紅の翅が集う夕べ
コツコツ…
(靴音)
パタン
(ドア開閉)
よいしょ、と。
皆様こんばんは。2回目の登場だよぉ。
んー?
思い出してくれた?
そうそう。ドールちゃんだよ。
今晩も同じく、お兄様が間に合わないみたいだから僕から続きを進めさせてもらうねぇ。
あ、そうそう。前にお知らせしていた弟のことなんだけどねぇ…
扉の前まで来てるんだよ。だけど、そこから隠れて出てこないんだよね。うん、正直に言うとね。忘れてたんだけど。
実はあの子、筋金入りの人見知りだった。
んー…今晩は紹介出来ないかも知れない。
おとなしいだけの子ではないんだけど。その辺も含めて機会を改めるね。
さてと。
じゃあ、始めるね。
今宵の舞台は、対岸に移るよ。
***
「…と言うと何だ。ここ数日の誘拐騒ぎはそもそも初めの一件以外全て狂言だったと、そういう事か」
「ここまで来て気付いてなかったのは、あんたくらいだと思うけど」
「そうだね。少なくとも僕は今朝の報告で気づいた」
「…わふ」
一連の会話は、湖の対岸にある廃城の一室で交わされている。
嘗て、その美しい色彩をして青磁の城と呼ばれていた湖畔の城。しかし今となっては白蝶の本拠地として悪名高い。時の流れは残酷なものである。
さて、場に戻ろう。
一室に並ぶのは、俗に言う幹部たちだ。
彼らが自分達を称する場合は、『紅翅』と呼ばれる面々であった。
今、この一室に集うのは6人いる紅翅の内の4人。
「なるほど」が、枕詞の学者と彼等でさえ今に至るまで顔を知らずにいる船医。この2人を除いた全員が召集されていた。
彼らは一見したところ、幹部と称することに違和感を覚えて無理もない容姿をしている。
そう。注視さえしなければ。
円卓の上座を空けて、向かい合うように座っている彼ら。
美しい赤銅の髪を背に流す少女、双子の青年、ふさふさと豊かな髭の見事な老人の順で、それぞれの席に腰を落ち着けている。
見えている範囲では分かるまい。
それぞれの足元へ視線を降ろせば、和やかに見える光景も一変する。
赤銅の少女がしなやかに足を組んでいるその下。枝なりに果実がぶら下がるように揺れるそれ。
開け放たれた窓、初夏の風に揺れているのは上から手榴弾。煙幕弾。小型軽量爆薬…。
それらに紅く点々と付いている染みの意味は考察するまでもないだろう。
彼女は俗世間において、爆炎のリージェの二つ名で知られる少女である。
続いて、双子の青年たち。彼らは一括りで、鉄鎖の双子と呼ばれている。一卵性双生児である彼らを見分ける際は、頬に走る傷を確認すればいい。
左頬に傷が走っているのが、兄であるラム・バートン。右頬が弟メリー・バートンである。
彼らの足元は、硝煙の臭いに満ちている。無造作に積まれた銃火器類は、よく使い込まれた上に丹念に磨かれ、黒々とした山は足元にあっても鈍く光っている。
下座の老人へ視線を移せば、足元以前にそれらと目が合うことだろう。
老人を支えるのは、備え付けの椅子ではない。
それは、真白き狼であった。それも尋常な大きさではない。まるで、大熊の如き巨躯の狼である。
しかも、それが二頭。同じ大きさで、色彩だけが正反対のもう一頭は伏せた状態でじっと目を閉じている。
犬狂い、狼使い、調教師…老人にはそんな名称が付いて回る。
爆炎と硝煙と獣の臭いが立ち込めるその一室は、足を踏み入れた瞬間から大抵の人間が後悔を覚える場所に変容している。
彼ら自身がその辺りを自覚しているかは謎である。
それはともかく、幹部たちによる軽い会話は続く。
「まさか…じいさまも気付いていたというのか。いや、信じないぞ。きっと俺だけじゃにゃい」
噛んでいた。
「……わふ」
幾分間を置いて、じいさまこと老人の方から返事が返る。
それに呆れ顔のリージェ。
「どっちの意味よ、じい様。全く…めんどくさがるのも程々にね」
メリーは付け加えるように言葉を継ぐ。
「そうだね。…ところで、リージェ。安全装置外れてるよ」
「…ん?あ、ほんとだ。ありがと。メリー」
「リージェ。お前はそもそも大雑把すぎる。お前の爆風で道連れは御免だ」
真面目な顔でそう断じた兄へ、弟から容赦なく続く一言。
「ラム兄……以下同文」
そのまま固まった青年の足元をひょいと覗き込んだリージェ。彼女の顔に薄く笑みが浮かんだ。
「安全装置、外れてるわよ」
貝のように押し黙った青年は、ややあってそろそろと指先を伸ばして嵌め直す。
かちゃり。
音のない空間にそれは嫌に大きく響いた。
軽い調子で言い合うには、内容が滅茶苦茶である。
当人たちからすれば日常といって差し支えない。
その辺りがつまり、次元の違いといったところ。
幹部が幹部たる所以だ。
会話が止まった一室。
まるで図ったように、起き出した漆黒の狼。
一声大きく啼いた。
「わおおおぉ…ん」
それを合図に立ち上がった彼らは、『彼』を迎えるため叩頭する。
扉が開き、姿を見せたのは彼らの主にして"白蝶"の首領である青年だ。
その後ろには二人の人物が続いた。
リージェは後方に続いた内の一人を睥睨し、それを受けた当人は苦笑する。
「なるほど…。君は主と共に入室した自分が気に食わない。だが、待ちたまえ。この状況を作ったのはそもそも主の命によるものと考えられるが、どうか?」
暗に遅れてきた訳ではないのだと潜ませた回答へ、向かい合う彼女の双眸は益々訝しげに細められる。
さらに続くかと思われた両者の会話。
しかし、状況を見てとったメリーが後方から口を挟んだ。
「そもそも誰です、そこの誰か」
彼女の視線がようやく学者から離れて、隣にいる人物へと向けられた。
そこにいたのは、真っ青になって震える若い男。
言うまでもなく、彼ら幹部の知る人物ではない。
つまり、部外者だった。
「とりあえず、全員席につけ。話はそれからだ」
上座から放たれた声に、逆らうものはこの場に存在しない。幹部たちはそれぞれの席へ戻った。
一編の迷いも、躊躇いもない見事な統率である。
専制君主、絶対服従、弱肉強食…それら全てが窺える光景に一層震えを強めた青年の様子を、着席した幹部たちがじっと観察している。
肝心の青年は、それに気づく気づかない以前の問題である。真正面から彼らと対峙している構図に早くも意識を失いかけていた。
その室内はけして広すぎず、両側の窓も開け放たれてはいるものの解放感など欠片もない。
歪み、淀んだ空気に混じる血と硝煙の臭いが己の運命を暗示しているように思えてならない。
そして、空間の主が徐に口火を切った。
「さて。トマス・モルゲン、…君をここに招いた理由を折角だ。当事者である君から説明してもらおうか」
場に似つかわしくない、低い美声が彼の名を呼ぶ。
そう。今こうして招かれた青年は現在嘘飼いの依頼主でもある、かの青年であった。
前振りを受けた、当のトマス青年はもはや通常の精神状態にない。
指先は何を持たせたところで零れ落ちそうな有り様。極度の緊張が彼の足元と意識をふらつかせていた。
ゆらゆらと、ガタガタと。
今にも崩れ落ちそうな青年が話などまともに出来る筈がない。
彼を取り囲む全員がそれを察した上での、残酷な前振りであった。
「……客人は気分が優れないらしい。クロ、代わりに彼が話す予定だった一連の騒ぎを纏めろ」
話を振られた学者は、当初から予定はしていたものの、大仰に溜め息を溢して起立する。
いまだに震えを押さえることさえままならない青年を見ながら、学者が語った内容はおおよそ以下の通りである。
表向き、商会として事業を拡大してきた白蝶に対して敵意を持つものは日頃から絶えることはない。
トマスをリーダーとした町の比較的裕福な青年たちの集まりも例外ではなかった。
治安維持を謳う彼らは独自に自警団を創設し、活動している。
そう言えば聞こえはいい。しかし、彼らは表向きの活動の裏で犯罪に手を染めていた。
麻薬の密売から始まり、強姦、恐喝紛いまでおよそ自警団と名乗ること自体馬鹿馬鹿しい有り様である。
そして、素人の集まりが最終的に行き着いた先は最悪の事態。
統率の取れなくなった組織内の一人が馬鹿をした。
強姦の末の、殺人。
彼女の名は。
「…マリアージュ・クロワ。クロワ家の令嬢を手に掛けてしまった君らは焦っただろうね。そして短慮にも、馬鹿をしでかした仲間の男を私刑にした。しかし、その男もまた厄介な身の上だった。彼らの死体の始末に困った君たちは無い知恵を振り絞って考えた。…その結果があの風聞と今回の狂言だったと。子供なりに考えた結果だね。自分たちの代わりになる存在として、仕立てあげればいい。対岸には丁度いい組織があるのだから」
およそを語り終えた学者は疲れた様子で笑う。
「なるほど。その結果が白蝶でしたか」
「メリー…。その枕詞はややこしくなるから、控えろ」
双子の絶妙な茶々が入った後の、沈黙。
さて。この先の説明も自分の範疇であるかと視線を向けて問おうとした学者は、辛うじて間に合う。
気付かれぬよう、嘆息した。
今、下手に言葉を向ければ巻き添えになりかねない。
この沈黙を破る権利を与えられているのは、この場ではただ一人。
しかし、その空気を読むことが出来ない人物が哀れだった。
「…わ、……悪いのは俺だけじゃ、あいつが…そうだ。あ、あいつが、…あんな馬鹿をするから、だから俺は」
とうとう沈黙に耐えきれなくなった青年が、震える声を振り絞って訴えたのはよりにもよって子供じみた独白。
空気はさらに冷えきった。それにも気付けないまま彼は尚も自身を擁護する為に言葉を重ねる。
虚しく、愚かしく。
「馬鹿の仕出かしたことを、背負う義理なんて無い。あの人もそう言っていたから…だから、責任を他に転嫁することを選ぶしかなかった。二人だけでは信憑性に欠ける…だから、余分な犠牲も必要になった。風聞だけでは足らないと、言うから。それで情報屋まで依頼しに行って…は、はは。結局はこれかよ。全部あの人のせいだ…余計なことを言ったあいつの…俺は、騙されて」
幾度も繰り返される『あの人』。
クロが微かに眉を寄せるのと、上座の首領が口を開くのと果たしてどちらが早かったのだろう。
「君には素質がある…それに気付かなかったことが君の敗因だ。トマス・モルゲン、君に聞いておきたいことがある」
殺意を煙らせたまま、口許だけに鮮やかな笑みを乗せて首領は問う。
「君に嘘飼いを紹介したのは『あの人』か?」
「ああ、そう……」
肯定か、否定か。答えは唐突に絶ち切られた。
掻き消えた声。窓から飛来した一閃が、彼の首筋を貫いていた。
直後には、爆音と銃声が窓の外で展開されていたが、それらを尻目に当の首領と首から鮮血を迸らせて即死した青年を抱えたままの学者は醒めた眼差しを扉の脇へ向けている。
その二人の視線をまるで気にした素振りもなく立つ一人の人物。
普段の鬱々とした様子は成りを潜め、まるで当然のごとく微笑を浮かべている。
「レイフィールド。…ここは教会ではない。その意味が分かった上での訪問か?」
首領の問い掛けに対し、対岸の教会からやって来た神父は些かも表情を崩さなかった。
「そんなことは細やかすぎて問題にならないよ。それと、君らは何か勘違いしているようだから本題に入る前に断っておく。君の傘下にいたあの男の処分方法を助言したのは私だが、それを理由に報復を受けるのは御免被る」
さらりと明かし、路地裏の件への関与を認めた神父へ向かい合う二人は訝しげな目を向ける。
「ログ・ノートンは、組織の情報を対岸の警備隊上層へ売り渡そうとしていた。白蝶の約定に照らし合わせれば、明らかだろう。裏切り者であっても報復の対象となるのか?…答えは否だ。つまり、君たちの報復の対象はこの時点で存在しない」
目を見張った学者へ、いい笑みを向ける神父も大概性格が歪んでいる。
数少ない者が知る事実。
神父の表情と感情は時折真逆の意味になる。
微笑みは、苛立ちを。
歪みは、平穏を。
そして、陰鬱は良心を示す。
分かりにくい上に、切り換えも本人次第であるので日頃から嘘飼いの少女が苦言を呈する所以だ。
「…相変わらず、いい性格をしているな」
眇められた双眸に、神父はやや顔を歪めた。
こんなときに、平穏を感じているらしい精神には脱帽する。
学者は二人を傍観しながら、内心頭を抱えていた。
その通り。神父が言ったことは事実だ。
ログ・ノートンの裏切りは昨夜までの調査で判明していた。しかし、それを明かせばみすみす交渉の手札を逃すのと同じだった。
偽りも事実も、使いようである。
世界は綺麗事だけで回ってはいかないように、扱うもの次第で情報は化ける。
時を、誤った。
この時点で、神父の言う通りこちらが表立って制裁に踏み切ることは利にならない。
やられた、としか言いようがない。
怒りよりも、感銘に近いものを覚える学者。
しかし、ふと神父の表情に引っ掛かりを感じ取る。
「今回の件は、正直わたしにとっても些か計算外でね。本来なら、この段階で君個人と顔を会わせる予定ではなかった。…甚だ不本意なことに、あの子を守るためには自分がこの場へ来て姿を見せる必要があってね。…牽制になるかは別として、これ以上の厄介事を抱えたくはないからね」
全く…父親に似て人使いの荒い子だよ。
そんな呟きを溢した表情に、今まで見たこともないような陰が過る。
学者はここに来て、その噛み合わない違和感に言い様のない気持ち悪さを感じた。
違和感の正体を、彼自身が集めてきた情報と照らし合わせて遅すぎた事実に突き当たる。
今回の一連の騒動。
あまりに都合よく広まった風聞。
あの人。
あいつ。
あの子。
彼に、関わった人物は…一人とは限らない。
ああ、誘導だったのだ。まさに、筋書きのとおりに行き着いた先は彼らの求めた結果にすぎない。
学者は疲れきった表情を隠さずに、神父へ問う。
「あなたの言う、『あの子』も一人ではないのでしょうか…?」
戦慄を覚えたまま、問い掛ける学者の言葉に傍らの首領もまた同じ答えに行き着いたのだろう。
明らかに、殺意が増している。
当然だ。
白蝶そのものが、今回は使いきりの駒のように筋書きの上で消費された結果だ。
やりきれない…
彼らの表情を読み取って、ようやく神父はうっすらと本心からの笑みを浮かべてみせる。
「…藍の蝶、君は先ほど言った言葉を覚えているかね。あの哀れなトマス青年には素質があると。…察するところ、愚かしい素質とでも言いたかったのだろう。だがね、彼もまた不幸であったのは事実だ」
神父が何を語ろうとしているのか、とうとう終わりまで彼らは知る由もなかった。
だからこそ、騒動の終わりに首領が浮かべた表情に学者は慄然とさせられることになる。
「君らは辿れなかったようだね。いや、必要がないと除外していたか。…マリアージュ・クロワは、トマス・モルゲンの恋人だった。それは、偽りの関係性ではなかったのだよ。あの子は真っ先に確めたからね。その時点でもう、あの子は気付いていた。この依頼の無為さも、愚かしさも。それでも依頼を継続したのは、あの子が嘘飼いだからだ。この意味が分かるかね。…今の状況は必ずしも、当初あの子が望んだ形には収まらなかった。しかし、今回の筋書きは辛うじてあの子の方に纏まった。『あれ』も、譲った部分はあるにせよ。君たちは幸運だった」
息を継ぎ、神父はやれやれと終わりを紡ぐ。
「そう。あの子の筋書きは『あれ』に比べたら被害も少なくて済む。覚えておくことだよ、君たちはまだまだだ。彼ら嘘飼いを相手にするには現状では不足している部分が多過ぎる。役者として今後扱われたくないのなら、もう少し内部へ目を向けることだ…さて、助言が過ぎたか。今回はあくまで伝令として来たにすぎない。この辺りで失礼するよ」
神父がその一室を去り、それを見送った学者が戻ってくる。既に空気は収拾がつかないほどに沈黙と混沌に沈みきっていた。
しかし、追い打ちをかける来訪。
神父が廃城の外へ出るのと、ほぼ入れ違いのようにして扉の脇へ立つ無表情の少年。
仮面のような面に、微かに不満の色をちらつかせて毒づく。
「早々に忠言を送ったにも関わらず、…結果はこの様ですか」
少年の漆黒の双眸は瞬きもせず、射るように上座の首領を見据えて動かない。
「…重ねて申し伝えます。嘘飼いほどに厄介な存在を私は他に知りません。…今世に、あの兄妹がいる限り、偽りの種は絶えない。彼らは依頼を起点にあらゆる場、人、史実に影響を及ぼす事を厭わない。ばら蒔かれた嘘は、事実を歪ませ食い荒らす。そうしてねじ曲げられた事象は殆どが元のあり方を喪ってしまう」
どうか、心に留めておかれますよう。
そう言い捨てるや、彼もまた続く喧騒の合間を縫うようにして立ち去っていった。
学者は神父同様、彼を見送ってから戻ってきた。
ようやくここに来て主の様子を窺う。
上座の首領は、未だに沈黙を続けている。
その口許に普段の笑みは一欠片もない。
どれくらいの時間が過ぎてからかは判然としない。
席を立ち、背後に続く喧騒を束の間睥睨し、表情を消したまま呟きを風に乗せる。
「不愉快だ……普段ならそれで終わる。だが、今回の件はこれを最後にする気はない」
吹き荒れる胸の内を喩えるなら、翠嵐のごとく目を眩ませる激情といったところか。
だが、それだけでもない。
まるでずっと眠っていた無意識を揺り起こされたような、鮮烈も伴った。
まだ、平時に戻るには暫く掛かりそうだ。
ああ、忌々しい。
苛立ちさえ、どこか心地いいのが腹立たしい。
規格外の獲物であることは間違いない。
だが、壊すのは望まない。
逢って、みたくなった。
出来ることならば今回の筋書きを紡いだ彼女に。
学者が主の浮かべた表情に、恐怖にも似た感情を覚えている丁度その時から回り始めたのかも知れなかった。
今はまだ、対岸。
未だに爆発音の止まぬ廃城で、藍の蝶が嘘飼いの少女を求めるに至った歯車がようやく長いときを経て動き始めた。
当の少女は、まだそれを知る由もない。
この時から僅か数日の間に起こる、彼女自身を巻き込んで繰り広げられる凄まじい喧騒のことも。
今は、まだ。
今は、ただ。治りかけの体を動かして湖畔の西に広がる雑木林の一角に膝をつく。
絶望のなか、殺されて。
その後恋人の手で密かに埋葬された彼女が眠る土の上で、静かに祈りを捧げる。
依頼主は既にこの世には無い。
けれども、これが今回の依頼の終焉。
「メリア、また風邪を引くよ」
背後から魔女の声が掛かり、少女は頷いて立ち上がる。
焔には、廃城へ向かった神父の護衛を依頼していた。戻ってきた彼女へ振り返って礼を言う。
魔女の微笑みを見つめて、同時に浮かんできた『あれ』。無理もない。彼らは親子なのだから。
ここ数年、各地を転々としているらしい義理の兄。募る憎悪は、消えることはなく。
心のなかで、呟く。
愚兄よ、君のお陰でもっと平穏にゆっくり進めていける予定だった仕事の段取りが全て急拵えになった。
どうせ、まだ対岸にいるのだろう。
組織内監査に引っ掛かって、願わくば早々に息の根を止めてくれるなら、それ以上は望まない。
…そう。私が明日以降もこうして生きていかなければならないのは、君が生きている限り終われない業なのだから。
嘘飼いの根を絶やす。
父に誓った言葉は、今尚私をただただ無様に生き長らえさせる楔だから。
幾度でも、願い。祈る。
闇雲に、愚かしく。
「明日からの名前、もう考えているんだろう?」
道すがら、魔女の微笑を傍らに苦笑する。
「君たちに伝える機会がないことを、ただ祈るばかりだ」