There was such an uproar that it was as if someone had stirred up a hornet's nest
蜂の巣をつついたような騒ぎになった…とは。
今回のテーマは我ながら言い得てして妙でありますが。
今宵もまた遅々とした歩みを共に行きましょう。
…ん?
分かっているなら、少し速足で?
ふむ。一考の価値はありますが、何せ悪魔ですので。
あくまで、ペースはこちら側に。
前回に引き続き、悪魔内の定説その2をお伝えして挨拶に代えさせて頂きます。
えー、ゴホン。
…参りましょう。
刺青屋を後にした彼女と、その周囲で時を同じくして動き始めた『彼ら』の物語。
そして、向こう岸から一人の男がやって来るまでの顛末とは…
盛り沢山ですよ?
***
嘘飼いの少女が刺青屋を出て、運河を越えて帰路につくのとほぼ時を同じくして。
刺殺体が転がっていた路地裏に一人の男が現れる。訝しげな警備隊員たちの視線をまるで気にするそぶりもなく血飛沫の散った漆喰を眺め、ゆっくりと視線を死体が転がっていた位置まで降ろしてきてから微かに笑った。
薄い唇から、呟きを漏らす。
「…なるほど。なかなか面白いことになってきている」
呟きと同時に、既にその身を翻している。何事もなかったようにその場を後にした。
男の背を追って路地へ入った警備隊員は、男が角を曲がって見えなくなった地点で、突然の目眩に襲われその場に倒れ伏す。
彼を追って駆け付けた数人の隊員が、倒れた隊員の介抱をしている僅かな間には男の行方は分からなくなっていた。
後に彼らはその怪しげな人物の人相を思い出そうとして愕然とする。俄に信じがたいことが起きたからだ。
いざ思い出そうとした時になって、ただ一つとして確信をもって挙げられる特徴が出てこなかった。
女ではなかった。精々がそれくらいの情報しか上げられず、まともな報告書の作成も儘ならない。
その異常さは、しかし当人たちでしか実感できない。
結果、その目撃情報は大方の上役の注意を引くこと無く埋もれた。当然だった。報告書はあくまでたった数行に収まる情報量。具体的な羅列も何もない。
現場付近の路地で不審な男を一名発見。男を追跡した隊員一名気絶。
複数上がってきている報告の中のたった数行。
それらに逐一着目していたら、仕事は回らない。
通常であれば。
しかし例外はいるものだ。
「…これ、恐らく幹部やな。前からちょくちょく同じような報告上がってたし。まぁ、勘やけど」
警備隊本部、通称『蜂の巣』。
雑然と積み上げられた報告書の束を前に立つ二人の人物。
臆面もなく、勘と言って憚らない片方。寝癖がいっそのこと芸術レベルと評される彼の名は弐羽という。彼が寝癖を揺らしてからからと笑う隣、我関せずと仮面の如く無表情を保つもう一人。
「笑うゆとりがあるなら、仕事をしてください」
淡々と報告書の束を捲りながら、抑揚もなく発せられた声は無味、無欲、無感動それら全てを内包するような響きだった。
普通ならば、この一言で意気を無くして沈黙するところ、期待を裏切る例外もいるもので。
「笑うゆとりもないんか。それ、仕事じゃなくて苦行やろ。…まぁ、ええわ。人それぞれやしな」
実に軽い。それはもう、脱力を覚えるほどの軽さだ。それを十二分に汲み取った返答は、芯から冷え冷えとしたものを含んでいた。
「弐羽。もう一度言っておきます。ここは相互理解の場ではなく仕事場です」
丁寧な口調ながら、聞くものが聞けばそのまま凍りつきそうな圧を覚えているところ。
しかし肝心の当人はと言えば。
少しも堪えていないばかりか笑みも崩さないまま畳み掛ける。
「そうやな、仕事や。で、俺が思うにこの一行。これが幹部で当たりなら間違いない。今回の件で上手くすれば、かなりでかい得物が釣れるで」
その空気を読まない楽しげな口調に、まるでつられるよう。ほんの微か、傍らの無表情が緩んだ。
しかしそれも幻のような刹那のこと。
無表情の仮面が告ぐ。
「夢物語を語る暇があるなら、身を粉にして働きなさい」
「粉になる前には戻るわ」
からからと笑い声を残して、弐羽は本部を後にする。その背を見送るでもなく、残る彼は淡々と膨大な枚数の報告書へ目を通していく。その中には、解剖報告も混じっていた。
左腕に片翅の蝶の刺青。"白蝶"構成員。
推定年齢23~26歳。成人男性。死因・刺殺。頸動脈を鋭利な刃物で切断されたことによる失血死。
これといって目新しさも、猟奇性も、その他際立った特徴一つさえ見当たらない報告書だ。
しかし読み進めていた双眸に映り混んだ一行が、彼の仮面を引き剥がした。
現場に残された遺留物のリスト。十三の項目の中程に記されたそれは。
黒曜の破片。
ほんの一瞬の躊躇と、責めぎ合う感情。
焦燥を鉄壁の理性で辛うじて抑え込み、ゆっくりと立ち上がる。周囲からは察せられない完璧な冷静。偽りの仮面を被り直したところで、彼もまた蜂の巣を後にした。
行く先は当人以外の知るところではない。
湖畔の際、小さな小屋のなかには既に香ばしい匂いが立ち込めていた。
今夜のメニューは白身魚のムニエルと、パンプキンパイである。
白身魚は釣ってきた。先ほど帰宅するやいなや雨が降りだしてきた為、予定を変更した。
雨具を羽織って湖水際で釣糸を垂らすこと数刻。そうして得た貴重な食材である。
追加で、パンプキンパイは帰路の途中に通りがかったお向かいのマダムから頂戴した。夫婦でパン屋を営む近隣でも評判のお店で、創作意欲の結晶たる試作品を時折サービスしてくれるのだ。
非常にありがたい。
今宵もこうして無事糧に恵まれたこと自体に感謝しなければなるまい。
いつもの独りきりの晩餐。小さく祈りを捧げてからムニエルにナイフを入れようとしたところで、そのささやかな平穏が破られる。
不規則なノックの音。不機嫌さを隠さずに、座ったまま誰何する。
「誰だね」
「お邪魔するで」
空気を読まずに気楽な調子で扉を開けたのは、嫌になるほどよく見慣れた顔である。
だからこそ視線を向けただけ、溜め息も飲み込んで食事を再開する。
「座ってええか」
「好きにしたまえ。…それに、何を言ったところで邪魔する気は変わらないのだろう」
「ご明察や」
辛辣な返答にも、気にした様子はない。からから笑うばかりだ。相変わらず空気を読むことをしない男だ。…けして、読めないわけではないだろうに。
ムニエルを一口大に切って口に運ぶ。黙々と咀嚼しているところ、気にする素振りも無く男は会話を振る。
「最近調子はどうや」
「変わらない」
窓際へ椅子を引き、ざあざあ降り頻る雨をちらりと見上げた後。子供が何かを思い付いた時のような笑みを浮かべて彼は言った。
「あの男の死体、初めに見つけたのあんたやろ」
ムニエルを飲み込んで、静かに視線を向ける。溜め息をついて席を立つ。湯を沸かすのを忘れていた。火をつけ直し、沸かし始めたところで口火を切る。
「なぜ、そう思う」
「教会の近くやったしな。あの辺りは人通りも平時から少ない。ま、鎌かけてみたら当たりみたいやな」
「…福虎に会ったか」
「昔からあいつの方が苦手でな。嫌いな方から食べるんは俺のポリシーや」
福虎はかなり機嫌を損ねていることだろう。やはり昼前に訪ねておいて良かったと内心安堵する。
下手をしたら、閉店の札を前に溜め息をついているところだった。
…その点では、ついていたのか。
まだすべからく運に見放された訳ではないらしい。
「君の問いに馬鹿正直に答える義理はないよ。だが否定もしない。好きに想像したまえ」
言外に是と伝えたも同じ。助かるわ、と笑み溢す男へ苦笑する。
「ところで、君。お茶の礼に一つ頼まれてくれるかね」
カップを目の前に掲げながら、問う。
「おお、ええで。あんたには幾つか恩もあるしな」
「…ありがとう。助かる」
一杯のお茶と依頼一つ。とても釣り合いが取れる筈はなくとも、昔からずっと同じやり取りをしている。
そう。昔から、弐羽は私に甘い。そういった面がとても苦手だ。
それを知っていて、依頼する自分が特に好きになれない。有り体に言えば、苦痛でさえある。
それでも私は、数限られた人たちの支えを借りて依頼を果たしていくことを選んだのだ。
嘘飼いを継いだあの夜から、今に至るまで。それはずっと同じ。
少女が告げた依頼を弐羽は二つ返事で了承し、来たときと同じく気楽に去っていった。
空のカップを流しへ運び、静寂を取り戻した食卓へ戻る。まだ手付かずのパンプキンパイにナイフをいれようとして、…しかし平穏は再び妨げられた。
規則的なノックの音。
弐羽でないことは明らかだ。微かに眉をひそめる。
その場で誰何した。
「誰だね」
沈黙と、押し殺したような笑い声。
耳障りな音に、眉をしかめていると扉の向こうから聞き覚えの無い声がした。
「なるほど。…噂通りなかなか面白い。嘘飼いのお嬢さん、今は訳あって名乗れないがまた近々顔を合わせることになるだろう。夜分に失礼した」
気配が消える前に、声の主を確認しようと扉を開きかけ、自制する。
正体も分からぬ内に動くのは、あまりに浅はかだ。
席に戻って、頬杖をつく。
一体目的は何かと、一言一句思い返してみたが如何せん情報が不足していて想像の域を出ない。不毛な思索は早々に打ち切った。
完全に冷めたパンプキンパイを前に、今夜はもう休むことにする。
いずれにしても、暫くの間は自ら動く段階にない。その間はできる準備に手を回しておき、機を窺う。
全ては、嘘が育つ環境を整える為。
パイを貯蔵庫にしまいつつ、今日一日で得た情報も全て棚上げする。
頭を休めるのも、仕事の内。父の言である。




