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幽炭酸クラブ(1)

 炭酸クラブという非公式団体について詳細を訊ねられた際に僕は徹底して無知を装うが、友人の一人が件の団体の創設者であることは彼が団体を結成したその日に作成したTシャツを毎日着ているので隠しようがなく、害虫のように難詰してくる輩には渋々ながら団体の成り立ちを一から包み隠さず話すようにしている。

 炭酸クラブとは、炭酸飲料を愛して止まない、言い方を変えれば炭酸飲料を病むほど愛している学生が、四年前の夏、密やかに発足した大学非公式の団体のことである。先ず語るはその発端である炭酸飲料を愛するあまり病んでしまった一人の男について。彼の名は『田所明次』。家族構成は父と母と兄が一人ずつ。その家庭は至って平凡とされているが、炭酸水でお米を炊くというエピソードを耳にしてから信じていない。彼曰く、「我が家系を辿ればいずれ炭酸水に行き着く」らしいがそちらの方は疑っていない。炭酸水を由来とする彼ら一家について今回は細かく語らない。こう述べてしまうと近々のうちに語られるのでは? という期待を抱かせてしまうかもしれないのであらかじめ釘を差しておく。語るべき時が来れば語る。それがいつかは知らないが。

 それはさておき、彼こと田所明次についてもう少し補足しておこう。先述した通り彼は常にサークルのTシャツを身に纏っている。毎日同じものを着回しているのではなく、その種類は飲料メーカーが販売している炭酸飲料の数だけ存在する。あるときは鮮血のような赤色、またあるときは清涼感のある群青、レモンのような黄色やライムのような緑のときもある。どれがどの炭酸飲料を象徴しているか一目瞭然のときもあれば、二度見ならず三度見しても不明なおどろおどろしい色彩のときもある。いずれのシャツにも共通することは、左胸にH2CO3の構造式がシンボルマークのように印刷され、背面にはそのシンボルマークを包囲するようにして『炭酸クラブ』の文字が記されていることだ。初めて彼のTシャツ姿を見た僕はどうして二酸化炭素ではなくその構造式をシンボルマークとして使用したのか思わず訊ねた。すると彼は、「学生課に申請が突っ撥ねられたとき、俺は、この団体はこれからずっと何ものにも成ることなく、どの集団にも属することなく、少数のための場として存続させていこうと誓ったのだよ。この構造式はその戒めである」と親指を左胸に突き立て、満足げに頷いて、「これから数百年に渡って学府への反抗の徒であり続ける団体の象徴として、これほど相応しいものはないだろう」そう答えた。

 ここで彼との出会いを唐突に語る。それは僕が大学に入学し立ての頃だった。広大無辺なキャンパスの正体を暴いてやろうと企んでいた僕は、知らず知らずの間にキャンパスという名の怪物に暴食されていた。右も左も分からなくなり、化学薬品の臭いが染み付いた研究棟やドミノ倒しのように並列する講義棟の間を心許なしにさ迷い歩いていると、四月の陽気が妖気のように僕から水分を奪っていった。潤いを求めた僕は、講義棟裏の喫煙所に自動販売機を見付け、にわかに急ぎ足になってそこを目指した。砂漠のオアシスよりも確然とした自販機は、蚊の羽ばたきのような低い唸り音を上げて僕を出迎える。喜びのあまり指先を震わせながら財布から硬貨を取り出し、投入口に入れる。購入のランプが点灯して始めて気が付いたが、とある法則に基づいた商品のみが『売り切れ』になっていた。ここまで述べれば察してもらえると思うが、売り切れていたのはすべて炭酸飲料であった。その程度の現象を異変だと感じるほど突拍子もないことはないだろう。僕は、きっと多くの人がこの自販機に炭酸飲料を買い求めたのだろうなと思い、一人の人間がこの自販機から一切合財の炭酸飲料を奪い去ったとは思わなかった。例えその想像を瞬時にできたからといって、冷たいお茶を喉に通していた僕の目線にスズメバチも逃げ出すほどの黄色いTシャツを着た男がこちらへと歩いてくる姿が入らない訳はなく、その男が抱えている膨大な数の空き缶が衝突し合う音を耳が拾わないはずはなかった。即ち、この時間にこの場所を訪れた僕は、どうやっても彼と廻り合うことになっていたのだ。

 空き缶を抱えた男に気付いた僕は、飲んでいたお茶の缶から口を外し、自販機横のゴミ箱へと接近してくる男の腕のなかで激闘を繰り広げている缶たちの銘柄を無意識のうちに確認し、見える限りのものが炭酸飲料であることを知って、ようやくこの男が自販機から炭酸飲料を買い占めた可能性について想像するに至る。さりとて彼に炭酸飲料好きの男だという印象を抱いただけで炭酸好きの異常者だとは思わなかった。横目でうかがっている僕の隣を通り過ぎた彼は、抱えた空き缶をゴミ箱へとぼろろろろろろろと元気喝采な海亀の産卵のように廃棄して一言。


「生まれ変わったらまた追いで」


 炭酸飲料の殻に、空になった缶に、そこまでの情感をこめて別れを告げる人物を僕は今まで見たことがない。多分これからも見ないだろうし、できれば今後も見たくない。すべての子どもの亡き骸を送り出した彼は、目尻に浮いた涙をこれでもかといわんばかりに拭い、哀しいことなど一つもなかったかのように爽やかに微笑んでその場から立ち去る。悲哀を背負った上半身を包むTシャツの底抜けの明るさは陽光よりも明らかで、しかし背中に刻まれた化学構造式と炭酸クラブという単語が滑稽で、僕は離れていく彼の背に向けて言ったのであった。


「どうして二酸化炭素ではなくて炭酸をシンボルマークに選んだの?」


 彼は靴を地面に圧着されたかのようにつんのめって足を止めた。そして振り返った彼の顔には哀しみの色など一色もなく、満面に喜色を塗りたくった表情で僕の質問に前述した通りに応じた。言葉のみを辿ればそれなりの整合性を持っているように感じられたのだろうが、瞳孔をおっぴろげ生産したての唾を撒き散らかせる話しぶりがあまりにも半狂乱じみて常識外であったので、直感的にこの人とはあまり関わり合いにならない方が得策だと踏み、「へぇそうなんですか」と半ば投げやりに相槌を打った。しかし、そのいい加減さは露骨なまでに体外に露出していたのか、彼の怒りに触れてしまったようであった。


「興味がなさそうだね。君は炭酸飲料を好きではないのかい?」


 やはり言葉だけは道理を弁えたその人自身なのだが、語る表情は鬼気迫るものであり期せずして数歩の後退を余儀なくされ、その差分を埋める以上の眼力で彼は迫るのである。臆病者の僕はそれでも大学生という自負のもと脱兎の如く逃げ出すことはせず、彼を真似るかのようにせめて口調だけはと強気に出た。


「好きじゃないですよ。だってあのしゅわしゅわする感覚が内側から針で突かれているみたいで気色悪いじゃないですか。必要ありますか、あの炭酸? あんなものを飲むくらいなら始めっから砂糖水を飲んでいた方がまだマシじゃないですか」


「少し冷静になろう」と、冷静さをまったく感じさせない血走った目で彼は言い、咽び泣いているかのように間欠的に肩を上下させて後退りする僕の肩をがっしりと掴んだ。肩に食い込んだ彼の十指は小動物を捕らえた猛禽のように決して僕を放そうとせず、肉を抉ろうとしてくる爪の痛みから、のっぴきならない事態に陥り始めていることを何となく悟っている僕に向けて彼は言った。


「少し冷静になるために炭酸飲料を飲もうじゃないか」


 その後の展開は思い出したくもない、けれど思い出さずには語れないので思い出す。僕を捕縛した彼は知恵のある動物が獲物を巣へと持ち帰る習性を遺憾なく発揮し、講義棟の一室に僕を連行していった。教室にしては小さすぎるその部屋には、埃を被った教材やもう使われなくなったプロジェクター、スクリーンといった機器が寄せ集められた。おそらく、物置として利用されているのだろうと憶測している僕をダンボール箱の前に座らせ腰から引き抜いたベルトで拘束してから彼は部屋の一角に歩み、廃棄場から盗んできたかのような小型冷蔵庫のなかから有りっ丈の飲料缶――そのすべてが炭酸飲料であることは言うまでもない――を取り出し、カードゲームでもするかのようにダンボール上に並べ出した。炭酸飲料の缶は全部で十五種あり、そのなかには欧米でしか販売されていないようなマニアックなものも見受けられた。これからどのような炭酸飲料を用いた拷問が行われるのだろうと戦々恐々としている僕を尻目に、彼は端から順に缶のタブを押しこんで開け、そこから弾き出される音に陶酔した表情を浮かべていた。


「どうだい、まるで天に召されているかのように心地いい音色だろう」


 これ以上の口答えはおそらく死に繋がる可能性を秘めている。そう察した僕はガクガクと頭を振って頷く。先刻の物言いとは打って変わった素直な態度に彼は満足この上ないといった感じに微笑み、「それでは入団試験を始めようか」と口にして僕に目隠しをした。


「これから君の口に今俺が一押しの炭酸飲料全十五種を順々に含ませていく。当然ながら風味も香りも異なっている。微粒子ほど些細な違いもあれば、匂いだけで感知できるものもある。君にはその差異を、視覚を除いた受容器で感じ取ってもらい、どのメーカーが販売している何という商品かを当ててもらう。言うならば利き炭酸飲料を行ってもらう訳だ。どうだ、聞いただけでわくわくしてきただろう?」

「えっ、はい」


 熾烈極まる拷問が敢行されると思い込んでいた僕は、利き炭酸飲料という言葉を聞いて若干安心した。しかしその安堵を裏切るが如く、それから代わる代わる飲まされる十五種の炭酸飲料の銘柄をすべて正答に導くまで三日三晩の間、僕の口に固形物が入ることはなかった。

 間断なく続いた炭酸の微弱な衝撃によって感覚のなくなった唇で僕が最後の解答を口にすると、彼は「おめでとう、全問正解だ」そう言って僕から目隠しと巻き付けていたベルトを取った。目隠しが外れた瞬間、天井付近にある小さな窓から射し込んだ光が瞳のなかで泡のような物体となって焼き付けられた。上昇していくその泡を追っていると空腹で目が回り始め、朦朧とした意識ですら自らの憔悴を感じていた。


「これで今日から君も炭酸クラブの一員だ。さぁこれを食べ給え」


 差し出された焼きそばパンを一心不乱に頬張る僕の瞳はどこかから湧き出してきた涙に覆われ、数日ぶりに胃に収まった固形物の重量感は感動へと変わり、感動は食べ物を与えてくれた彼への感謝へと変わっていた。指の端に付着したパン屑すら勿体なく思え、指先を舐めているみすぼらしい僕に彼は慈悲深い微笑を寄越すのであった。ああ、カミサマはここにいた。衰弱していた僕は一匙の優しさを与えた彼を恭しく拝み、平伏し、心の底から忠信を誓ったのであった。

 その洗脳が解けるまで一週間の時日が必要となる。その間、摂取した水分はすべて炭酸飲料である。それ以外のものを口にしようものなら激しい叱責と痛罵、人格を否定され、出生を呪われ、精神の薄弱な部分を街頭で披歴するように要求された。


「僕は臆病者です! 子猫にすら劣る、臆病者なのです! そしてゴミ屑です! ゴミ屑のなかのゴミ屑なのです! 皆さん、ゴミ屑の僕を蔑んでください! 唾を吐きかけてください! そして、激しく罵倒してください!」


 繁華街の一際人通りの多い一角で誤って水道水を飲んだ罰を受けているとき、不意に、何故水道水を飲んではいけないのだ、という疑問が浮上した。目前を流れていく幾百もの人々を眺めながら千思万考の末、何故僕は炭酸飲料しか飲んではいけないのだ、という疑念に到達し、その矛先が彼へと向けられるのは時間の問題であった。

 一週間ぶりに正常な意識を取り戻すことができ、さらに幸いなことに先ほどから彼は持ち運び用の炭酸飲料を補充するための買い出しに行っていた。僕の行動は迅速だった。僕は辻風になってその場から消え去った。

 以後は彼の魔手から逃れながらの学生生活の連日であったが、それでも僕が彼との交遊を完全に断たないのはそれなりの理由があり、腹蔵なく述べてしまえば彼は僕より一学年上であり同学部同学科であることから、様々な援助が見込めたからである。具体的には、単位所得が至難な講義をあらかじめ教えてもらったり過去問を頂戴したりである。そのような恩もあってか、僕は炭酸クラブなる団体からなかなか抜け出せず、気付けば三回生になっていた。因みに彼は四回生になるのだが就職活動をしている素振りは一向になく、しかし四回生であることを誇示するかのように毎日リクルートスーツを身に纏い、しかし就職活動をしている気配は微塵もなく、ふらりと現れては講義棟裏の自動販売機付近のベンチで炭酸飲料のことを悶々と思考し、炭酸飲料に関する何らかの啓示を受けては炭酸クラブのメンバーを集め話して聞かせるのである。

 以上のような経緯が僕と彼との関係を構築しているのだが、もう少し彼について付記すると、彼は二年生を二回経験している。換言すると二年生で一度留年しているので僕との歳の差は二つになる。その二年という差を感じさせないほど彼と僕との間はフラットであり、先輩後輩というよりは友人に近いのである。次いでとばかりに炭酸クラブについて述べてしまえば、発足して二年後に初めての同胞――僕のことである――を獲得した当団体は、何だかんだ言いつつも毎年二名ほどの同胞を集め――拉致し、洗脳し――て、現在では男女合わせて六名が所属している。

 さて、長々と炭酸クラブとその創設者について語ってきたが、そろそろ本題に入ろう。本題、そうなのだ。今まで述べてきたことはすべて、とある事件の予備知識なのである。ミステリー小説で例えてしまえば、先刻まで述べてきた情報のなかには事件の真相に到る重大なものが伏兵のように潜んでいる。

 さあ、もうこれ以上の引き伸ばしは止めにしよう。事件は昨夕に起きた。場所は大学内の講義棟の一室。亡くなったのは田所明次。死因は頭部の外傷からの出血多量。部屋は施錠されており、外部から内部に入るには鍵が必要になる。しかしその鍵は室内にあった。教材などの物置として利用されていた部屋には採光用の小さな窓があるだけで、人が出入りできるのは通用口の一カ所だけである。ここまで述べて分かるだろう。みんなの大好きな密室だ。




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