氷海の都‐Ⅲ‐
序盤戦、山場を迎えます(^-^;
今暫くお付き合い頂ければ、幸いです。
さて…。
今宵の語り。そのテーマは―――簡潔に申し上げます。
少女の選択と、新たなる旅路へ至る顛末。
強いて言うならば、それに尽きることでしょう。
野暮は程々に。
さあさあ、準備は宜しいですか?
いざ、行かん――――…
“真実”のその先へと―――――
*
「戻っておいで。萌黄」
彼のソプラノ。私の意識を現実へ引き戻すそれもまた、今となっては自分を支える。
彼を視界に入れる。
それと同時に、周囲の様相も徐々に明らかになる。頑丈な石造りの外壁によって支えられた白亜の大門。鳳を中央に、広げた翼を左右に支えるのは金色の獅子である。つる草の装飾も精巧で見事と言うほかない。
「…綺麗」
思わず呟きが漏れる。曲がりなりにも絵師の家系で育ってきた自分であるから。
「さあ中へ。ここを抜ければようやく正式に名乗ることができる」
背後から響く声に明確な安堵を感じ取り、そういえばと振り返ったのと都へ足を踏み入れるのとは同時。
外套が捲られ、軽く首を振って伸びをしたのは、思わず身を引きたくなるような美男子である。
年の頃は兄と同じくらいだろうか。いい勝負である。珍しくて思わずまじまじと見上げると、それに気づいて慣れた様子で微笑してみせる。
「ようこそ、我が祖国へ。私のことはセツと呼んでくれ」
「セツ様酷いです。あの状況を普通丸投げしていきますか」
殆ど間を挟まずに後方から響いた声。振り返った先に立っているのは人当たりの良さそうな、自分とほぼ同じ背丈の少年である。おそらくセツと名乗った彼よりかは一見すると年下に見えた。
しかしながら、彼の様相はひどかった。まるで斬り合いをした直後の様に体中血塗れである。
「御苦労さま、瞑。彼は私の傍付きだよ」
労を軽い調子でねぎらいながら、言葉の最後で紹介も済ませる。互いに会釈をしつつ拭えない違和感を辿っていって、遅ればせながら気づく。
「…先程の鳳は」
「よくお気づきになりましたね。流石です」
嬉しさを隠さない様子に、無理もないと思う。先程の巨大さと比べれば、普段会っただけで関連づけるのは困難だと言うほかない。それほどの差だ。
彼が筆致であることに気付いたのは、会釈の際に垣間見えた左耳の印に気付いたから。人型をとることができる筆致の多くは、左右の耳の何れかに属性に応じた印が見えるのだと聞いたことがあった。
実際に見たのは初めてではないものの、かなり珍しいとはいえる。
「しかし血塗れだな、瞑。それでは人目に付く。仕方もない、これを羽織っていろ」
自らの外套を剥ぎ、手渡す彼を見ながら思う。
「君こそ、その外套を取って一緒に歩くだけで人目に付く容貌だけどね」
まるで代弁するように凪の声。
対して言われた当人は傍目に苦笑しながら、懐から取り出したのはまさかの予備である。
「心配無用だよ、深緋の。備えあれば憂いなしと言うだろう」
自然な口ぶりで、彼の素性を承知していることを明らかにして見せる。その目は僅かも笑っていない。
名乗りながらも、彼の目的が分からない間はどのような対応が望ましいのかも手探りにならざるを得ない。
現時点では、地の利もある。彼らの優位には違いない。
できるなら慎重に見極めたかった。
しかしながら、彼のソプラノは如何なる時においても率直さを失わない。
「君は傍系かそれとも凰家直系に当たるのだろう。目的は彼女に宿る創世の理か。でも分からない。何故駒を使わなかった。それに君は知りすぎている。情報源になっているのは誰だ」
「よく回る口だね。叔父の寡黙さは君には継がれていないらしい。…一つ一つに回答している暇は残念ながら無いよ。強いて言うなら。そう、…当人に聞くことだね」
視線を向けた先、街灯を背に立つ影。やはりと思いつつも雪月の凪いだ表情を目の当たりにして思う。
人を信用するということほど、安易で難しいことは無い。
「言っただろう。凪。誰かについて言及する暇があるなら、自分を省みることだ」
淡々とした叔父の語り口に、言葉を失う凪の傍らで少しずつ。余分なものを削り落とすようにして考えていた。次第に収束する岐路。それを前にして自分は選択する他ない。
この先は、何れを選んでも周囲の災いを招くだろう。
今まで失い続けた。零れ落ち続けるそれを、見ているだけで済ませるのはもう終わりにしよう。
因果がいずれ自分を裁く時が来ても、誰の所為でもない。己が身でそれを負うだけだ。
街灯が降りだした雨滴を白く染め上げる。足元に広がる波紋。それを見下ろして映り込んだ自分の眼にはもう虚の気配は無い。
「両親の依頼、というところから全てが偽りでしたか」
少女の問いに、雪月は笑む。
「いや。依頼は事実だ。その後の経過は君に偽っていた部分が殆どだが。君を船に乗せるまでの間に凰家からの依頼が舞い込んでね。君との依頼成立以前にこちらの依頼が成立していた。二重契約にはなったが、双方の意向は沿う部分も多かったのでね。君を露鴻まで送り届けたことで依頼の完遂ということになる」
「凪にそれを知らせなかったのは何故です。あなた方は二人で深緋でしょう」
「ふむ。その口ぶりだと気づいてはいたんだね」
そう。気付いていた。それは偽名をもらったあの朝、水面に映り込んだ印を見つけた時から。
「凪はあなたの筆致でしょう。彼は貴方に命を預けて共に生きてきた。…違いますか」
「そうだね。これまで共に生きてきた。…ただ、誤りがあるね。凪は私の筆致ではないよ」
思ってもいなかった言葉に瞠目する。これについてはほぼ確信を持っていた。
「あなたは筆名を持っていない…」
「そう。…君は半分ほどまでは辿り着いている。あと僅かに記憶を辿っていたならば、違う道筋もあったのかもしれないね」
互いに沈黙し、合間を降りしきる雨音だけが意識を埋めていく。
そう、何時だって考えていたのは。これとは違う道筋もあったのではないかという仮定ばかりだ。
それがもしかしたら、あの人の言っていた私にとっての荷であるのかもしれない。
そうだとすれば、もう私に必要なものはとうに定まっていたとも言えようか。
私は荷を負うことにした。
もう、沈め続けることはない。
ここまで来て、ようやくそう思うことができる。
今自分に必要なものを自覚すれば、ただそれだけで良かった。
「凪、あなたの命はもう私が預かっていたね」
呟きを雨滴の間に滑らせて、伸ばされる腕が触れる前にぽたりと伝って落ちた紅。
波紋は広がり、三人の体が路上へ倒れ伏す。
波紋の中心で、指先から血を滴らせた少女に表情は無い。ただその双眸だけが薄闇の中で、凄絶に灯る。
「…雪深。いるのでしょう」
囁いた声が終わるころには、足元に寄り添う温もりが一つ。
「この先は、叔父の遺言に背くことになる。それでもこれは私の意思。いや、我儘になる。あなたたちとこの先を歩きたい。ついて来てくれますか」
彼女の閉じていた瞳はゆっくりと開かれて、ランタンの様な明るさが灯る。
「これからの、この先全て。そなたを見守る為に掛けると誓った。今もその誓約は変わるまい」
赦された。
独りよがりかもしれなかったけれど、何故だかそう思えてしまえた。
やはり人というのは、自分に都合よく出来ているのだろう。
握りしめた手の先が鈍く痛むのを噛みしめながら、ようやく彼と向き合う。
「凪。あなたの返答をください」
「…参ったね。君と顔を合わせた時から予感はしてたんだけど。でも一つ聞かせてもらえるかな」
元の調子を取り戻しつつある彼に、やや安堵を含んだ苦笑を返した少女は尋ねる。
「何を聞きたい」
「君の見据える先は、どこにある」
少女は考える。いや、とうに定めているものはあった。考えていたのはそれを口にするタイミングの方だ。
「…凪。あなたは言ったね。耳目は何処にでもある、と」
「…なるほど。一理あるなあ…。自分の言葉がここに来て返ってくるとはね。うん。分かった。引き続き君に預けよう。それとね、一応言っておくね。実を言うと、凪のほうが真名だから。だからこの先も呼ぶ名はそれで構わない」
それを聞き、ここまで来るまでに幾つの偽りがあったことかと改めてほとほと呆れる。
彼らとともにいた自分が、彼らの思惟次第でどのような道にでもなりかねなかった。それくらいにぎりぎりの、とても微妙な関係性であったことを自覚もする。
「分かった。…凪、これからもあなたを呼ぶ時はそう呼ぶ」
返答し、小降りになっていく雨の中で見据えた方角は西。
「ずっと、考えていたことがあるの。…可能性は低いかもしれない。それでも行くまでは分からないから」
少女は歩き始める。
その肩へ飛び乗った雪深が四方へ術を展開し、後方から付いて歩く凪はただ一度。ここに至るまで数十年、共に歩いてきた同志であった男を省みた。
声にこそしなかったが、その眼差しの奥には憂いだけが残る。
裏切りを非難することも、良心以前に計略的な思想について言うことも、自分には出来ない。
それでも共にいた。筆名について一切を問わないというただそれだけを守ってくれた彼だったからだ。
そして時は来た。これもまた、裏切りの応酬と言えようか。しかし互いが選んだのだ。
筆致としての彼が、彼女を選んだのは紛れもない事実である。
湿った風が頬を掠めて、その先にいる少女の髪を舞い上げる。暗闇の中で、ただ街灯の明かりのみ。照らし出されるその背はあまりに細く、心許ない。
それでも彼女は芯を見い出し、歩いていこうとしている。自分に出来ることはそれを見守り傍で支えることだけだ。進みようによって、この先彼女が世界へ与える影響は計り知れない。
そしてそれを誰よりも自覚しているのは彼女自身だ。
そしてもう一つ。彼女が自覚しているであろうことを思えば、紛れもないその強さ。それもまた自分を決断させる一つになったのは紛れもない。
何もそれは自分に限った話ではないのだろうけれど。
大門をくぐり抜け、再び嵐のもとへ戻っていくような心境に心細さは隠せない。それでも自分は一人ではなかった。都を振り返り、僅かばかり惜しむ。もう少し、時があったなら目に留めておきたい事もあった。
遅れて大門へ辿り着いた凪の手には、手綱が握られている。赤色の翼を羽ばたかせる馬は平静を取り戻してようやく自分の背に見慣れないものが付いていることに気づいたらしい。首を捻って不可解そうに嘶いている。申し訳ないことをした。
「手綱は君に預ける。行き先を知るのは君だからね」
凪から預かり、首肯した。
少女と二つの筆致はこうして氷海の都を後にした。彼らが後にこの地へ戻る時、それまでには長い年月を経ることになる。
*次回予告*
舞台は“西”へと移ります。
この先が中盤戦へと繋がって参りますので、辛抱強く見守って頂けたら嬉しく思います。




