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白い悪魔の夜語り  作者: runa
Ⅰ ~月語り~
9/32

そして祝祭は始まる


<an eve>






***















「…あらら、留守だったみたいやな。珍しいこともあるもんやなぁ」



小屋の前、主人が対岸へ渡っている頃に訪ねてきたのは例によって弐羽である。



不規則なノックを二回くり返したところで、どうやら不在であると確信に至る。



「さて。どうしたもんかな。…福虎は人の顔見るなり札出して顔見せんし。神父に今当たるんも厳しいんは言うまでもない。あいつらはそもそも問題外やし。明日までもう時間も無いしなぁ…」



まさか対岸へ買出しへ出ているとは、この時点で思い至る筈もない。町を回りがてら、地道に探して行くかと溜息一つ落とし、踵を返して去っていく。



それから殆ど間を空けずに、小屋の前に立つ人影が一つ。

ふわふわと舞い上がる栗色の髪。その隙間から覗く翡翠色の双眸が興味深げに眇められる。


「ここが…嘘飼いの家」


呟きは、鈴を鳴らすように軽やかで美しい。桜色の唇はゆるやかに笑みを形作る。


「留守。…帰りを待たないと」


小屋の入り口まで上がり、鍵穴をしげしげと覗くこと数刻。

徐にポケットから出したのは銀の針。

器用に折り曲げたそれを差し込むと、かちりと錠が回る。


「お邪魔します」


躊躇無く上がりこんだ影はくるりと部屋を見渡して、屋根裏が気になるのか梯子を上っていく。

そこにあるのは質素かつ簡易な寝台一つだけ。しかし結果としてはそれで十分だったらしい。

上掛けの隙間から寝台へ潜りこむと、幾らも経たずにすうすうと規則的な寝息が響き始める。

屋根裏の窓から見上げた太陽は、まだ高い。





同時刻。町の教会では不協和音が響き合う。

礼拝堂に揃うべきでない面々が顔を合わせるに至ったのは、詰るところ蒔かれた種の一つに過ぎなかったのだろう。

うすうすは彼らも気付いていた。


祭壇の横に立つのはレイフィールド。

祭壇までの通路の間には十ばかりの少年少女。

礼拝堂の入り口に立つのは殺人鬼にして魔女の異名を持つ焔とその弟子である紫鳶。


その場で、はじめに口火を切ったのは魔女であった。


「…おや、そこの小童ども。カナンとスイじゃないか。奇遇だな」


名を呼ばれた少年少女は揃って振り返る。鼠色の髪に深緑の双眸が四対。

その容貌は双子のように似通っている。


「……焔。相変わらずみたいだね」


「……後ろの、あなたも同じく。お二人の噂は絶えず耳に届いてまいります」



少年が彼等を認めて瞠目した後、やや呆れたようにそう言ったのに続けて傍らの少女が淡々とフォローする。



「それはこちらも言いたい。この状況を作った当人は、あの子を舞台に上げて自分は例の如く客席から観賞に回る気でいるのだろう」


魔女の笑みには、いつになく微かな諦観が滲む。

メルフィー・ローズ。彼女の実子。

彼に関してはその足取りをつかむことさえ難しいのが常。可愛げもなく成長した末に性格の歪み方は甚だしく。

また、異母妹にあたる彼女へ時折見せる執着は、いかなる感情を起因にしているものか捉えようがない。

愛か。それとも憎悪か。全く別のものなのか。


異母妹以上にその本質は嘘飼いそのもの。従ってその嘘偽りもまた幾重にも重なって見通すことなど当人以外には分からない。


「あの人はあの頃から一片も成長してませんよ。特にシェリルに関わることには特にね」


「…そこまで強調しなくても。紫鳶、君も同じみたいだ。あの子に関わる事柄では冷静ではなくなる」


少年、ことスイの言葉はひどく外見に見合わない口調であるにもかかわらず対する彼らは気にした素振りも無く会話を続ける。

それは彼らがどのようなものであるか、承知しているからこそである。

スイと魔女たちがそんな会話を続けている傍らで少女はレイフィールドに向き合って淡々と告ぐ。


「神父さま、依頼の品は確かにお渡しします。今回はこれ以上手を煩わせることは無いと思います」


「そうか…。耳半分にして聞いておくよ。あれはラズの面倒な部分ばかり丸ごと引き継いでいるからな。何一つ信頼の置けるところがない。全く…先が恐ろしいことだよ」


言葉とは裏腹、その表情は陰鬱ながらも何時にない色が混じる。

矛盾しているが、見るものが見ればそうとしかいえない。


「同意いたします。けれどもメルフィーの芯はそれほど複雑なものか、そこは疑問です」



言い差しながら、魔女の視線を淡々と受ける。



「メルフィーの言動はともかくとして、撒かれた種は事実を含む。嘘飼いもまた人にはかわりないのですから」


少女、ことカナンの表情が語るにつれ変化していくのを対のスイだけが察している。

彼らもまたメルフィーの撒いた種にかわりはない。だからこそ、この場ではここまでだった。


「焔。君たちとはまた対岸で会うことになる。だから今は、ここで」



少女にも言い含めるようにして、その場で叩頭する。

後に残るのは、二対の羽音と通路に残された二枚の羽根。



「カナンとスイを駆りだして来るには、今回の舞台。よほどに撒いた種は大きいようだな」


笑みを消した魔女が見据えた先で、神父はただ陰鬱に答える。



「少なくとも、私の出番ではないようだ」



沈黙した魔女が踵を返すのに一拍遅れ、追従する紫鳶は背を向けて嘲笑する。


「先代から面倒な部分を引き継いできているのは、あんたも同じだろう」




神父は答えず、彼らもまた待つことなく教会を後にした。











 腕に包みを抱えて、船を降りたときにはすでに日が傾き始めている。

正直なところ、正装を揃える手間にこれほど掛かるとは想定外である。

甘く見ていた。

念のために早朝から出立してよかったと内心で安堵しつつ、振り返る。


「ありがとう、学者君。君のお陰で明日の準備も何とか整う」


続いて船を降りた黒は、ただ頷く。


「役に立ったなら、何よりだ」


少女は包みを抱えたまま、雑木林を足早に抜けて行く。

早朝に来たときのように、互いの距離は再び遠退いていた。

岸に着いた時点から、彼らは元の立場に帰依した。ただそれだけのことであった。


湖畔にそって小屋へ帰宅する頃には、昼ご飯を飛ばして夕ご飯の献立を考えている最中である。

しかし、昨日と同様。すぐに支度へかかることにはどうしてもならないようである。

鍵穴へ錠を差し込んだ瞬間、その違和感は即座に留守中の変事に繋がる。



誰かが、鍵を開けた。そして中にいる可能性がある。



開いていた扉を細く開き、眼を凝らし耳を澄ませればまず聞こえて来るものがある。

誰か知らない寝息。

梯子の上へ視線を上げていき、ここまでで姿が確認できないことから確信を得る。


無断で小屋へ侵入した誰かが、梯子を上り屋根裏で真昼間から惰眠をむさぼっている。


元々は下にあった寝台を、屋根裏を整理して上に作り直したのは主に防犯としての目的であった。

その対象は詰るところ紫鳶であったわけだが、ここにきて悟る。


上に上げようが下であろうが、侵入された以上は大きく変わりはないのだ。


自分の周囲は世辞にも倫理や良識が十分に揃った人間は皆無といっていい。それでも今までに無かった事が起きている。それは頭痛の種以外の何物でもない。


まあいい。いや、良くはないがとり合えず起こさないことには何も始まるまい。


扉を閉めて、まずは抱えてきた包みをテーブルに降ろした。上の寝息は途切れない。溜息をついて、まずは湯を沸かすところから始めた。





夕食の献立は、川魚の包み焼きと森のキノコの香味スープである。

香ばしい匂いが立ち上る頃、ようやく上の寝息が途切れる。

なにやら幾度か伸びをしたような気配の後にひょっこりと顔を覗かせたのは、やはり見知らぬ誰かである。一見したところ、年代は自分と同じか近いと見えた。



「お邪魔してます。あなたと会いたくて。わたしは、オウル」



「…ふむ。君の言いたいところつまり、あなたに会いたくて、が正しいのだろう。オウルと言ったね。君は依頼人かね。それとも対岸の関係者かね」



ふわふわした髪の間から、人形のように端整な笑みが垣間見える。



「怒らないのね。ありがとう。よく眠れたわ。…オウルはね、ただあなたに会いにきた。今のところはそれだけ」



それだけ言って、上の手摺に身体を寄りかからせる少女を暫く見詰め、一つ頷く。



「分かった…ならば好きにしたまえよ」



こちらの情報が不足している時には、落ち着いて相手の行動、言動を観察する。

嘘飼いとしての初歩だ。

ともあれ、今は夕ご飯である。食事を疎かにすることなどもってのほかだ。

ことことと煮立ったスープを皿によそっていると、上からくるくると妙な音が聞こえてきた。


放っておけば、ぐーに変わるだろう。あれだ。


「…簡素だが、君も食べるかね」


「うれしい。オウルね…昨日から何も食べていないの」



囁くような返答と同時に、くるりと身を躍らせて食卓の椅子へ着地した身のこなしは軽い。



「君、上るときは梯子を使ったのだろう。降りるときもそうしたまえよ」


「わかった。次からはそうする」



包み焼きとスープを差し出すと、そう言って少女は笑った。


















翠緑の靄が廃城を包み込むように広がり、月が光を失う頃。

廃城の主はその半身を起こし、音もなく窓枠へ身を寄りかからせる。

いつの間に手に取ったか、その左手に煙管を燻らせ、輪郭を淡くしていく月を見上げて呟いた。



「約束の刻だ。楽しませてくれ、嘘飼い」



この上もなく幸福そうに、歪んで捻れた双眸が薄闇の中で艶を含んで閉じられる。











翠緑のなかで、二つの羽音が木霊する。


「ご苦労様、神父に包みは渡してくれたね」



左肩にスイを、右肩にカナンをとまらせて廃城を見上げる。



「メルフィー。焔が来ているよ。血路を開いても入り込む気でいる」


「メルフィー。シェリルにオウル・シーが接触した模様です」


はた、と表情に一抹の不穏が過ぎった。右へ視線を向けたまま黙考する。

ここに来て、シナリオに無かった筈の動きがちらほらと出てくる。

シェリルは今回動いていない。彼女は依頼の元でしか種を蒔かない。


自分のほかに、シナリオを曲解しようとする人物。


うっすらと笑みが零れる。


「いいよ。放っておく。…これはこれでいい。見たいものはいずれにしても観れるだろうから」


間もなく夜も明ける。役者たちは今回の舞台である祝祭へ集う。


「存分に踊れよ、我が妹。…今日は君のための舞台だ」


呟きに重ねるようにして、両側で囀る。

「「鬼畜兄…」」



 
















朝食のメニューは芽キャベツのスープと胡桃パンである。朝食の準備に取り掛かったのは、いつもよりも早い時刻からだった。


「おはよう。ここは静かで素敵…よく眠れたわ」


二食分の朝ご飯を並べ終わるのと同時に、屋根裏からひょっこりと顔を出した少女が微笑む。




昨晩の夕食を食べ終えるや否や、彼女は一部の躊躇や遠慮といったところもなくこう言った。


「今晩お世話になりたいわ。シャワーと寝台を半分使わせてくれたら、とても嬉しい」


自分は好きにするように言った。

たとえ想定していなかったとはいえ、一度吐き出した言葉。

言質をとられたと同じである。

シャワーを先に使わせて、その間に夕食の片付けを済ませた。

彼女は、人に不快感を感じさせないコツを良く心得ている。

自分の容姿も踏まえて、話し方もあえて変えている。自分には少なくともそう感じられた。

見た目は少女然としているが、中身はまるで毛色が違う。

理知的で、頭の回転も速い。機知に富む。

それをみごとに覆い隠して、それを素に装う。

正直敵に回せば、おそらく相手にもならない。


そこまで考えて、つくづく因果な商売だと嫌になった。

兄の根を絶つ前に、自分の方が先に因果の元に絶たれるかもしれない。ふっと差した兆しはあながち間違いでもないかも知れなかった。


今度はちゃんと梯子を降りてきた彼女は、ふと視線を窓の外に向けて首を傾げて見せた。



「あれは、お客様かしら」



その言葉に視線を窓の外へ向けると、かなり見知った顔があった。

視線が合うなり、ひらひらと手の平を振ってから扉を開ける。


「よう。朝早くから悪いな。昨日も三度ほど立ち寄ったんやけど運悪くすれ違ったみたいでな。しょうもない。朝ならいるやろ思って、きてみたわ」


「弐羽。いつもの不規則なノックはどうしたのかね」



例の如く、食事を続けながら対応する。あいにくとカップも全て出払っている。お茶も出せない。



「いや、先客がおるみたいや気付いてな。少し様子見てたんや」


なるほど、とは思ったが。あえて口には出さない。

芽キャベツを咀嚼しつつ、一拍置いてから、慎重に言葉を紡ぐ。


「朝から御苦労なことだね。しかし今日は君に構っている暇はあいにくと無いんだ。対岸の祝祭に招待されているのでね。…話が長くなるようなら夕刻以降で願いたいよ」


「おお、そうやったか。すまんな、じゃあまた後日改めるわ」



片手を挙げて、足早に出て行く背にどうやら今の言葉で大よそは伝わったらしいと察する。



「…おもしろそうな人」


彼女の呟きに、素直に同意できないところが自分の器の狭さだろう。

朝食を終えて、片づけを済ませると一息つく間もない。


気持ちを一段切り替えて、支度へ移った。包みを解いて並べていく。


「まあ。素敵。…ね、私にも手伝わせてね」


傍らでそう言って微笑む少女はまるで慣れた様子だ。全くもって敵わない。


黒に付き添ってもらい、何軒か回った末に見つけた一式。萌黄と鈴蘭織りのモチーフが配された初夏様のドレス。対になる白地に銀糸織りの靴。合わせて水晶と翡翠の首飾り。

勿論、試着は購入前に済ませている。


手早くドレス用の下着に着替えて、ドレスを被る。

後ろで飾り紐を結わえるのを任せて、徐に引き出して来るのは黒檀の飾り箱。

母から、唯一引き継いだものである。


思案して選んだのは菫の香水。耳の裏へ一滴ずつ。


「いい香り。…深紅、夕陽、鳩の頬…ね、紅はその端が合うわ」


言われるまま、桜貝の紅を出して唇に一指し。

髪に軽く香油を含ませて普段よりも丹念に梳き、首飾りを留めてもらえば一段落。

後ろではなにやら鼻歌が聞こえる。


「ありがとう、オウル。助かった」


「ふふ。いいの。楽しかったわ。…あの子の趣味が悪くないことが分かったし」


振り返れば、どこにそんな時間があったというのだろう。正装一式完璧に着こなした少女が微笑して立つ。紫苑と百合の淡い色彩の混じったドレスに黄玉の首飾り。夜空の一片を写し取ったような地に、金糸織りを施した美しい靴。


「…並んで歩くのは遠慮したい出来だよ、君」


思わず本音が出て、しかし今更引っ込めようも無い。


「駄目よ。オウルはね、あなたと今日の祝祭を楽しむ為に来たの」


「…そうか。ならばもう何も言うまいよ」



束の間その笑みに混じったのは、自分がよく知る色。此処へきてようやく彼女の意図がおよそ掴めた。

だからこそ、もう同行を拒む理由もない。



「では、行こうか」


テーブルに出しておいた招待状を持ち、二人の少女は湖畔の畔を後にする。



彼女たちが向かったのは、祝祭のため今日明日の二日間のみ増発される定期便の発着口である。

乗船口には例年は見られることのない船紋が見える。

白塗りの上にくっきりと描かれているのは、両の翅を広げた蝶。

町の喧騒がその周囲だけ切り離されたように、静かだった。

ここまで並んで歩いてきた少女たちが、その静けさの中に立つ二人の前で立ち止まる。


よく似ている。年の頃はおそらく、十代後半から二十代前半。紫鳶とほぼ変わるまい。礼服を卒なく纏った二人の体からふわりと硝煙が香る。


「…これで四人。否、失礼。君たちを含めて三人かね。迎えにここまで割くとは予想外だ」


溜息を押し殺して、そう告げれば乗船口の前の双子は不可解そうに眉を顰める。

対照的に少女ことオウルは、ただひっそりと口元だけで笑む。これだけではっきりした。

どうやらここは想定通り、彼女を知る人間はいないようだ。


「学者君、君も乗って行くのだろう。そろそろ来たまえよ」


対岸に渡ってからでなければ、この先は読めない。それを知れば、ここで足踏みしている時間も惜しい。人ごみの喧騒へ向けて呼びかければ、うっすらと霞ませるようにしていた輪郭が紛れ出て背後に立つ。


「…なるほど。鉄鎖まで迎えによこしたか」


聞き覚えのある呟きに、双子の一方が瞠目し、片方は溜息を隠さない。


「黒…。数日前から姿が見えないと思ったら、こういうことかよ。主も人が悪い」



そう零すのは瞠目した方。左頬に傷がある。



「ラム兄…これは大分に面倒な状況のようだよ」



片方の名を口にしながら、黒を過ぎた後方へ視線を向けるのは、右頬に傷のある双子だ。


その言葉にその場の全員が振り返って多様な反応を見せた。


佇むのは、微笑む魔女。つき従うのは例の如く紫鳶。



「…今回は助力を乞うてはいないよ、焔」



嘘飼いの少女の言葉に、魔女の笑みは一部も揺らぐことはない。

両者とも深紫の盛装を身に纏い、常でさえ妖艶であるのがより艶やかさを無駄に増している。


「前に言ったろう、シェリル。君はあの男にかかわるべきではないと。だから今回は独断だ。無論招待は受けていないが、もとよりそんな身分ではないからね。気にしないことにした」


「…気にするべきだとは思うが。まあ、もとより言ったところで聞く君ではないか」


淡々と紡いでから、ふいと視線を横にずらす。


「君も同じかね、紫鳶」


向けられた視線に、この上もなく幸福そうに微笑んで見せる。


「…心配いりませんよ、シェリル。これと違って自分は手順をしかるべく踏んでいますから」



頭上へ掲げて振って見せた書簡には、離れた位置からでもはっきりと蝶の刻印が確認できた。



呆れたように見上げる少女の傍らで、オウルは興味深そうに囁く。


「まあ。見事な手腕ね…。印章自体が本物であるなら、証明には時間が掛かるわ」



ある意味暢気ともいえる発言を耳にして、なるほどと頷く黒とそれどころではない後方の双子。



「…うわぁ。勘弁してほしいな。面倒事は御免ですよ。ラム兄、あの二人は任せるから。後はお願い」


左頬に傷がある双子の一人はそう言い残すや、嘘飼いの少女と付き添う二人を船内へ誘う。


「…ところで、そちらは」


当然のように連れ添う一方の少女へここへ来てようやく問う。

オウルはこと自然に微笑んで、するりとどこから取り出したのか招待状を提示して見せる。


「招待客よ。不明なら、藍の主へ照会して」


「…分かりました。今はそれどころではないので後ほど。黒、操舵へ行ってもらえますか」


その言葉が終るか否かというところで、すでに後方からは銃声と喧騒と硝煙の煙が上がっている。

甲板から、喧騒をじっと見定めているシェリルの横顔をただ傍らでオウルは静かに見ている。

おそらく既に自分が見たいものを知っていて。それでも尚、同行を許した少女の器を彼女自身はこの目で確かめている。

まだ確信には至らないまでも、オウル・シーは彼でなく彼女を選ぶことにした。

そのほうが、水底の因果へ望みをつなぐことができると考えたからに他ならない。


それは結果として、彼女自身の望みをかなえることにも繋がる。


指示どおりに黒が操舵の方へ去るのを見送って、双子の片割れが二人を船内へ案内しようとしたところでひと際大きな爆音が後方で響き渡る。

表情にこそ出さないものの、それはおそらく危急の証に他ならない。喧騒に視線を落したままの少女は一つ溜息を零して、立ち止まる。


「このままだと、君の片割れは殺されるよ」


兄の死を告げられた弟の足は、それでも留まることはない。それを立ち止まったまま見詰めた少女は悟る。傍らで同じく立ち止まったオウルは知らぬ間に思い至ったこの先の情景に久々胸を躍らせる。


「…そうだね。君はそうするほかないのだろう。だから、私は自分のできる選択を選ばせてもらうことにするよ」


反転した足の行く先は、外されようとしている船の橋桁。

咄嗟に行く手を遮ろうとした双子の動作を阻んだのは銀色の輝き。

足元を正確に縫いとめたのは紛れもない手術用のメスだ。

ここにきてまさかと見上げた先。微笑む彼女の横顔は老獪にして、それを微塵も感じさせぬ美貌。ふわふわと潮風に揺れる栗色の髪の間から微笑む桜色の唇。



「藍に伝えなさい。夜会までには必ず間に合わせるわ」



言い終わるや、身を躍らせた彼女はそのまま桟橋へふわりと降り立つ。

生半な人間に出来るものではない。

オウル・シーは去っていく船を背に、少女のあとを追う。

微かな血の匂いに、砂煙。それに懐かしささえ覚える彼女は慣れた足取りで喧騒の中心部へと向かった。




弟にやや一方的に後を任された兄は、ただあの時一つ頷いたのみ。

彼らの間ではそれで事足りる。

礼服とはいえ、普段と同様に銃火器を携帯しているのは変わらない。艶を帯びたライフルを手に晴やかな顔で向かい合うとき、大抵の相手は背筋をぞっとさせるものであるが。

何分今回は相手も相手であった。


「ああ、無粋な黒光りだ。鉄鎖、片割れでは役不足だよ」


純粋な殺気の塗りこまれた双眸は、ぞくりと身震いを覚えさせるほどに美しい。

魔女の手から放たれた滑らかな輝きは銃身を尽く破壊した。やむを得ず手にしたサブマシンガンで動きを封じようとすれば、猫のような敏捷さで後方へ回っていた紫鳶の手元から放たれた鉄矢によって地へ撃ち落とされた。


これは以前にトマス・モルゲンの首筋を貫いたものと同一である。


遠方からの鉄矢を避けるだけではなく、魔女の短刀の餌食にならぬよう相対し続けることはいかに白蝶が幹部の一人といえど明らかな不利であった。



「…まさに魔女と黒猫。否、大鴉といった方がいいか。全く。骨が折れる」



接近戦においては銃身は致命的な弱点となり得る。そもそも、相手が魔女であるからこそではあるが。



「鉄鎖の双子、ラム・バートム。君にはここで消えてもらった方がこの先やり易くなるだろう」


一段と笑みを深め、顔を寄せて覆い被さった。右手に掲げられた銀の刀身が振り下ろされ、左腕を地へ縫いとめる。一連の動作には一つの躊躇いもない。自らの血に伏した青年を見下ろす表情はここへきて聖母のような慈愛さえ見てとれそうだ。


優雅に身を起して、それとほぼ同時に鉄矢が心臓へ向かって放たれた。

すでに体中は細かな傷ばかりか、刀身に塗りこめられていた薬の影響か身動きもまともに取れない。

それでも辛うじて目を開いたまま、僅かでも急所を避けようと身をよじらせようとした青年の上に走り寄った影が落ちる。



萌黄の、その鮮やかさに瞠目すると同時に声を失う。



「君、そのまま動かないことだ」


降ってきた声に、ぞっと背筋が凍る。

相手が自分を庇って出たという状況の恐ろしさに見開かれた双眸。

薬の影響も忘れたように、限界を超えて動かそうとした手足を縫いとめるように封じたのは銀のメス。

その先に映り込んだのは、栗色の髪と桜色の微笑み。


「聞こえたでしょう。動かないことね」


囁くような声。

その時にはとうに鉄矢は鈍い音を立てて突き刺さっている。







深々と突き刺さった矢尻は血に濡れて、地へ墜ちている。


肩を押さえて蹲った少女は、立ちすくむ魔女へ真っ直ぐに視線を向けた。



「焔。まだ血を流すのは待ってくれるか。…君たちが教会で彼らに会ったのは承知している。だからこそお願いだ。あれの種に使われてくれるな。君らの火種は使い様によっては対岸で血の雨を降らせることも出来るのだから」



こんな時でもただ静かな声音に、魔女の脳裏に彼の面影が重なる。それは彼女を苦笑させる。


「全く…君は本当にラズの娘だ」


そう呟くや、武装を解除する。滑らかな刃は全て仕舞われた。


貫かれた肩の傷からは止め処なく血が滴っている。

その間にも弓を投げ捨てた紫鳶が蒼白な顔で駆け寄ってくるのに、どうやらこれは毒矢だったらしいと悟る。やはり以前の兆しはあながち間違いでもなかったらしい。


「この…馬鹿、なんでこんなのをお前が庇った。遅行性とはいえ致死毒だぞ…」


普段にない、砕けた言葉遣いに目を丸くしてなるほどと苦笑する。これが素だ。


「まあ、そう言うな。…あの愚兄に踊らされるくらいならここで早めに退場できる以上に望ましいことはない。まあ…しかしながら。それを許すようなシナリオを作るとは思えないのだがね」



言い差すや、その視線を受けて微笑むのは紛れもない彼女。



「残念ね。その読みはあながち外れではないわ」


そう。遅行性とはいえ、ここまで症状が出てこないのには理由がある。


「君、やはり昨夜の内に手を打っていたか」



少女の言葉に微笑みを返す。そのまま慣れた手つきで止血にかかる彼女へ、今度ばかりは溜息を隠さない。



「ここまではすでに君の手の上だ。君が愚兄の雇い主だろう、オウル・シー」


「そうね。でもそれはさして重要だとは思わないわ。…まだ本舞台前なの。だからあなたには生きていてもらわないとならないわ。ふふ。それにね、私は彼でなくてあなたを選んだの」



傷口を消毒し、手早く血を洗い流してからまじまじと診る。



「一旦、…小屋へ戻ります。そこで傷口を縫って、ドレスの血抜きと解れを縫ってから再戦ね」


「君の好きにしたまえ」


苦笑して告げるや、傍らの紫鳶へ左手を差し出す。



「紫鳶。悪いが足元がふらつく。小屋まで背負ってくれるか」



絶句した後、泣きそうな笑いそうなどちらとも言い難い表情を浮かべて差し出された背は思っていたより広く、触れた部分は温かかった。

それを見守る師こと魔女の眼差しは生温かい。

それを感じた紫鳶は元の冷ややかな眼差しでそれを見返す。

無言で交わされる師弟のやり取りをオウルは見て呟く。


「おもしろい人たち、ね」


それを聞きながら、想像以上に長い一日になりそうだと既に疲れ始めた少女は気付かれぬよう、ただ一度溜息を零した。












まだ向こう岸の少女たちが、ささやかな血の喧騒を終えて、小屋へ一度戻っていることなど知る由もない対岸では蝶の船紋を掲げた船が停泊し、その船室の中で向かい合う三者の沈黙は恐ろしいほど張りつめた空気を孕んでいた。


まさに今、紅羽のうちの二枚が制裁としてその首を刎ねられようとも不自然ではない程の状況といえよう。


双眸に苛立ちと、飢えを滲ませながらも問う声は身が竦むほどの美しい低音。凄絶ともいえそうだ。


「それで。…なぜ船から降りるのを黙って見ていた」


「それは」


そこまで言いつつも、言葉が続かないのは銀色のメスの存在があるが故だ。

しかしその沈黙は、引き金となった。

視界の端に閃いた銀の軌跡は、過たずに羽を散らそうとしていた。

避ける間もない。

しかし、結果として血飛沫は一滴も船室を濡らすことはなかった。

黒の鞘が軌跡を寸前で止めたからだ。



「…なるほど。主、六人目の所在は今、嘘飼いの傍らにある。またあのときと同じく踊らされているままでは永遠に彼女は手のひらには落ちてきませんが。一か八か六人目が告げたように夜会まで待ってみては如何でしょう」



それだけのことを一気に言って、死の予感を目の前にじっと待つ。

この間の冷や汗はと言えば今までの分がばかばかしく感じられる量である。

触れれば裂けそうな鋭利な眼。それが殺意を潜めるのにどれほどの時間を経たのか、正確なところは誰も分からない。

しかし、沈黙した藍の蝶が船室の窓へ寄りかかり刃を背に置いて見詰めた先は、紛れもない。


岸を挟んだ向こう岸でよりにもよって彼女の傍らには六枚目の羽。


オウル・シー。海の魔女とも呼ばれていた彼女は船医として長くあったが、船を下りたのちは退屈を持て余し、しばしばふらりと身を隠しては戻ってくることを繰り返していた。

実年齢は誰も知らない。少なくともふたまわりは上だが、あの魔的な童顔重ねて美しい容姿の為に正確な年齢を言い当てたものは誰もいない。


彼女の興味は大まかに三つ。血なまぐさい事柄。若者。そして自分の容姿をさして気にとめない人物。

それに当てはまる人間は少なくはない。しかし全てを備える人間は多くはない。特に最後の項目に当てはまるとすればそれはかなり稀だ。


ひとは、外見を見て動くものだ。それは当然である。そうでなかったら、逆に問題だ。


個性は、個々にその判断の基準が異なることに基づく。

しかしどんなものにも例外は生じる。それが一握りと称される異端だ。

自分と六枚目は、どこかで求めるものが似ている。

同性であったならばとうに殺していただろうが、運がいいことに彼女は性が違った。

傍らで寝ざめる彼女は、あの夜も傍にいた。だからこそ夢から覚めた後にもそれを知っていた。


自分を水底から引きずり上げた、あの手。それをもう一度握りしめたい。


その為には、人脈を広げることも有用だった。それでも未だ見つからぬ。夢を重ねるごとに、ただ飢えが募っていく。

乾きは収まらない。いつからか、その穴を埋めようと面倒だと思いつつ陸で手足を伸ばし、人を集め、後ろ盾も得て事業は拡大した。虞と金の使い様。要はそれだけのやり取りの繰り返し。


悪運だけはどうやら自棄に長続きしている。一度死にかけたせいかもしれない。


廃城を根城にしたのは、丘の上の景観が海の上の静けさを思い出させたからだ。宵の静けさはあの夜の湖畔の静けさに似ている。それはどうやら他の何よりも心を落ち着かせた。

数年前からは、毎夜女を抱くようにしていた。初めて気まぐれで抱いた夜、夢で水底を見た。

夢でもあの手を思い出せる。それは何物にも代え難く、彼を満たす。

しかし全ての事には利と不利が付き纏う。


夢は彼を満足させる唯一ではあるが、それは現ではない。

その認識は、やはり飢えを募らせる。


あの手を手に入れることができないならば、代わりを求めるほかない。

そこに鮮烈な印象を持って現れたのが、嘘飼いである。

まさに異端。姿形も定かではない存在。

クロの報告では、少女は一定した名前を持たない。それだけでも十分に興味深いというのに、他の報告についても一々苦笑してしまうものが多かった。


自分とはまるでかけ離れたような存在でありながら、どこかで馴染み深いような感覚を覚えさせる。


その違和感と、どこから噛み合ったのか、切望の先。夢と似たそれに自分は数日前から浮かされてしまったらしい。

今もまた、見失ったそれだけで羽を無造作に摘み取ろうとするほどの激情に至る。冷静に考えれば愚かしい話だ。

そこまで考え至って、振り返った先でここへきてようやく芯から冷静に浸る。



「メリー。少し熱に浮かされていた。祭の喧騒が移ったらしい。…許せ」



刃を仕舞い、差し出す。それは全面に非を認める意として彼ら白蝶の間で海上時代から続いている礼儀だ。

瞠目し、とんでもないと呟いて叩頭するメリーの傍らで、黒がようやく安堵して肩の力を抜いた。


死の予感を前にしているだけで、寿命が縮む思いがする。

今回は今まで以上の圧にここでそのままショック死するかと意識の底で諦めかけていたほどなのだ。

思わずもれ出た溜息を、普段ならば不敬と眼で制されるところ。さすがに今回は咎めもない。

ようやく緩んだ船室の中で、平時の心音へ戻った黒が見上げた空はまだ青々として日は高い。








港の乗船口付近の喧騒の収集にあたったのは無論のこと、蜂の巣から収集された警備隊員たちである。彼らはたった三人で繰り広げられたというその惨状を前に一様に息をのんだ。

漂う硝煙の香りはただならぬ量によるものと推察され、辺りに散らばった鮮血と破壊の後はまるで抗争の後そのものといって遜色ない。

むしろ呆れたといっていい表情を浮かべて現場を保全するわけでもなく片づけていくのは、上からの指示による。

そして彼らの内で、そんなことを気にかけて疑問を呈するような人間は少数だ。

その少数の筆頭である弐羽はこの場にはいない。

彼は例によって、今湖畔にいる。












抗争とも称される港の喧騒から帰ってきた一団を迎えたのは、意図したものではなかったが弐羽であった。

血まみれの人間を二人も抱えて戻ってきた惨状に絶句したのは言うまでもない。



「な、なんやこの惨状は。城で暗殺でもされかけたんか」



苦笑した少女は、こう返答した。



「君も大分焼きが回ったものだね、弐羽。暗殺されるような要人がこの中にいるように見えるかね」



あれだけ血を流しながらも、意識がはっきりしているのは昨夜の内に前もって打たれていたらしい解毒剤のお陰と言えよう。その当人たる彼女は傍らでひっそり笑うだけだ。


小屋の鍵を開けて、出戻った彼らはまず寝台のシーツを敷き直して少女の治療に取り掛かった。とは言っても実際にこれをするのはかつての船医たるオウル一人である。

それで充分であったし、他はむしろ足手まといになるとあえて手も出さない。

その間に魔女がドレスの血を落し、肩の繊細なレース部分を繕う。


肩を縫うのはそれほど時間を掛けずに終了した。

続けて、双子の片割れラム・バートムの全身の切り傷の消毒および左腕の裂傷の治療に取り掛かる。

刃物は抜かずに運んで来た為、結果として出血も抑えられ見た目ほどは重症に至らずに済んでいた。幸いにも、動脈の重要な部分は切断を免れていた。

つまり部屋中が血に塗れることは免れたわけだ。


しかし焔はそれについて吐息を零した。殺人鬼として不本意であったのだろう。


この間、もっとも不運な目に会ったのは弐羽だったろう。何しろ巻き込まれた形で小屋へ入ったはいいが、取り残された形で向き合った相手が悪かった。



「よお、弐羽。ここでよく会うな。蜂の巣はよほどに暇らしい」



紫鳶は普段に比べても数割殺気だっていた。

師である焔もこちらなど気に掛けずにドレスを繕うことに集中しており、肝心の小屋の主も治療中。

ストッパーになれそうな人物は皆無であった。

この間に彼が心がけたのはただ一点である。


反論は一切せず、ただ耐え忍ぶ。


それが功を奏したのか、治療が終わって少女が下りてくるまで弐羽は生き延びたわけだ。



「悪かったね、弐羽。面倒な相手を任せてしまった。…ところで、夕刻前に来ていたということは。そうだね…乗船口の騒ぎとは無関係に何かあったのだろう」



「あんたと話すのは楽やな。先んじて無駄を省いてくれる。そうや、実は前々から探っていた奴の居所が大体掴めた。まあ、そうはいっても見当はついてたみたいやけど。一応書置きでも残しとこ思うて来てみればこの騒ぎや。…あんたはほんとに先代みたく面倒事に巻き込まれるなあ」



からからと大笑する様を見ていると、何故だか少しだけ救われたような気持ちになる。

こうして笑ってくれる支え手は希少だ。あの神父とは違う。あれの笑みにはいろいろ含まれているが、弐羽のそれは逆に単味で、余分なものは含まない。



「そうか。ありがとう。…見当はついたよ。だから報告はそれで十分だ。いずれにせよ、夕刻までには再戦へ臨まねばならないらしい。場合によってはそこで…会うことになるかもしれない」



あの愚兄の用意した舞台となれば、正直気乗りはしないがね。そう付け足して微笑する。



「君はここまでにしたまえ。弐羽。この先にあるのは…どの道筋になるにせよ、趣味の良いものではない」


普段に増して感情をそぎ落とした声で、真っ直ぐに見据える。

それに沈黙した弐羽はひっそりと、どこか諦観したような笑みで答えた。



「そやな。…できれば関わりたくないわ。忠言、ありがとな。もう行くわ」



片手をあげて、いつもと同じ去っていく背に死相に似たものを見出して。

それでも声にして呼び止めることはない。選択はいつでも個々の中で定まってしまう。

それを変える術を私は持たない。


自分もまた、選択をし終えた。

正直にいえば、この数日でも辛うじて逃れる術は残されていたといっていい。

それでも留まった理由は大したものではない。この湖畔を離れたくない。ただそれだけだ。


招待が来た時点で、背後に兄の気配も感じ取った。それも応じた理由。

いつからだろうか。自分が果たしてどう生きていくことを望んでいるのか見えなくなった。

嘘飼いを継いだのは父の遺志ではない。兄を見つけ出すために必要だと自分で判断した結果だった。

だから今の自分はおそらく父の望んだものではないだろう。


それでも他の選択を選べただろうとは思わない。


今もまたそれと変わらない。舞台に上がらずに、見出す術も確かに残っている。

けれどもそれは、兄の撒いた道筋と言っていい。

先攻は兄だ。万に一つも手抜かりなどないだろうし、引き摺り出されるのは趣味ではない。招かれれば、出方を窺う。

これもまた嘘飼いとしての理念といえる。

兄と自分のスタンスは決定的に違う。私は依頼のもとでしか道筋を故意に変えることをしようとは思わない。だからこそ今回の招待に付随するものに、そこまでの覚悟を持てない。

道筋を変えた咎はいずれ自身が負う枷になる。

正式な依頼の元ならともかく、招待の名目で野外戦はあまりに無謀だ。

だからこそ、今回は表舞台に立つ。嘘飼いとして招かれた以上はそれが順当だと判断した。


「さて、怪我人には悪いがこれ以上休んでいる暇はない。黒もいないことだし…紫鳶。ここは休戦して彼を背負ってくれるかね。君が駄々をこねるなら、焔に頭を下げよう」


あからさまに嫌そうな表情を話の終わりには完ぺきに取り繕う。見事なまでの修正だった。


「君の願いとあらば、たとえどれほどの下種でも背負うよ」


喧嘩を売られたも同然の文句に、瞬時に青年の指先が銃の引き金に掛かるのを元より見逃すはずもない。

銃口を自身に向けて、目線だけは喧嘩を売った当人へ見据えたまま。


「紫鳶。休戦と言ったはずだが。…君の悪い癖だ。気軽に憎悪を背負うのは愚者か獣のすることだよ。それにここは私の家だ。頼むから発言にはもう少し気を使ってくれるか」


つまり、人の家でおっぱじめる気か君は。と釘を刺したわけだが。

何故か謝罪したのは発言した当人ではなく。つまり双子の片割れの青年である。



「申し訳ありません。短慮でした。以後気をつけます」



ここにきてようやくまともに視線を向ければ、全身から香る硝煙の匂いさえなければ好青年と呼べそうだと見て取る。船の前ではあまり観察している余力も持てなかった。

銃を戻し、頭を垂れる青年。

白蝶のなかでも僅かな幹部の内の一人にして、鉄鎖の双子の片割れ。

同じく幹部であるオウルを横眼で見遣りつつ、幹部にしてもこれほどに差が出るものかと溜息を飲み込む。


「君の立場では、先の行動はむしろ正常だ。謝罪は筋違いだよ、君」


それにしても時間が過ぎるのは早い。窓の外を窺えばそろそろ日が傾きかけている。


「今から使えるのは小さい舟だ。雑木林へ向かうよ」


その場にいる全員へ向けて告げ、再び対岸へ向けて歩き出す。

少女の背に続いて怪我人を背負った紫鳶、魔女、最後に船医が続けて出て鍵を閉めた。


鍵を持たない彼女がどうやって鍵を掛けたか。それをあえて問う者はなく、彼らは湖畔を後にする。













昼の祝祭の催しがほぼ終了し、対岸の廃城は徐々に夕闇に沈み始めている。

日が落ちれば、夜会が始まり周囲は昼の華やかさとは異なる喧騒に包まれる。

朝から街頭に吊るされていた生花の束は灯火に照らし出されて、城までの道を淡く彩る。点々と照らし出された明りの先に鎮座する城。

その様相は夕闇の中ではかつて廃されたことなどまるで窺い知れない。

向こう岸からの招待客たちは舟を下りて、城へ向かいながら笑いさざめく。その身分はいずれも有力者といって差し支えない。

道を先導していくのは双子の片割れであるメリー・バートム。

普段の冷静さを寸分違わず取り戻している彼の案内の元で城へと到着した。

解放された広間と中庭はすでに準備が整い、楽団の優美な音が到着に合わせて彼らを迎えた。

招待状の確認も一通り済ませたメリーは歩み寄ってくる一人の少女へ苦笑して見せる。



「リージェ。ごめんね。対岸の騒ぎのせいで、君にまで準備を手伝わせてしまって」



薄く笑みを浮かべて見せた少女は、給仕していたシャンパンを手渡す。



「構わないわ。でも、こんなことなら初めから私も出向けばよかった」



蔓薔薇と蘭の色彩が美しいドレスに身を包んで、結いあげた髪をガーネットの装飾で束ねている姿は遠目にも可憐ではあったが如何せん、腰に揺れる束は普段通りである。

その危うい束に近づいて気付いた招待客は一様に後ずさって向きを変えていくのだ。

盆の上のグラスは一向に減る気配がない。


メリーが苦笑して受け取ってようやく一つ目のグラスが減った。



「そうだね…。でも、さすがに今回は僕の判断ミスといって差し支えないよ。ラム兄だけ残してきたのはあの場合仕方ないにしても…相手が悪すぎた」



「そうね。魔女と大鴉相手はラム一人には不利だわ。ああ。私もその場にいたなら鴉一羽くらい爆風で落とせたかもしれないのに…。人選ミスね」



その発言に内心ではそう上手くはいかないだろうな、と騒ぎを実際に目にしていたメリーは思ったがまさかに口に出すわけもない。彼は彼女の性格を十分に熟知していた。



「そうかもしれないね。けれどもう過ぎたことを言っても始まらないし…あ、そろそろ主を呼びに行く時間だ。リージェ、盆は僕に任せて代わりに呼びに行ってもらっていいかな」



「いいわよ。お願いね、メリー」



グラスが大量に残った盆を受け取りながら、上機嫌で広間を後にする彼女の背を見送る。

幹部の中でも特に主への心酔が強く、そこには恋情としての憧れも透けて見えるリージェである。

この点においてのみ年相応の嬉しさを滲ませるので、分かりやすいことこの上ない。

正直な話、報われない恋愛を傍らで見ているというのも複雑な心境この上ない。それでも時折こうして背を押すのは、こと恋情に関しては皆一様に周囲の言など煩わしいだけでまともに聞くはずもない。

そんな考えからだ。

しかし、恋こそ争いの種そのものになり得る。軽く見てはいけない。

今回改めて思い知った。

主の様子には内心で肝を冷やしている。

あの人に限って、そうした心配はないと思ってきたのだが。

主でさえ例外ではなかったらしい。首の皮ぎりぎりで止まった刃の感触を忘れることはないだろう。

それでも冷静に立ち返るのは流石に早かった。熱しやすく、冷めやすい。そんな気質は昔から変わらない。


そういった色々に考えふけりつつも、その間卒なくグラスを配っていけば早々に盆の上は片付いた。


リージェと違って、自分は見て取られる位置に武装を付けて歩いてはいないからだろう。

盆を片手に、広場の端へ下がる途中でふと視線を向けた先。まさに壁の花になった人物に苦笑して近づく。


「黒、あなた以上に壁の花たる人物を他に知りませんよ」


「…なるほど。そうかもしれないな。だが正確には花、という例えだと自分には向かないのではないかと思うが、どうだろう」


こちらも普段の調子を取り戻しているようで、内心で安堵する。以前から変わった人物だという見方は揺るがないものの今回の件で、彼には大きな借りができた。

黒の鞘が刃を留めていなかったら、自分は間違いなく此処にいないばかりか命さえ終わっていた。



「そうですね。…けれども花は両性具有ですから。そう考えれば間違ってはいませんよ」



軽く返答すれば、彼はうっすら笑って頷く。

こうして間近で顔を合わせていても、彼の特徴を全て掴むには至らない。

相変わらずの印象の薄さではあるが、時折こうして笑う時だけは元々のかなり整った相貌が辛うじて窺える瞬間である。



「……来るでしょうか、彼女は」



束の間。楽の音が章の間で途切れた。

人のざわめく声だけが辺りを包みこんでいる中で学者の目は、ふっと中庭を越えて、城門へと向けられる。

今は人も疎らになった城門には、犬狂いと称される老人が欠伸をかみ殺す姿が遠目に見えるばかりだ。

両脇に一対。

老人から離れた方の灰色の毛並みがむくと起き上がる。



「…なるほど。来たみたいだ」



黒が囁くような声でそう言い終える前には、夕闇の中でも鮮やかな萌黄の色彩が浮かび上がった。


今夜は、あと一話ヽ(´o`

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