそうに声を上げた。
「ご、ごめんゴメン!」
「がっ!」
驚いた結城はそのまま手を離してしまい、真は重力に引っ張られて尻を打つ。
「あ、ごめん!」
「いや、良いんだ」
差し出した結城の手を掴んで、真は立ち上がる。尻についた汚れを手で払うと、
「助けてくれて、ありがとう」
と、言った。
そしてさらに、
「あの、さっきの"力"は…………」
と言ったところで、結城の頭は真っ白になった。
どうしようどうしようどうしようどうしよう!?
勢いのままにあの"力"を使ってしまった訳だが、普通に考えたらあんなもの有り得ない。真はオカルトを信じる方ではあるけれど、きっとそんな問題でもなくなっている。果たして、なんと言い訳したらいいものか!?
と、一人パニックに陥っていると、
「古枯も、"匣"、持ってるのか……?」
「………………?」
思わぬ真の言葉に、結城はまた別の意味でパニックになった。
「し、知ってるの?"匣"こと」
「あぁ…………証拠に」
言って、真は着ていたシャツのボタンを外す。
すると、
「あっ…………」
真の胸元。鎖骨の下辺りに、あの、黒い立方体が埋め込まれていた。
「目が覚めたら突然体に埋められてたんだ。これ、一体なんなんだよ?これが付いてから、ろくな事がない」
言いながら、恨めしそうに胸元の"匣"を掴んだ。
「私にも、分からない…………夢を見て、目が覚めたら、"これ"が…………」
「"夢"?」
真は、その単語に覚えがなかったのか、疑問符を浮かべて首を傾げた。
「見なかった?女の子とこの"匣"が出てくる夢だよ?」
「そんなの、俺は見てないぞ」
やはり、真には覚えがないようで、眉根を寄せて訝しんだ。
そんな噛み合わない状況に、結城も違和感を抱く。
だが、"匣"について結城は詳しいとは言えない。いや、全く知らないと言っても過言ではないだろう。真の様なケースがある事について、肯定も否定も出来ないでいた。
「そんなこと、今はどうでもいいか」
と、話を切り替えたのは真だった。
「……そうだよ、草理くん。一体家で何があったの?」
「アイツは、砂那桧江は、ここにいるはずの無い人間なんだ…………」
「"ここにいるはずの無い"?それって、どう言う…………こと…………?」
言っている意味の判らなかった結城は、真の言葉をそのまま繰り返す。
言いながら、忌々しそうに真は"匣"に触れる。
その表情は、恐怖と怒りの入り混じった複雑なものとなっていた。
「アイツは、事故で身体が動かなくなってたんだ。所謂、植物人間って奴だった。……そんなに大きな事故じゃなかったんだ。両親はどっちも怪我も何にもなかった。アイツだけが運悪く大怪我をした。中学に、入る直前の事だったんだ…………」
当時の事を思い出したのか、真は静かに顔を伏せる。
「俺は、暇さえあればアイツの所に顔を出してた。今日何があったとか、治ったらこんな事をしようとか、何の反応も見せないアイツの前で、俺は何時間も話してた」
「………………」
結城は何も言うことが出来ず、ただ真の言葉に耳を傾ける。
「だけど、中学に入って、高校に上がっていくにつれて、アイツの見舞いに行く回数は減っていった。アイツに縛られたくない。いつの間にか、そんな思いが湧いてきてたんだ。…………そしたら…………!」
熱のこもった真の声は、段々と震えを帯びていた。見れば、真自身の体も小刻みに震えているように見えた。
「アイツは突然、家にやってきた。動けないはずのアイツが、満面の笑みを浮べて俺の前に現れたんだ。最初は訳がわからなかった。だけど、素直に嬉しいって思った。だってそうだろ?治らないって言われてた障害がさ、治ったんだから。だけど…………」
涙ぐんだような真の声音。雑草が涙を受け止める乾いた音が、小さく響いた。
「家に上がった途端に、アイツは俺の両親を殺した。返り血で真っ赤になった体で俺を抱きしめて言ったんだ。『"匣"が導いてくれた。やっと、二人きりになれた』って、その時俺は、親の殺された悲しみよりも先に、殺したアイツへの怒りよりも先に、目の前の惨状に対する恐怖よりも先に、"嬉しい"って思ったんだ…………!」
「どう言う……こと……?」
「わかんねえよ!だけど、俺にはそんな感情しか湧いてこなかったんだ!!縛られてから抜け出そうとした時だって、助けを求めてお前らに電話した時だって、さっき家から飛び出そうとした時だって、何故か俺は一瞬でも"寂しい"って思ってた!今だってそうだ!アイツが近くにいないだけで苦しい…………!どう仕様もなくアイツが"愛おしい"んだ!」
感情の爆発した真から、とめどなく言葉が溢れる。涙でぐしゃぐしゃになった表情からは、恐怖と一抹の"寂しさ"を感じ取れた。その感情に呼応するかの様に、真の胸元の"匣"が赤く明滅していた。
真の中で、何かが変えられているのだ。この、"匣"によって。
「桧江も愛してるよ…………マコちゃん」
その声は、結城の背後から聞こえてきた。
真はハッとなり、結城の後ろへと視線を移す。
結城もその視線を追うようにして、背後を振り返った。
そこには、長い鞭を手にした、砂那桧江の姿があった。
「あなたは…………!?」
結城は警戒して、思わずその場から後ずさる。
「桧江…………」
「草理くん!?」
しかし、真は対照にゆっくりと桧江への方へと歩み寄っていく。声にも覇気はなく、その目はとこか虚ろんでいる。
「行っちゃダメだよ!」
「邪魔しないで」
「きゃっ!?」
止めようと真の肩へと手を伸ばしたところを、桧江の鞭が鋭く叩いた。結城は仰け反り、その間に真は桧江の元へと向かってしまう。
「探したよマコちゃん!」
「………………」
目の前にまで迫った真を、桧江は強く抱き寄せた。顔を寄せ、自然と唇を重ねていく。
「なっ……!?」
呆気にとられる結城を、桧江が横目に見てきた。恍惚に頬を染めながらも、その瞳は人を見下すそれだった。
「こう言うことだから、テメェみたいな雌豚は、とっととここから消え失せろ」
艶かしく口から唾液を零しながら、真に喋りかける時とは丸で違うドスの効いた声音で桧江は結城を睨み付ける。
「アンタ、一体なんなの?」
結城は、退かずに桧江に問いかける。
対して桧江は、嬉しそうに目を細めると答えた。
「桧江は、マコちゃんの"依存的彼女"」
「…………俺は…………ひーちゃんの…………"献身的彼氏"…………」
「桧江達はね、愛し合ってるの!」
桧江と真、共に胸元に埋め込まれた"匣"が、強く、赤く光を放った。




