幽炭酸クラブ(2)
「数年前、とある市立図書館で殺人事件があったのは覚えているだろうか?
逮捕された青年は、整然と並んだ本棚たちの最奥部に控えている司書室で交際相手の女性の頭部を切断して殺害した。青年の供述は、明瞭で明快で要を得ており、精神の異常さを微塵も感じさせなかった。その挙措には生粋の殺人鬼のような冷徹さはなく、小刻みに震える指先や絶えず頬へと伝う涙は、青年が己の過ちを悔やんでいることを確かに示した。それを演技だと猜疑すれば切りがない。例えそうだとしても、青年は自らの罪を聖人よりも正直に認めていた。
概要だけでこの事件を猟奇的と評するには青年の意識は正常すぎ、それにもまして純粋すぎた。しかしそれ故に猟奇的と称することはできるのかもしれない。実際にその点を指摘する輩も少なからずおり、彼らの見解の根拠には、青年は発見されるまでの間に、交際相手を殺害したその司書室で書き物をしていたという事実がある。この行為を猟奇と言わずなんと言う。鋭い舌鋒の主張は、彼を精神鑑定へと導くためか、はたまた事件に猟奇成分を付与するためか、その真意は発言者のみぞ知る。
その後の彼が果たしてどのような法的処置を受けたのか、詳細については今回の主旨から逸れるので割愛する。今回語るべき主題、それは、彼が発見される間際まで綴っていたものについてである。
事件から一年経った頃、某週刊誌に細々と掲載されたそれは、ある事件の犯人の手記と銘打たれただけで、それがどの事件なのか、いつ起きたものなのかという情報は明記されておらず、極秘に入手したという編集者の文言だけがお詫びのように記されていた。そのためその手記は、ページ潰しのために無理やり差し挟んだお遊びのようなものだと読者に認知され、大衆の注目の的になるはずもなく、強烈な印象を喚起させるほどセンセーショナルでもなかった。しいて言うならば、ある層の人々に一定の評価を得て、インターネット上の陰日向に存在するような掲示板で密かに意見が取り交わされたくらいである。
掲示板で交わされていた言葉の多くは、あの手記と一年前に市立図書館で起きた事件と関連性についてであり、その主だった焦点は、手記は週刊誌の記者が書いた偽書なのかどうかであった。意見を交わす彼らは真実の究明を目的としていた訳ではなかったので、議論と言う名の雑談は数月を跨ぎながら惰性のようにのらくらと続き、最終的に至った帰着は、結論と呼べるほど大そうなものでは到底なく、他者の創作に自己の妄想を継ぎ足したといって差し障りないものであった。
それを述べる前に、手記についての情報を与えておこう。その手記は二編に分割されており、前篇は事件の被害者、つまり犯人の交際相手が頸部を切断された後の視点で綴られ、後編は犯人の青年の独白で構成されている。それが手記を、大衆性を持たせた作り物めかしてる要因であるのだが、最も重要視され尚且つ奇怪とされている点は、両編が同一の一人称で語られていることである。即ち、『A』が『A』を殺し、『A』は『A』に殺されたという自己完結型の殺人事件として描かれているのである。
仮に手記が記者による偽装であるのなら、これはどのような企てだろうか。犯人の異常さを際立たせるための工夫ならば、狙いすぎて些かチープな印象を抱き、掲載した結果、一向に話題にならなかったことを顧みると狙いは大きく的を外していたことになる。後追いで大々的な喧伝もなく、かといって敢えて情報を伏せることで読者の好奇心を掻き立てる期待があった様子もないことは、それ以後の刊行された週刊誌で手記について一切触れなかったことから窺い知れる。
そうなるとこれは本当に犯人直筆のものなのではないだろうか。そう仮定して、ネット掲示板の住人たちが至った帰結は、犯人の青年は恋人を殺したという現実を閉じ込めたかったというものだった。一人称を二つの視点で同一させることで、己が己を殺し、己は己に殺されたという矛盾的循環系を成立させ、己が犯した罪から目を逸らし図書館奥の一室に封じ込めようとしたのだ。そう、それはつまり、青年は密室を創ろうとした、と換言してもいいのではないだろうか?」
話し続けで乾燥してしまった口内を潤すため田所はダンボール箱の上に置かれた赤い炭酸飲料の缶を手に取り、深呼吸でもするかのように一息に飲み干す。田所の大演説にはもう慣れ親しんでいる炭酸クラブの面々は、それぞれの思惑をそれぞれの胸の内に秘めながら、ダンボールだらけで雑駁とした室内の好きな個所に落ち着き、茶色い液体が半透明になった田所の体内をくねくねとうねり流れていく様子を面白そうに眺めていた。
「それはそうと田所さん」
もう飽きたのか始めから興味がなかったのか、ダンボールを積み重ねて作った椅子に腰かけた佐藤飴子は普段通り淡々とした調子で言った。
「どうして死んだんですか? どうやって死んだんですか?」
その質問はあまりにも無遠慮で、クラブの面々はなるべく避けていたというのに彼女はまるでケーキにナイフを入れるかのように躊躇いなしに訊いたので、僕たちは一時騒然とし、数秒後には田所がどんな反応を示すのか固唾を呑んで見守った。さりとて周囲の配慮が実は取り越し苦労であったという場面など日常では茶飯事であることが多い。田所は生前と寸分変わらぬ快活な笑い声を上げ、空になった缶をダンボールの上に静かに置いた。
「飴子嬢は相も変わらず容赦がない。まぁ、待ちなさい。折角、俺は死んだのだ。この機会を最大限に活かすためにこれから皆で知恵を絞り合い、俺がどのようにして死んだのか推理してみるというのも一興ではないだろうか?」
「面倒くさいです」
「ああ、面倒くさい。けれど、世の中なんてそんなものばかりだろう? あれもこれも面倒くさい、どれもこれも面倒くさい。面倒くさいことは考え出したら切りがない」
「今この現状こそが面倒くさいです。迂遠な言い回し、要を得ない回答、掴みどころのない隠喩、そのような分別のないものなど必要ありますか? ある訳がないです。物事に必要なのは清廉潔白な簡潔さです」
「誰も彼もが君のように実直でいられないのだよ。人は己を守るために口から嘘を吐き、嘘に騙されぬように嫌疑を胸に、時に阿り、時に憚り、そんな己に嫌悪を抱き、抱いた嫌悪を咀嚼して、思ってもない嘘を吐く。嘘は嘘の股座から生み出され、生まれた嘘は莫大に増殖しながら人から人へと病原菌のように伝播していくのだ。なぁ、そうだろう?」
と、唐突にこちらへ顔を向けてきたので「ええ、まぁ、そっすね」と僕は濁して返答したが、今年入学し立てでまだ洗脳が解けていない一年生の二人は、涙目になりながらうんうんと頷いて手元のノートに田所が口にした言葉を一言一句こぼさずに書き写していた。
彼らも早く洗脳から目覚めて真面目な学生生活を送って欲しいものだ。過去の自分を見ているかのようなほろ苦さを味わいながら室内のある一点、薄っすらと赤い斑点が群れを成している床を注視する。
「あれは絶対に田所さんの血ですよね」
隣で炭酸飲料の識別試験を行っていた茅原千尋が目隠しを外し、僕の心中を覗き見たかのようにそう囁いた。
「昨日はあんなのなかったと思うから、多分そうなんだろうね」
「やっぱりですか! うぅん、なんかワクワクしますね!」
鳴門海峡のように渦を巻いた頭髪をぶんぶんと振り乱して興奮を顕わにしている茅原は、一学年下の後輩であり、僕と同じアパートの二〇二号室に住んでいる女の子である。そうなのだ。彼女もあそこの住人なのである。藤堂や鏡居、鳴篠と同類なのである。それだけで心臓が重くなる思いであるのだが、今のところ卓抜した異常さを見せることはないので警戒レベルは低く設定されている。
飴子の方をちらと窺うと、未だに田所と静かなる口論をしているようだった。この調子だと長引きそうだな、と思いながら僕は茅原に言う。
「一応、人が亡くなっているんだからワクワクはしないよ」
「そうですか? わたしはなにか、こう、身体の底から凄まじいなにかが滾って来ますよ」
「それは勘違いだと思うよ」
「か、勘違いなわけありませんよっ! ちょっと見てください、ほら、どうですか、滾ってますよね! わたし滾ってますよね!」
どこを見ていいのか分からなかったので取り敢えず炭酸クラブのシャツを着ている彼女の胸部に目をやる。小ぶりながら統率の取れた二つの丘を眺め、彼女が動く度にその丘が上下していたので「うん、滾っているね」と返答しておいた。
「そうでしょう、この滾りは本物です」と、自慢げに鼻息を噴き出した茅原は一転して真剣な顔つきになって声を沈め「それにしても、なんなんですか、あれ」半透明の田所に胡乱な目付きをやった。
「それは、あいつが最初に言ってただろ」
僕は、田所の第一声を思い出す。
「……幽霊になった、ですよねぇ」
あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて口にするのも嫌だ、というふうに茅原は言った。
「あり得るんですか、幽霊なんて」
「あり得ている以上、疑いようがないと思うんだけど」
背後にあるダンボールの山が半分透けて見えている田所に視線をやりながら言い返す。
「それでも幽霊になるその瞬間を目撃するようなことがない限り信じられないですよ。それにしても、先輩は随分と冷静じゃないですか。驚かないんですか、ふつう驚きますよ」
「そういう茅原も、驚いていないじゃないか」
「わたしは呆れているんですよ」
「誰に?」
「田所さん以外にいるんですか」
「いないな」
「いないですよ」
厄介事に巻き込まれそうな予感に僕たちは力なく笑い合い、ため息とため息を重ねて吐き出していると、一段と鋭い飴子の声が室内に響いた。
「分かりました。百歩譲って田所さんの死因を推理するのは良しとしましょう。けれどこれだけは、はっきりさせておきたいのです」飴子は小さく息継ぎをして続ける。「どうやって幽霊になったのですか?」
飴子の詰問を意とすることもなく田所は悠々と口を窄め、クジラの潮吹きのように息を噴き出して宙を漂っていた埃を巻き上げた。
「炭酸飲料のカミサマに、認められたのさ」
舞い落ちてくる埃の粉雪を細目で仰ぎ、田所は意味深に微笑んだ。
「教える気はないということですね。いいですよ、別に。そこまで興味があった訳でもないですし。そこまで興味があった訳でもないですし。それより、亡くなったときの状況をもう少し話してくれませんか? 今のままでは、あまりにも情報量が少ないと思います」
「そうか、そうだな。しかし、俺から話すこともうない――が、質問には答えよう。さぁ、心置きなくジャンジャンと質問しなさい」
田所は懐の深さを見せ付けるように鷹揚に両手を広げる。「それじゃあ!」と皮を切ったのは茅原だった。
「田所さんが亡くなったとき、部屋には田所さん以外の人はいなかったんですか?」
「ふふ、行き成り核心を衝いてくるじゃないか。いいだろう、答えよう。俺がこの部屋で死んだとき、部屋には俺以外の人間が一人いたよ」
「なるほど」と茅原は顎に手を当てて頷く。その動作は、彼女なりに探偵を模したものなのかもしれない。そう思っていると間髪入れずに飴子が口を開いた。
「当時の状況を確認してもいいですか」
「構わないよ」
「田所さんが亡くなったのは、昨夕で間違いないですね?」
「間違いない」
「場所はこの部屋ですね?」
「そう、炭酸クラブの部室として勝手に占拠しているこの倉庫部屋で、俺は死んだ」
「正確な時間は覚えていますか?」
「どうだろう、日が大分暮れていたから十八時は過ぎていたと思う」
「十八時ですか……。それなら私たちが帰った後のことですね」
「そうだな。通例通りこの部屋でダラダラとしていた君たちが帰宅した後、俺は死んだ」
「どうして?」
「ふふ、そんな手口に引っ掛かる訳がないじゃないか。俺はそう簡単に口を滑らせたりはしないよ」
「言わないのではなく、言えなのでは?」
「それを君たちが推理するのだ」
「そうですか」
不服そうな表情になった飴子は、口数の少ない僕を鋭い目付きで一瞥する。闇夜を貫く灯台の光のようなその眼光は、夜の奥底に秘められた太陽の在り処を知っているかのように僕の心中を鋭く射抜いてくる。
「では、最後に一つだけ」
灯光を田所へと移して飴子が言う。
「自分で自分を殺すことを、あなたは殺人だと思いますか?」
夜闇から照らし出された田所は、口端を微かに、いや、幽かに上げて微笑んだ。