刺青屋~福~
…おや、もうこんな時間でしたか。
今宵も月が美しい。暖炉の近くはいけませんね。
ついつい眠気に負けてしまうところは悪魔も人もありません。
蛇足にはなりますが。
私は黄昏の空もまた愛して止みません。
何故って?
…よくぞ聞いてくださいました。
黄昏時は、闇夜の次に人の心を惑わし易いもので。
あくまでも、悪魔内の定説にすぎませんが。
機会がありましたら是非ご活用下さい…
では、そろそろ参りましょう。
今宵もまた彼女の行く先を語ることに致しましょう。
路地裏へ足を踏み入れた彼女が見つけたのは…
***
初めに目に飛び込んできたのは、赤い色彩。次に転がった身体。最後に見開かれた瞳孔。
血飛沫は漆喰の壁にべったりと弧を描いて散っていた。
立ち止まったまま、死体を跨いで先へ進むべきか回れ右をして立ち去るべきか真剣に考え込んでしまった。
さて、何れを取るべきか。
仕事柄、刺殺体は見慣れている。だから心は僅かも切迫していない。
二つの選択を前に揺れていると、ふと目に留まった。刺殺されて転がされた男の服の隙間。捲れた部分に覗く何かの模様。
何故かこの時は躊躇い無く、周囲に気を配りつつも素早く屈み込む。
捲れた部分を更に捲って、瞠目した。
久方ぶりに感じる緊張感。内心では感慨とも呼べそうなものを覚えながらも、その場から離れて歩き始める。結局回れ右して別の路を選ぶ。
道徳心の欠片もない行動だった。
暫く歩いていると、後方から誰かは分からぬ悲鳴が聞こえてくる。それを聞き届けるのとほぼ同じくして今後の指針を定めた。
…うん。とりあえず自らが匿名で通報する事態にならずにほっとした。
あの路地からは、既に大分離れている。それでも聞こえる悲鳴であったから、誰を呼ばずとも警備隊は駆けつけることだろう。
何はともあれ、今回の事態で当初予定していた仕事の道筋は選べない。
組織へ入り込み、裏を取るのが最良と考えていた。
実際既に幾つかの手は打っていたのだ。
しかし状況が変化した以上、最良どころか早々に憂き目に合う確率が跳ね上がった。
やむを得ない。仕切り直しだ。
思い返すのは、模様。正確には刺青であったが。
象られていたものが、今回は何より問題になる。
片翅の蝶。それは言わずと知れた"白蝶"の証。実際に目にしたのは初めてだ。
さて、どうしたものかと思いながらも足取りに迷いはない。実際、刺青を確認した時点で次に向かう先は決まったようなものだった。
漆喰の入り組んだ路地を抜け、運河を一つ越えた通りは昼時ということもあり流石に賑わっている。
昼猫街道とも揶揄される通りには、至るところに猫がいる。築地に並んだポトスの葉の間からも猫の目が覗いていた。それらを尻目に街道脇の小さな店の前に立った。
表書きにはこうある。
刺青屋・福
~よろす、承ります~
何度見直しても、書き直す気配はない。
よろず、と書いてあったものが部分的に消えたものか若しくはそもそも書き損じであったものか。
実際のところは書いた当人にしか分からない。今となってはどちらでも構わない心境まで落ち着いてきたところである。
そう。時折は見返す程度。これはもう癖みたいなもので当人の意思ではどうしようもない。
諦めが肝心だ。
「店主、いるかね」
カラコロと入口のベルが鳴る。唐藍の艶やかな戸を開いて奥へと呼び掛けつつ、踏み入れた先。
物陰に潜んでいた影が腕を広げて迫る動きを察し、慣れた様子で避けて屈む。
普段通りだ。一連の流れにはまるで淀みがない。
「………」
「………」
互いに無言のまま、視線を交わす。
その後、やや距離を空けながら彼女は口火を切る。
「いい加減にこの流れは疲れるな。福虎、君もいい加減に普通の出迎えを覚えてくれるか」
本心から語ること事態が稀と言われる嘘飼いの少女。その彼女が一息のなかで同じ言葉を繰り返す。
その意図は十分すぎるほど、目の前に立つ店主に伝わった筈である。
苦笑しながら、店主は返答した。
「相変わらずつれないね、お嬢。でもね、残念ながらこの挑戦を止める気は無いんだよ」
無表情ながら、全身からは溢れるばかりの面倒臭さを器用に表現してみせる少女。その表現を見事に回避しながら、空気を読まない言葉は続く。
「いつか叶えてみせるさ。油断したお嬢をこの腕に抱いて頬擦りする僕の夢をね」
私は猫か。
すんでのところで、そう突っ込みたくなるのを毎度自制している。
ここは教会同様、仕事柄足を運ばざるをえない場所の一つである。ただ、ある意味教会以上に精神面が疲弊することもあり、可能ならば避けたいところでもあった。
…果たしてこの疲弊から解放される日は来るのか。
「おーい。戻っておいで」
遠方へ視線を飛ばしたまま、暫し現実から逃避していた少女へ店主の声が掛かる。
現実へ意識を戻した少女は仕切り直すことにした。
「今はメリアと呼ばせている。福虎、いつも言っているつもりだが、距離が無駄に近い」
少しでも気を抜けば、触れそうなほど近くに寄っている。後退りしながらの会話が恒例になる。
「今回も可憐な響きだね、お嬢。ところで今日は依頼かな。本当は個人的な誘いを期待するけれど」
「依頼だ、福虎」
ばっさりと告げれば、苦笑してみせる。
その無駄に美しい容貌を見上げつつ、つくづく自分の周りには名前を覚える気がない人物ばかりだと再認識する。神父にしても、彼にしても。
福虎は、看板にある通り刺青師である。加えて、この付近では指折りの情報屋でもあり、その情報を収集する術はここ一帯でもずば抜けている。
そもそも刺青を彫りに来る人々の大半が堅気でないのは周知の事実。裏の伝は、通常それなりの対価を払って得るもの。
しかし、これは例外だ。
天性のものがあった、としか表現できない。容姿も影響しているようだが、詰まるところ『性質』だ。
彼と関わる人々は、知らず知らずのうちに閉ざしていた事柄を口に出してしまう。
まさに、生来の凶器。
こうして物理的にも距離を置きたい自分の気持ちも分かってもらえることと思う。
とにもかくにも質が悪い。協力関係になければ、絶対に関わりたくない人物の上位に当たる。
生来のものが、性質だけならまだ良かった。現実は容赦がないにもほどがある。
そう、容姿。福虎は異国混じり。それはもう際立って整っている。初めて顔を合わせた時には思わず素で天使か…と溢したほどだ。
淡く金糸の混じった栗色の柔らかな髪質。白皙の面。若葉の色彩を溶かしたような双眸。均整の取れたしなやかな肢体。…羅列したら切りがない。
少年の頃の面差しを残して中性的な青年として成長した彼は、意図して微笑む。
幼さを残した美しい彼に微笑まれた子羊たちは、一様に色々な部分が麻痺するらしい。
誰にでも出来る芸当ではない。
もう一度言っておこう…質が悪い。それに尽きる。
「お嬢の仰せとあらば、この身の及ぶ限り助力するつもりだよ」
「…ありがとう。ところで、福虎。今回の依頼は少し厄介でね。ここで話した内容はこの場限りと約束してくれ」
青年は僅かに眉を寄せた。問う様に開きかけた口は少女が微かに振った首の動きで、言葉にならずに再び苦笑を形作る。
「お嬢のそういうところは、本当に先代に生き写しだね」
先程も似たような文言を受けたばかりだ。複雑な心境である。先代すなわち父親であった彼は、世辞にも理想的な像とは言えない斜め後ろにずれたひとであったから。
大事な存在であることは間違いなくとも、生き写しとまで言われるのは正直心外だ。
早々に切り上げよう。
ここに来て思うのは少々遅すぎた感は否めないが、突っ込んではいけない。
「福虎、"白蝶"の刺青には幾つの階級がある?」
その名称と問いに、明らかに彼は瞠目した。若葉色の双眸が曇る。
「お嬢…まさか今回の依頼、白蝶絡みと言うんじゃないだろうね」
「時間は有限なのだよ、福虎。答を」
言外に肯定したも同然だった。
薄暗い照明の下でも、互いに表情は見て取れた。
福虎の珍しく渋い表情から、答えが返るより前に察したのは。
このまま探っていったとしても、辿り着くのは録でもない結末だ。
けれども、結局のところ結末はどうでもいい。
否、正確にはどうあってもらっても構わない。
私は、嘘飼いであるから。それ以外の何者でもない。嘘は、どれ程に殺伐とした場所でも、暖かな団欒の最中でも、何処にでも在る。
扱いに必要なのは、ただ環境を知る努力とその環境に合わせて身を潜め、機を窺う。ただそれだけ。
続く沈黙。互いに折れない空気を読みとり、仕方ない。不本意な手に打って出る。
「福虎。…君が答をくれないなら、限り無く不本意ではあるが焔に…」
「刺青は3種ある。三下の片翅、幹部の紅の蝶、…そして首領の藍の蝶」
一転した。
早鐘を打つように答えが返る。
他に咄嗟に思い付かなかったとはいえ、正直気まずい。今後はなるべく避けたいばかりだ…
「…それだけ貰えればもう十分だ。ありがとう、福虎。ではね」
距離を保ったまま、唐藍の戸を押して通りへ戻る。
後ろ背に微かな溜め息。
いつも通りだった。