お金の流れ
太陽がすっかり沈んだ時刻。公園のベンチでデートの疲れを癒していると、ジュースを買いに行った野々山さんが戻ってきた。
「はい、オレンジ」
「ありがとう」
わたしは缶を受け取ると、プルトップを開けて、すぐに飲み干した。おいしい。朝からはしゃいだせいで体が水分を求めていたことにようやく気がついた。
野々山さんはもう片方の手に持っていたオレンジジュースを一口飲むと、わたしの隣に座った。
「ごめんね。今日はいろいろなところへ連れ回しちゃって」
「謝らないで。今日はとても楽しかったわ」
「本当かい?」
「もちろん」
嘘なんてつくはずない。野々山さんはとても気遣いができるし、デート中でも不快に感じたことはめったになかった。職業が教師だけあって、ちょっとマナーにうるさいのが欠点だけど、礼儀正しいのがまた素敵だった。
野々山さんとの出会いはお見合いパーティ。三十歳という年齢に差しかかり結婚を焦っていたわたしの前に彼が、白馬の王子様が現れたのだ。
お互い野球鑑賞が趣味ということですぐに意気投合し、現在は結婚を前提にお付き合いをしていた。
ああ、なんて幸せなの。
幸福感で胸がいっぱいになり、ため息を吐きだした。
「どうしたんだい?」
「ふふ。あなたと出会えてよかったと思ったの」
「それは僕のせりふだよ」
野々山さんが素敵な微笑みをわたしに送ってくれた。
「そうだ。忘れる前に来月の旅行の話をしなくちゃね」
「どこにしようか」
「ぼくは北海道に行ってみたいな。ウニ、いかめし、カニ、じゃがいも、いくら」
「食べ物ばかり。でもいいわね!」
「よしっ、決まりだ!」
野々山さんは膝を叩いた。よほど行ってみたいのだろう。彼の笑顔はとても眩しくて、ついわたしの頬も緩んでしまった。
「それで旅行の費用なんだけどさ」
「わかってる。二人で出し合いましょ」
むしろ当たり前のことである。
はっきり言って、公務員は仕事内容に見合ったお給料をもらっていない職業だ。前に年収を教えられて、素っ頓狂な声を上げてしまった恥ずかしい思い出は今も鮮明に覚えていた。
「すまない。もっと昇給すれば、君にお金を出させなくてもいいのに」
「気にしないで」
わたしは野々山さんの手を優しく握った。
翌日の午後一時。駅前の時計台で久坂ちゃんの姿を見つけると、俺は彼女に駆け寄った。
「ごめん! 待った!?」
「全然。今来たところだから大丈夫」
久坂ちゃんは嬉しそうに目を細めてそう言った。
俺は感心してしまった。なんていい子だろう。約束の時刻より三十分も遅れてしまったのに怒るわけでもなく、むしろ気を遣ってくれるなんて。
「でも言い訳くらい聞いておこうかな」
「いやぁ、バイトが思ったよりも長引いちゃって」
嘘だった。さすがに本当のことは言えない。
実は金づるの女から北海道の旅行資金を頂戴していたのだ。それだけなら遅刻なんてしなかったが、『ちょっと散歩しようよ』というあの馬鹿の提案に乗ったせいで、結果としてかなり時間を食ってしまったのだった。
くっそたれめ、と俺は内心で舌打ちした。
どうせ北海道の旅行は仕事を理由にキャンセルするつもりだった。旅行代金については『二人の今後のために僕が貯金したいんだ』と言えばいい。実際に、俺はこの方法で十万近くの金を何回も巻き上げてきた。
「とにかく本当にごめん。これからは、遅刻しかけたら後輩に仕事押し付けることにするよ」
「そんなの駄目」
「いいんだよ。愚痴を聞いてやったり、飯をおごったりしてやってんだから。まぁ、人間関係を円滑にするってのが本来の目的なんだけど」
「……アルバイトも大変ね」
「面倒臭いのは事実だな。けど、けっこう稼げるんだぜ」
これは本当。知り合いの紹介でやっている飲食店のアルバイトなのだが、そこらの正社員よりも月収があったりする。他の待遇も悪くない。俺が定職に就かず、フリーターのままでいるのはある意味当然だった。
それでも久坂ちゃんと付き合っていくには金が足りなかった。バッグに靴に服にライブチケット――。彼女が欲しがっているとつい買ってしまうのである。俺が真面目な教師のフリをしながら、三十近いおばさん相手に金をだまし取っているのは、全て久坂ちゃんに気に入られるためだった。金銭面で不自由させない男はポイントが高いのである。
「今日はどこに行こうか」
俺はポケットに手を入れて、尋ねた。
「地下街に行きたい! 可愛い新作の服が売ってるの!」
「じゃあ、それを見に行こうか」
「あ、でも私お金あまり持ってないや」
「俺が出すよ」
「いつも悪いよ」
「気にしないで。その服を着た久坂ちゃんと街を歩いてみたいんだ」
「ありがとう野々山君! 私、あなたみたいな素敵な彼氏がいて本当に幸せ!」
久坂ちゃんは俺の腕に抱きついた。柔らかい胸が当たり、俺はつい『やっぱり女子大生の体っていいよなぁ』と不埒なことを思ってしまった。
夕暮れの時刻。事務所に戻った私は安藤さんの姿を探した。しかし、どこかに出かけているのか、室内にはソファーで居眠りしている竹下しかいなかった。
「竹下、起きなさい!」
体を揺さぶると、竹下は目を覚ました。そして、私に気付くとすぐに立ち上がり「おかえりなさい」と頭を下げた。
「これは寝てたワケじゃないんすよ。昨日は徹夜続きだったんで、まぶたが下がってただけなんすから」
「それを寝てたって言うの。そんなことより安藤さんは?」
「ボスっすか? ボスなら本を買いに行きました」
「ふうん」
「久坂さんこそ今まで何してたんすか?」
「フリーターとデートしてやったのよ」
「久坂さんがミツグ君って名付けてる奴っすよね」
「そ。あいつから高価な品物を買わせてたの。ほんっと底抜けの間抜けよ。ちょっといい顔したら何でも購入してくれるんだから……くっ、あはははは!!」
私はデートの内容を思い返し、お腹を抱えながら笑ってしまった。下手な漫才よりもよっぽど面白い。
失業して仕事を探しているような人ならともかく、ずっとフリーターでいるつもりの男に魅力など感じるわけがない。それなのに、『俺たちって相性いいよね』と野々山が自信満々に言ってきたときは、思わず吹き出してしまいそうになった。
もし私の正体が詐欺グループの一人だと知ったらどうなるのだろう。
野々村の反応をあれこれ予想して、私はまた大笑いしてしまった。今度組員を集めて賭けでもしてみようか。
「爆笑してるとこ悪いんすけど、組織への献金準備はできてるんすか?」
「はぁ、はぁ……だ、大丈夫。ボスはきっと喜んでくれると思うわ。ミツグ君に感謝しなくちゃ」
私は主に野々村からもらったプレゼントの品を売ることでお金を稼いでいた。他にも貢いでくれる男はいるが、やはり野々村が一番やりやすかった。金銭的に見ても、おそらくぶっちぎりの一位だろう。
頭の中で、今まで巻き上げた金額を計算していると、「ただいま」という溌剌とした声とともに安藤さんが戻ってきた。右手には近くの書店の袋を下げている。
本には《札幌・小樽の思い出旅》と印刷されていた。
テレビの詐欺番組を見て思いついたネタです。