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白い悪魔の夜語り  作者: runa
Ⅰ ~月語り~
10/32

starry heavens




<festival>





***














彼らが足早に中庭を抜け、城門へとたどり着いた時には少女の背後に続いて現れた人物たちも視認できた。


立ち止まり、臨戦態勢に入りかけた二人の様子を察知してか、少女が一歩割って入る。



「…先程の騒ぎについてまず謝罪しよう。君の、兄だろうか。巻き込んでしまって申し訳なかった」



双子の片割れに視線を据え、叩頭する。

息をのんで固まったメリーの耳に聞き覚えのある声が届いたのはこの時だ。


「あなたに謝罪する謂われはありません、どうか頭を上げてください」


ようやく薬の影響も薄れてきたのだろう。

どうにか城門へ手をついて体を支えて立つラム・バートンに目を見張ったのは黒も同じである。



「…ラム兄、まさか生きて戻るなんて」



まさにそうとしか言いようがない。

対岸へ船で到着し、主へ説明する際にもほぼ死んだものとして報告していたのが、こうして戻ったわけである。

駆け寄った弟に支えられて、兄であるラム・バートンは佇んだままの少女へ向けて膝を折る。



「君、無理をするものではないよ」



思わずそう零した少女の言葉を介さず、双子の片割れは告げる。


「あなたには、恩がある。生き長らえたのも全てはその矢傷が証拠だ。改めて礼を言わせてくれ」


黙ってそれを受けた少女は、暫くして一つ溜息をつく。


「…分かったよ、君。礼はこの場で受けた。この場の全員が証人だ。これで納得したかね」


淡々とした言い様ながら、どこかで普段よりも柔らかい響きであるのを魔女は気付いて微笑む。

兄と同じく嘘飼いでありながら、どこかで染まりきっていない部分を感じさせるのがこういう時だ。



「…それにしても。話には聞いていたが、闇夜の下ではまるで船影のような城だな」



どこか呆れたようにそう呟けば、その傍らに影が差す。



「舟の上では、美しい月ほど忌む習慣がある。海の魔物に魅入られる兆しだと恐怖するからだ。それも地上では勝手が違う」



城門の陰から、気付かないうちに歩み寄られていたことに気付くと同時。

無意識に下がった距離も詰めるようにして、膝をついた男の手にいつの間にか自分の片手を掬われている。



「ようこそ、歓迎しよう。…シェリル・ローズ嬢。あなたを待っていた」



暗闇でも、その双眸が含む歪みと怜悧さはまざまざと感じ取れた。

この城の主。白蝶の首領。

ざっと見た限りでも容易に察すれば、ここで手を引き抜くことは逆に非礼に当たる。

少女から見た藍の蝶の第一印象は、この時点で決まった。


愚兄と同じか、それ以上の危うさ。それは言い得てして妙であった。


「…この城の主とお見受けしましたが、気配を消して近付かれるのは少々心の臓に差しさわりが出ます。以後気をつけられた方がよいかと思いますが、いかがでしょう」


やんわりと獣の如く忍び寄られるのは不愉快だ、と伝えたつもりではあったが。

ここ数年は意図して口調を男性調に近付けていたため、なかなかに違和感が消えない。


しかし、そんな違和感など一蹴できそうな感覚が手の甲を走る。


軽く触れるか、もしくは仕草だけの挨拶。それが通常である。

とんでもない。

軽く触れるどころか、吸われた感触に悪寒を覚え、反射的に引き抜こうとした手はびくともせず、さらに一瞬おいて痛みを知覚する。

この間、当人以外では殆ど気に掛けるほどの時間は経ってはいない。


解放された手には勿論、微かに赤みが残る。

しかしこの暗さでは目を凝らさない限りは誰も気付くまい。

それでもさり気なく掴まれていた手を後ろ背に回して、束の間の油断も許されないと自己を省みる。


「元の稼業から抜け切らない悪習、といえばそうかもしれない。驚かせて申し訳ない」


口元に浮かんだ笑みに、魔女に通じる艶が見え隠れする。

それを見て取れば、ますます内心でげんなりした。

自分の苦手な人物の癖や特徴を漏れなく集めて再構成したような人物である。


ここまで来ておいて馬鹿らしい話だが、早々に挨拶を済ませて帰りたくなった。


しかしそうもいかないのが現実である。

招待の名目を先に伺っているだけに、このまま回れ右して帰れる筈もない。

暗澹たる気持ちを一かけらも外へ零さぬよう、意識を集中させたのが裏目に出る。

再び察知するのが遅れた。

寄せられた身の近さ。それを避ける口実が脳裏に浮かぶまで間に合わない。

するりと、利き腕を囚われている。

はたと意識がそちらへ向いた時には抜け出ることもかなわない。

傍目から見れば、エスコートの内に入る動作であろう。

けれども前提としてまずは整理したい。

招かれたとはいえ今の今まで顔を合わせたこともなかった男女が身内でも、ましてや親類でもない二人が唐突に入る型ではあるまい。


せめて一言あるだろう。


これが素の状態ならば、これまでに何度、悪態が口を割って出るものか知れない。

そのまま中庭から広間へと誘導される流れに、口を差し挟める筈もなく。

傍目には寄り添う形で、内心では引き摺られていく心境で中庭を抜けて歩いていく。





後方は、といえば。

その空気の殺伐とした感はなんとも言い表すのが躊躇われる。

紫鳶の漂わせる殺気、敵意は底知れない。

黒々としたそれを上回るのは、もはやどす黒いとしか言えない魔女の笑み。

完全に臨戦態勢まであと僅か、といった空気をむしろ味わうようにして桜色の微笑みを浮かべるオウルは、序幕から胸を躍らせている様子を隠さない。


彼らから一定の距離を空けて対峙する双子と学者はあり得ないものを目にした衝撃から未だ立ち直る術を持たない。

まさに彼らの心境を表すとすれば、一言で済む。


何あれ。


普段ならば、目の前で垂れ流される殺気を察知した時点で得物を構えていなければ生死にかかわる。

体に染みついているはずのそれを忘れ去るほどの、光景。


ようやく動き始めた思考でもって、辛うじて互いに言葉を交わす。



「初めのあれ、口説き文句ですか。あんなことを素で言う人だったでしょうか」



メリーのやや茫然とした口調に対して、ようやく鞘に手を掛けた黒が普段の枕言葉も忘れて返答する。



「彼にエスコートを務める甲斐性があったことに、自分は驚きを隠さない。否、そもそもあれはエスコートだろうか。断れる一拍の間も取らせずに身を寄せていたように自分には見えたが、いや錯覚か」



混乱しきったまま、ぎこちなく交わした視線の先で互いに理解が追い付いていない現状だけは把握した。


例外は唯一、城門で未だに欠伸を噛み殺す老人と犬たちだけである。


そんな背後を置き去りにしたまま、前を行く二人は既に広間へ足を踏み入れている。










「一曲、願いたいところではあるが。招いた名目を先に済ませるほうが少しは落ち着くか」


囁くような声音に、辛うじて鳥肌を晒す醜態を避ける。

嘗めてもらってはいけない。

何しろ身の回りには似たような特徴を備えた逸材が幸か不幸かいるもので。

平静を保って、呼吸も一息整えて返答する。


「ご配慮、ありがとう。そうさせて頂ければ助かります。こうした華やかな場には慣れておりませんから」


「分かった。喧騒の近くでは落ち着いて話も出来ない。…執務室へ案内しよう」



微かな間に含まれた艶に、微かに覚えた違和感を探る前にはもう歩き出している。

広間の端を足早に通り過ぎ、薄暗い回廊を抜けていく足取りには一時の躊躇いも感じられない。

互いに会話もなく、その間を靴音だけが響き合う。

意識して距離を目算したが、それを上回る速さで急激に背後の喧騒から遠ざかっていく。

広間を抜ける時は気にならなかったが、この足取りの速さは何か意図をもったもののように感じられる。無意識から強ばる体を、感じ取ったのかは分からない。

けれども僅かに緩んだ足取りにほっと呼吸を一拍。

それに対してかは分からない。耳元で囁くよりも小さく呟きが耳を打つ。


「息苦しい」


独り言のような呟きに、返答を求めているかも判断がつかない。

結果として沈黙したまま、ゆっくりとした足取りになった横を歩きながら、ふと視界の端に過った月。

静寂と、くぐもった様な月明かり。

それが唐突に水底を呼び寄せる。そして束の間の眩暈。

辛うじて体勢を保ちながらも堪え切れなかったふらつきが結果として身を寄せるような動作になる。

はた、と止まった足取りに慌てて身を引いて謝罪の一言を乗せる前に、両腕の中に顔を埋める形になった。


前後の脈絡が理解できない。繋がらない。ただ、互いの体温が温かい。


状況に思考が追い付いていかない。

空白のその部分を埋めるための言葉を発する前に、視界を覆う暗がりと吐息。

重なったそれが唇だと認識する前に、抱き寄せられる力は多少もがいたところで、少しも抜けだせなくなるほどに強まっている。

冷静になるには、距離が必要だ。

その意識から身を出来る限り引こうと試みたが、相手が悪い。

身を引いた先、壁際は逃れるどころか拘束しやすくしたも同然である。

まさに貪るような執拗さで、追い詰められて幾度重ねたか判別つかなくなる頃には、もうどれほどの言葉を尽くしたところで、弁明など通用しない状況になっていたと言わざるを得ない。


此処まできたら、もう装うことさえ無意味。そう考え至れば、逆に気も楽になっている。



「君、まさかとは思うが招待の名目を偽っていたとは言うまいね」



距離が距離なだけに、辛うじて止んだ接触を目で制して囁くような口調で問う。



「…ようやく素面で相対できたな。そうだ、名目はあくまで建前に過ぎない。だが、理由としてはあながち間違いでもない。一連の流れだ。ずっとこの時を待った。…ようやく幕開けだ」



藍の蝶が滔々と語る。嘘飼いの少女はただじっと沈黙していた。

それが語る当人からはどう見て取られるかも十分に分かった上で、沈黙以外は必要もなかった。

拘束された腕は寸分の抵抗も許されないほどに抱え込まれており、それは足も同じだ。

体格の差と腕力は男女の別以上に彼自身の膂力を加味して、もはや力技どうこうで逃れる術を奪われている。

だが、少女の眼には一筋の諦観も宿らない。

彼女にとってこの状況は冷静になった今、さほど悪い状況とは呼べなかった。

だからこその、平穏。平時に戻った表情はむしろ冷やかでさえある。


幕開け、ね。なるほどあの愚兄らしい言い回しだ。


彼女がここでまず言葉に乗せたのは、言われた側からすればまるで脈絡もなく受け取られるような呟き。



「君は、わたしがなぜ兄を追っているか。その理由までもは調べなかったのだろう」



もはやその目は、抑え込まれている側の浮かべるものではない。

それは虚だ。

感情を限りなく削ぎ落した歪み以上に、人として見るに堪えない。

そんな暗がり。



藍の蝶はその暗がりを前に、何か。初めから掛け違えていたようなそんな違和感を覚えた。

はたしてそれは真であり、同時に嘘飼いというもののおぞましさに繋がる糸口であったのだろう。

彼女はその先を語らない。語る必要はもうなかった。

力を失った拘束を抜けて立ち上がり、乱れた着衣を何事もなかったように戻した。


そして一時月を見上げた後。視線を落とし、未だ微かに虚を含んだ眼差しを合わせて告げる。



「君に一つ、意趣返しも兼ねて伝えておこう。嘘飼いとしての私に興味があると言ったね。そもそも嘘飼いと名乗り始めたのは父親でね。彼は本当は誰よりも嘘を憎んでいたにも関わらず、報復のため嘘を撒いて村一つを潰したのだよ。…私の母親である人はね、魔女と呼ばれた。裁判とは名ばかりの拷問にかけられて焼き殺されたよ。その裁判に関わった村人全員に父親は報復する為に、嘘飼いになった。それが始まりだ」



月が雲で隠れ、暗がりに沈んだ。


その間に立ち上がった藍の蝶は音もなく、少女の細腕を掴み取り、そのままの勢いで片腕に抱え込む。

月明かりが戻り、二人を照らし出した時には一つに重なり合うように影が伸びている。

そして、冴え冴えと。

月よりも硬質な鈍い輝きを前に、藍の蝶は本来の笑みを取り戻す。


海の上ではさぞ映えただろう。ぞくりと背筋を逆なでるような、嗤い。


濁って底知れない、それ。

けれどきっと水底は想像もできないような静寂を孕む。つまり無感情だ。



「空っぽだね、あなたは。私といい勝負だ」



つい、と自然に口について出たその言葉。

二度目の轍は踏むまい。

その思いで拾っておいた魔女の短刀を首筋に突き付けて距離を僅かに保つ。

しかし、皮肉なことだ。刃で動きを止めたまでは良かった。

それなのに。本当に現はままならない。

無意識と言っていいところから放たれたその言葉。

それが彼の水底を揺らしたことを、後になって察したところで取り返しがつかない。

遅い。遅すぎる。遅すぎた。

食い込む血の滴りに、臆した。



思わず見上げた双眸は、既に。狂喜に染め上げられている。



記憶がすべて水面に浮かび上がる前に、予感だけが伝える。

取り返しのつかないことをした。

呼び覚まされたそれは、もう二度と沈め直すことは叶わない。


覆い隠して、蓋をして。いつも眩暈の先に目を逸らし続けてきた水面の底。


あの時互いに体を濡らしていたのは、湖水だった。

それが今はどうだ。紅のそれはひたひたと、じわじわと互いの肌を染めていく。

男の首筋から滴る赤は少女の頬を伝い、堕ちる。

互いの沈黙は示す。これが、意図したものではなくとも再会であったことを。


少女は意識の底で、これもまたあの兄の撒いた種であることを知る。そして毒づく。



「愚兄。……いるのだろう。いい加減に姿を見せたまえ」



視線だけは前に据えたまま、耳だけがくすくすと楽しげに嗤う音を拾う。



「今は…そう、シェリルだったね。四年ぶり。変わらないようで安心した」



回廊の柱の陰から、そう言って姿を現した男はどこか幼さを含む笑みを張り付けて立つ。


メルフィー・ローズ。少女の異母兄にして、残された唯一の血縁。

もう一人の嘘飼い。

その両肩には今は何も乗せていない。それを見て取ると、開口一番告ぐ。


「翆と禾南はあちらへ行かせたか。通りで誰一人こちらへ追いつかない」


「ご明察。あの子らは君に会いたがっていたけどね。…今回ばかりは仕様もない。何せ、魔女と鴉を留める必要があった。君たちの再会に無粋なものは必要ない」



彼らだけではあるまい。黒やましてオウルさえ姿を見せないということは、示すところは一つ。



「無粋な真似、といったらあなた以上はないだろう。愚兄。…斑も呼び寄せたね」


「…本当にいい読みだ。ここまでお膳立てしておいてあれだけど…やっぱり、君に会わせるのは早計だったかもね」


君、と名指しされた当人こと藍の蝶はもう一人の嘘飼いが姿を見せた時点から、笑みを潜めている。

少女を捉える片手には一時の揺らぎもなく、利き手は刃の柄に添えられたままだ。



「うーん。やっぱり釣り合わないね。君じゃあ、枷としては不十分だ」



枷。その言葉を聞いたとたんに、脳裏に何かが爆ぜる。

繋がれた手を千切らんばかりに距離を詰めようとした少女を、辛うじて留めるのはその拘束のみ。


双眸に宿るのは紛れもない憎悪。


あと僅かに届かない刃の切っ先を前にしても、まるでその笑みは形を崩さない。

むしろ深まった笑みはただ仄暗い感情を孕む。

それは続く言葉にも明確に表れる。



「シェリル。君の枷は僕一人で十分だよ。そうだろう。…あの夜から、君はずっと十字(クルス)に縛られたままだ」



あの夜。

それを兄である男の口から聞くほど、彼女を今狂わせるものはない。

飛びかける理性を震える刃が語らずとも示す。

堪える殺意を、さらに押し込める。それは身を引き裂くような痛みを伴った。

父の声が脳裏を掠める。



あれは自分以上に嘘に慣れてしまった。

もう、きっと君にしかあれは止められまい。

愛しい君。どうか。



「あのひとが託した。その望みを継ぐために、嘘飼いになった。けれども正直なところ。わたしは、もう」


続く言葉を一度切って、据えた眼差しにただ映す。嘘で塗り込められた表情のない顔を。



「あなたを、諦めたい。それが私の本心だよ。君、茶番は終わりだ」



徐々に虚に染まる双眸と、欠片ほどに掠めたあの夜の自分の慟哭。

言い終えるのとほぼ同時に、広間の方向で上がる爆音と炎。

人々の喧騒を背に、少女は幕を下ろす。


震えていた切っ先が、ひたと据わる。そのまま躊躇なく振り下ろされる軌跡の先。


剥がれ落ちた笑みと、絶叫。

最期だけでも、それを目に出来ればそれ以上に望むことはない。

刃が、心臓を貫き通す。

深紅の血飛沫。それは全てを終わりにしてくれる。

憎悪も、苦しみも、哀しみも、嘘も。全て全てを。

けれど。


もうあと僅かに足らないのだった。これは嘘で歪められた道筋ではなかったから。


止められた切っ先は、鮮血の滴りと混ざり合う。

それは自分の血だけではなく。

見上げた先には、歪んで淀みきったどうしようもない双眸と怒気を含んだ声。



「兄弟喧嘩も大概にしておけ。ようやく再会できたばかりなんだ。…あんたを俺が目の前でみすみすと死なせると思うか」



もはや怨磋に近い響きのそれは、こんな状況にあって、だからこそ余計に爆音の中でも鮮烈だった。

それを前にして、自分のとった選択はどれほど稚拙であったことか。

今更ながらに食い込ませた刃の痛みがそこへ思い至る冷静さを取り戻す後押しになったのは、何よりも皮肉な話。



「ああ、君が憎らしいよ。本当に皮肉な話だ。君と出会わなければ、今の自分はなかったかもしれないのに。…けれども、全てをやり直す術など人は持たない。あの時水底で沈んでいく体を見過すことが出来なかったようにね。例え今が過去に戻ろうと無駄なことなのだろう、君」



苦笑よりも苦いものを含んだそれを、ただ静かに歪んだ双眸が受け止める。

向き合う二人を、メルフィー・ローズはどこか空ろな眼差しで見詰めている。

先程の絶叫を、戸惑う様に。

まだその余韻から完全に回復する前に、二つの羽音が彼の耳元を擽る。



「メルフィー。今日はそろそろお開きにしたほうがいいよ。斑がこちらの動きに気付いた」


「メルフィー。想定よりも魔女と鴉が荒れています。広間が血の海になる前に引き上げを」



翆と禾南の囀りに、何時になく殺気だった感情の矛先が刺激されたようだ。

忠告する彼らの両の羽を掴んで回廊に叩きつける。

羽が舞い上がり、人の態に戻った彼らが蹲って震える。


それを見下ろす嘘飼いの双眸には欠片の罪悪もなかった。


そしてそれを見詰める嘘飼いの少女の眼差しにはただ諦観が宿る。

もはや、ここで見過ごせば遠くない未来、翆と禾南は見殺しにされるだろう。

彼らを統べるのは、言葉。その対価は己が精気。


あの夜に、彼らを受け入れる気力も余力もなかった。それに付随する覚悟も。


それを彼らは十分すぎるほどに汲み取って、兄を選んだ。

踏み出した足は、もう自分で決めたこと。



「…輪廻が元。生けし聖鳥。君たちに英知を請う。代償は我が身。…囀りで答えてくれ」



蹲る彼らを背にして立つ。目の前でこれ以上危害を加えられては堪らない。

紗が剥がれ落ちたように、顕わになる冷えた相貌。それを見据えて、立つ。

沈黙する背後。静まりかけた喧騒。

炎だけが夜空を赤々と照らし出している。

溜息を一つ零して。月を見上げ、紡ぐ。潮時だ。



「誓。宿木が血を代償に据える。血の根、血の系譜のもとに召喚す。契。…ティアレア・ローズ」



呟いた真名は、かつて手放したはずの響き。口に乗せて、紡ぐ時はもう二度とありはしない。

そう願っていた。

メルフィー・ローズの一瞬の瞠目と、それに続く喜悦。

それを凪いだ心持で見据えたまま、自分の選択を負う覚悟をする。

彼の前で、真名を名乗ることの意味。


それは契姻の証だ。あの夜に不完全であった部分を継いだことにほかならない。


それをこの場で知るのは、嘘飼いである二人と聖鳥である彼らのみ。

背後の息を呑んだ様子からもそれは明らかだ。



「ティアレア。…分かったよ。彼らは君のもとに預けよう。宣誓もあったことだし、今更それは取消しも効かないことだしね」



まるで今までの苛立ちをすべて昇華したような、平穏な笑み。

自身の望みは果たしたのだから、当然とも言えよう。

心の底から不快だ。


「君に言われるまでもないよ、愚兄。もはや望みは果たしたろう。心おきなくこの場から消えてくれ」


険しか含まない言葉にも、まるで気にかける素振りもない。


「いいよ。君が望むなら、今は退こう。……でも忘れないことだよティアレア。君はもう僕の花だ」


束の間の後の、続く囁きは耳元へ落とされる。

間を入れずに閃く刃を、さらりとかわして嗤う。

その嗤いが誰に向けられていたものかは、傍らの歪んだ双眸を見上げれば明らかだ。



「次に見えることがあれば、その首貰い受ける」



紛れもない本意だと、誰に言われるまでもなく伝わる声だ。

しかし言われた当人はまるで歯牙にも掛けずに微笑し、去り際に返答した。



「それは楽しみだ」



今宵の舞台を整えた嘘飼いが去ったのち、残されたのは沈黙と消し止められた炎の名残、それに囀り。



「ティアレア…どうして。君は分かっていた。だから今まで名を偽ってきたんだろう」


「ティアレア…私たちのことを見殺しにはできなかったんですね。あなたは、優しすぎます」



翆と禾南の囀りをこうして聞くのも数年ぶりだ。

彼らは聖鳥。母の生家に代々仕えてきた彼らの本当の年齢を知るのは彼らだけ。

人の態は取れるが、本来の姿は翆色と深紅の番鳥だ。



「そうだね…分かっていた。それでも選んだ。後悔していないとは言えないが、これ以上あの愚兄のもとに君たちを置いておくことを選んだなら、それこそ終わっているだろう。…そうではないかね」



あれの用意した舞台で、これ以上は望めない。

何かを失いたくないと思えば、何かを差し出すほかに道はない。

つまりそれだけの話だ。

その流れを作り出したのが、全て撒かれた種によるものかは今の自分の心境では測りきれない。

冷静さを保っている。それは表向きだ。

こうなることをずっと恐れてきた。

今までも、不安定な足場であったことは間違いがない。

今日のことがなくてもいずれは囚われていたかもしれなかった。

それでも、あの夜から逃れ続けてきた自分の軌跡。

それをすべて無に帰されたようで、ただぼんやりとした喪失感は頭の芯を抑えつけて弱音も、後悔も、泣きたいような思いも全てに紗が掛かったようになっていて。



ああ、見事に掬われた。


今の自分が浮かべるとすれば、泣き笑い。それがきっと一番適当だ。













広間は煤けてひどい有様だった。さすがに自分も絶句した。


あの沈黙と囀りの後、とりあえず広間へ戻りたいと言った自分の言葉に以外にもすんなりと頷いた藍の蝶の後ろについて広間へ戻れば、つまり先の感想に至る。

見渡せば、あれほどに賑やかだった人波も閑散としていた。

それも当然か。

後から聞いた話では、爆炎が広間を覆い尽くす頃には大部分の無関係な人々は城門を走り抜け、乗船口へと避難していったらしい。

この点はとりあえず良かった。

問題は、残る人々の顔ぶれだ。改めて見れば、それだけで頭痛がしそうな相性の悪さだ。

騒ぎの中心はたどり着いた今もまだ睨み合いの状況を崩さない。

それを傍目で鑑賞にまわっていたオウル・シーは入ってきた自分たちに気付くと開口一番。

こう問うた。



「あら。藍、あなたにしては慌しい逢瀬だったのね」



少女然とした彼女の桜色の唇から語られるには、あまりにも率直に過ぎる。

しかしそれは彼らの間ではさほどに目新しい発言ではなかったらしい。



「口を閉じろ。…この喧騒で落ち着いて事をすませられるほど愚鈍に見えるか」



淡々とした返答に、くすくすと笑みを隠さない様子に言葉にしなくとも通じるものはある。

思わず呟きを洩らす。



「享楽の相手がいるならば、なにも自分を招待する必要はなかっただろうに」



妙な間が落ちた。

怪訝に思って見上げれば、自分がどうやら失言をしたことに気付く。

失言の後、一連の流れはこうなる。


覆い被さるようにして、呼吸を奪われた。

見開いた目のなかに、何のわだかまりも見せずに微笑するオウル・シーの温かな視線とそれを遮るように、すぐそばの壁に突き刺さった鉄矢。

その鮮烈な音は、広間に十分なほど響いた。

続く二本目。これは牽制ではなく、明確な殺意を持って放たれた軌道だった。

仮にも鉄矢である。生半な防具など意味をなさない。

それを口元に笑みさえ浮かべて叩き落とすのを目の当たりにすれば、流石と言わざるを得ない。

しかし降るのは鉄の矢に止まらない。

魔女が放った銀の軌跡は、全て恐ろしいほどに的確に急所を狙って放たれている。

それら全ての軌道をずらすのは流石に無理だと判断したのだろう。

身を逸らせ、体勢を低くしたまま直接魔女へ刃を抜いて出る。

間近で切り結ぶ硬質な音は、隠す気もない殺意を含む。

彼らの会話も、むしろ会話と呼べるほどの内容であったか疑問である。むしろあれは殺人予告だろう。



「その首、もはや繋げておく必要もないね。藍の」


「鈍ったな、焔。この程度で俺の首を落とせると思っているのなら、あんたの底は見えてる」



常人では太刀筋すらまるで分からない応酬を見ていても仕方がない。

視線を逸らせれば、何時の間にやら傍らに立つ黒とその反対側に鉄鎖の双子。

庇われるように立つ理由は、すぐに分かった。


自分に向けられた殺意。


さほど年が離れているとは思えない少女の眼差しには怒りがあった。

嫉妬と言い換えても差し障りはないかもしれない。発言にも解るとおりに。



「嘘飼い、で間違いなかったわね。私はあなたを認めない。ずっと傍にいたのは私の方よ……、だから」



眼差しの激しさに比べて、口調は淡々としている。

きっとそれは彼女は言葉で感情を表すよりか、別の手段を選択する方が多いからだろう。

現に今もそう。



「消えて頂戴」



言い差すや、両の手から投げ放たれた手榴弾が優雅に空を舞う。

実に無駄のない計算された軌道だ。

しかしそれを見ていられたのもほんの一瞬。

押し潰されるような勢いで床へ抱え込まれたのと、被さる様にして手をついた黒がテーブルを盾にして身を伏せる。

その向こう側では、鉄鎖の双子が空中の手榴弾を落下前に狙撃し、誘爆しているのが音だけで察せられた。

黒が手にしているテーブルにも亀裂が入り、めり込んだ鉄の破片が生々しい。

ああ戦場だ。

それも昼の騒ぎどころではない。

それでも同じくテーブルの陰に身を伏せているオウル・シーの表情を見ればこれもまた彼らの日常では珍しくない光景だとわかる。


こんな状況でも、身に纏う空気は湖畔にいた時とほとんど変わらない。



「あの子の殺傷力自体は評価できる。ただ、戦法が直接的だから。それほどの脅威ではないわね」



冷静に呟く表情には、かなりゆとりが見て取れる。



「なるほど…目で追える、次の流れが見えるくらいのレベルなら、まだまだということか」



今にも崩壊しそうなテーブルを支えたまま相槌を打つ黒もまた、まだまだ余裕が見て取れる。

下手をしたら、それだけで致命的な状況でさえ会話を続ける彼らはやはり、どこか欠けているのだろう。


それは主に危機察知能力といったようなものが。


そうこうしている間に、流石にストックも底を尽きたらしい。

舌打ちとともに短刀を手に踊りかかる彼女を止めるのは、テーブルを放り出したまま鞘を構えた黒だ。



「どきなさい、黒。あんたに用はないわ」



地を這うような低い怒りの声に、黒が返すのはただ一つ。溜息。



「…そう。退く気はないのね。なら、退いてもらうだけよ」



身軽に飛び退くや、体勢を低めて未だ隠し持っていたらしい球体を握りしめる。

投げ打つそれを遠ざけようと動く黒を尻目に、踊りかかる少女の刃。

球体がフェイクだと看破して、黒が振り返った時には刃が交わって止まる。


硬質な響き。反響して静寂が訪れる。


片や一方の少女はやや目を見張って動きを止め、もう一方は片手で止めた刃と、もう片手で弓を制す。

駆け寄った鉄鎖の双子は、リージェの動きを留めながら少女が制する弓の方向へ油断なく視線を向ける。

ややあって沈黙を破ったのは、黒だった。



「なるほど…。リージェ、守られていたのは君の方らしい」



未だに魔女たちの斬り合いが繰り広げられている一角を横目に、沈黙したまま刃を突き合せる二人。



「…爆炎のリージェだったね」


「…そうよ。何故。どうしてあれを止めたの。今躊躇ったら、死ぬのはあんたよ」



口早に囁きかけられたそれに、刃を引く。

それに対してむしろ警戒するように刃を構えなおした彼女に、色々と説明をし直したいところだった。

けれども口にしようと思う文句は全て口の端で消えてしまう。

結局口に出来たのは自分でも、これ以上は無いというくらいに間が抜けている。



「…腹がすいては戦は出来ぬ、という言葉を聞いたことはあるかね」



とうとう静まりかえった広間の中央で、何か色々と開き直ってしまった。


もう爆炎も、銃撃も、弓も刃も十分だった。

今切実に求めるのは夕ご飯。それだけだ。

痛々しい沈黙だとは理解していた。

それでももう、疲れも限界。理性も飛びそうだ。

あの愚兄との遣り取りでも十分に精神的に参っているというのにまだまだ騒ぎを続けさせる気はもはや無い。



「もう勝手にやってくれといっても、無理なのだろう。だから一言言わせて貰おう。わたしは昼食もまともに取っていないし、相次いで出血もしてくらくらしている。精神的にもぎりぎりだ。これで少しの休息も得られないというのなら、もうここは戦場だ。祝祭の広間ではないね。ならもう、招待の名目も何もない。…帰らせて貰うよ」



最後は、消え入るような声になったのは言いながら本当に眩暈を覚えたからだ。

自分の中ではもうほかに言うべきことはない。

中庭を抜けようとして踏み出した足を、しかし留めるもの。

それは今まで姿を見せなかった最後の一人。



「帰しませんよ、嘘飼い。…ティアレア・ローズ。巣穴へ戻られるのは、困ります」



広間の喧騒から離れた柱の陰、中庭の暗がりから広間へと足を踏み入れたのは、数年ぶりに見る姿。



「…斑だね。君がここに来た意図は理解しているつもりだよ」


「そうでしょうね。あなたは嘘飼いです。血にまみれたその手を、よもや忘れたわけもないでしょう」



純然たる憎悪と隠すつもりもない殺意。

それでも浮かべる表情は沈黙。無表情といっていい。

あの夜から、彼もまた同じく。

囚われたままこの数年を生きてきたのだろう。

見た地獄は違えど、苦しみは変わらない。

怨みの炎は消えることなく水面の底で燻り続けた。それは想像に難くない。



「君が望むのは、嘘飼いの死だろう。あの夜の報復のため、君はずっと機会を待っていた」


「…本当に、話に聞く通りに察しが早くて助かります。あなたが嘘飼いでなかったなら、蜂の巣へ迎えたいくらいですよ」



弐羽の陰りのある表情の理由が、ようやく飲み込めた。



「弐羽は、有能な部下ではなかったかね」


「彼は口が過ぎた。災いのもとである自覚を持てていれば、憂き目に会わずに済んだのですが」



憂き目。

その表現に少しだけ安堵したのは、おそらく死は避けられたことを感じたから。



「絶っては、いないのだね」


「手足の心配をする前に、ご自身の生を守られた方がいい。…自分もあれから情報を整理して貴女だけに非があった訳ではないことは理解した。それでも報復の対象であることに変わりはない。痛みはなるべく一瞬で終われるよう努力はしますが…確言はできない」



すらりと抜き放たれた白銀の刃は、これまで丹念に磨きあげられてきたことが一目でわかる。

迷いのない切っ先に、こんな状況でも苦笑する。

自分との違い。彼は真っ直ぐに憎しみを貫いてここまで来た。

自分は歪めてしまったそれを元のまま持ち続ける彼が少し、羨ましかった。



「優しく成長したものだね、斑…君に殺されるのはむしろ本望だ。けれども、一つ聞いておきたい」


「なんですか」



刃を見据え、あの夜から今まで繰り返し自分に言い聞かせてきた言葉をそのまま紡ぐ。



「君に、メルフィー・ローズの根を絶つことは可能かね」



淡々と、間を空けずに帰ってきた答えがここで沈黙を挟む。

その反応だけで、彼もまた言われるまでもなく己が身に問い続けてきたことは分かる。

自分はそれが分かれば十分だ。けれども、未だ舞台は同じ。

この場のシナリオも継続してあれの手のひらの上にあることは変わらない。

となれば、当然のこと配置された駒は動く。彼らの遺志を持って、この盤上にある限りは。

終幕へ向けて、盤面は動かさざるを得ない時が来る。



「斑。君はここでは死なない。……そしておそらく私もまた、今はまだ」



振り抜かれた刃を留めるのは、一振りの大太刀。

刀身は白銀で染み一つ無いにも関わらず、周囲には血の香りがたちこめる。

今までに斬り伏せてきた人数が尋常でないことをそれ一つで物語っている。

背に庇われ、黒にふらつく体を支えられながらも視線だけは外さずに無言の内に、伝える。




今はまだ許されない死。

愚兄の根を絶てたなら、次は私の番。

それであの夜の総てが昇華される。

だから今は、まだ。




大太刀の刃風を辛うじて受け流した斑は、一時の逡巡の後。身を翻した。

元より見逃す気はない藍の蝶を留めるのは魔女の笑み。

彼女もさすがに少し疲弊したと見える。いつもより笑みに翳が差している。

それでも魔女。

大太刀を難なく受け止め、城門を走り抜ける影を確認してから刃を弾く。



「潮時だね。…今夜その首貰い受けるつもりだったが、藍の。君にばかり感けている暇はもう無いらしい」



一際美しい声でそう告げるや、滑らかな刃を懐へ仕舞う。

その動きに続けて、遠方にいてやはり弓を引絞ったままでいた紫鳶もまた武装を解除し、肩を竦める。



「…ティア。また近いうちに訪ねるからね。それまではくれぐれも、あれとの接触を控えるように」



あれ、に込められた二重の意味に静かに頷く。元よりそのつもりだ。

頷きを確認して、二つの影が中庭の暗がりへ消える時にはささやかな銃撃が交わされるかと思ったが、そこは互いに実力を測り終えたのだろう。

無駄な弾は減らすに限る。

あの喧騒が嘘のように、静けさの中で去って行った二者を見送り、ようやく一息吐く。

ようやくここまでは何とか収拾した、といった心境を引き締めて残りは自分の身の振り方だ。



「…何とも騒がしいものだったのだね、祝祭というものは。初めてだったから勝手もよく分からないが。今の自分の心境はそんなところだよ、君。さて、名目も済んだ。私もこのあたりで失礼するよ」



言い終わる前に、伸びた手を辛うじて避ける。

が、何も留める手はそこで終わらないことは予想できた。

身を寄せて囁く声は、少女然としながら内容は生々しい。



「もう夜も更けたわ。船で帰るにしても朝まで待った方がいい。…それに、宵の蝶は貴女のもとで翅を休めたいみたいだわ」



微笑みながら、目は笑っていない。

余程指摘したかったが、そんな安穏な状況ではない。



「…黒、後ろで枷を準備するのは止めてくれるかね…それは言いたくもないが、私の古傷を抉るからね」



前方に歪んだ双眸の城の主。後方に黒。すぐ横にはオウル・シー。

焼け焦げた広間の中央でそれらに囲まれている現状。

幾通りかの逃げ道はぼんやりと脳裏に過ったが、如何せん。体の疲労が仇になる。

ああ、読み違えた。

血路を開いてでもあの二人と城を出るのが現実的だった。

疲れ。空腹。底尽いた意欲。


俯いたまま、その翅に抱え込まれる寸前。


諦観に染まった脳裏で、とうとうここまで明かさなければならないのかと。

そう思えば、ただ久方振りに頬を伝う感触になんだか笑えてきた。


ああ、これがほんとの泣き笑い。


見上げて、告げる。

それはそのまま私が嘘飼いになることを決めた本意だ。

あの兄に、あの夜からずっと囚われ続けている。

忌まわしい拘束から解放される日をずっと願ってきた。

けれどもそれは、もう叶わない。

あの人が枷を外す時。それはあの人に私が完全に囚われた時だ。

それ以外はもう、あの人の息の根を止めることでしか得られない。

だから、私は。



「君、覚えているかな。…先程、私が君に問うた言葉を」


「…なぜ兄を追っているか、だったな」



指先が微かに両肩に触れている。

その熱を、どうしても嫌悪に繋げてしまう。今も引き摺る、名残だ。



「なるべく他言しないでもらえると有難い。…私はね、十六の誕生日、兄に襲われた。満月の夜だったよ。その夜に兄は父を殺し、父の知人も撒き沿いに手に掛けて。それから私に枷を付け、家を出た。その枷は未だ付けられたままだ。…貞操帯だよ。君、だからね。私は君の翅を休ませるには向かないんだ」



寄り添っていたオウル・シーが息を呑むのを見なくとも感じ取れる。

新鮮な反応ではある。けれども今の自分の心境には申し訳ない程度のゆとりしかない。

これは冗談を抜きにして、自分の汚点そのものであるから。

だからこそ、今までこの事実を告げたことはない。無かったのだ。


例外的に知っているのは、唯一焔だけである。


悪趣味な、シナリオ。

掬われてばかりで、踊らされた挙句に最後に自身の汚点まで明かさなければならない屈辱。

傷口を開くばかりか塩を刷り込むことを忘れない、そんな愚兄らしいやり口だ。


ここまでされたら、もう殺意を抑えている自分を褒めてほしいくらいだ。


満月の夜。そう告げたときに双眸に過った翳を見ぬ振りも出来ない。

気付いただろう。

ある夜、と誤魔化すことも出来た。否定はしない。

けれども依頼以外で嘘偽りを紡ぐことは極力しないのが信条だ。


嘘だけに浸っていると、使えなくなるから。


嘘飼いは、あくまで自分が嘘を使う側にならなければ成立しない。

手足を嘘で浸らせれば、いずれは嘘がなければ生きてはいけなくなる。

支えと同義。だから、今は使わない。



「分かったね、君。…ここまで手間暇を掛けさせておいて、むしろ申し訳なくさえ思えてくるよ。けれど、この枷は現実だ。私は君の翅を休めてはやれない。だからもう行くよ。ではね」



開いたままの傷口をそのままにしているような心境で、沈黙したままの彼らを背に今度こそ中庭へ出る。

ここから見上げた月は、嘆息するほどに美しい。

星明かりもこの舟の上からは一層近くに見える。


ようやく渦から抜け出た嘘飼いの少女は、星空に浮かぶ船を下りて、対岸へ向けて帰路を辿っていく。


こつこつと。普段は履かない靴が一層高い音を響かせる。

踵の高さに今さらながら閉口しながら。


気付いていた。耳に届くのは二対分。

背後に向けて、ぽつりと呟きを乗せた。



「…聞いていただろう、君たち。他に抉れるものはないよ」



一つの足音は殆ど存在も感じさせない微かなもの。もう一つは鮮烈な高音。



「…なるほど。聞いていましたが。けれども、他者の話を聞いてここまで後悔したのは初めてだ」



普段の饒舌ぶりは掠れたようになって、聞き取るのも面倒な学者の言葉。

それに被せるように続いて響いた声。

聞き覚えはあるのに、普段の少女然を失っている。



「知らなかったとはいえ、配慮が足らなかったわ。貴女を傷つけるために、祝祭に迎えた訳では無かった。

迷惑かもしれないけれど、せめて湖畔まで付き添わせて頂戴」



一度立ち止まって振り返ると、並び立つ彼らの顔を注視した。

偽りの意図は全くない。

それだけ見て取ると、ようやく肩の力を抜いた。



「……君たちの、好きにしたまえよ」



それだけ言い置いて、再び歩き始める。

後ろからついて響く足音に少しだけ救われたような思いになった。


それに重なる様に、喧騒の間上空へ飛ばせていた二つの羽音が両肩に舞い降りる。



「ティアレア…これからはずっと僕らが君のそばにいるよ。だから、」


「ティアレア…湖畔に戻ったら、誓約を解除してください。貴女の負担になりたくありません」



両側の囀りに耳を傾けて、黙考した後に首を左右に振る。



「君たちの楔を解いたら、同時に守護も解けてしまう。それを黙って見過ごすような甘さを持ち合わせてはいないだろう、あれは。これから先のシナリオも大体の予想はつくよ。だから、解除は出来ない」



囀りは途絶え、彼らもまたこの先どう動くかは察しているのだろう。

目を交わして沈黙する。

疲れ切った体で考え付くことなど、高が知れているし碌な種は育たない。



だから今はとにかく休息が必要だった。



水底の浮かび上がった記憶に、囚われることが無いように。


今はただ、休息と湖畔と食事を。望むのはそれだけだ。


今夜はこれがラストになります(^-^ゞ

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