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重層スラウ(3)

 訂正。

 振り向くと廊下には数十冊にも及ぶ書籍の塔を抱えた人が立っていた。

「なんですか?」

 訊き返しながら頭の位置をずらして本に隠された顔をうかがおうとする。しかしその人は、まるでページの極僅かな隙間から僕の動作を見計らっていたかのように体の位置を変え、顔を見せようとしなかった。

「その部屋に何か用ですか? というか、あなたはどうしてこのアパートに入っているの?」

 僕より一オクターブ高い声質からして女性だろう。言葉尻には間延びするようなあどけなさが残っていて歳の若さを感じさせた。

「挨拶が遅れました。僕は今日、というか今さっきここに引っ越してくることが決まった者です。これから、よろしくお願いします」

 言いながら僕は彼女の顔を横から覗き見るために斜め右から回り込む。彼女は僕の動きを予見していたかのように身体の位置を変え、抱えた書物で顔を隠し一色の肌色も見せようとしなかった。

「そう。それは失礼しました。その部屋にはあまりいい思い出がないので、つい過剰に反応してしまいました」

 謝罪のお辞儀をしたのか、本の向こう側でコツンと書籍に頭部をぶつけた軽い音がした。

 僕はどうして彼女は頑なに顔を見せようとしないのか気になり始め、その理由をどうにかして暴きたいという純粋な好奇心に打ち勝つことができなかった。その所為でついつい聞き漏らしてしまった彼女への違和感をその時点で追及しておけば、これから起こる事態をもう少し違った形に組み替えることができただろうか。

 と、まるで彼女がキーパーソンであるかのような発言をしてみたが、彼女はこの物語の結末を左右する重要人物という訳ではなく、そこそこ関係する登場人物でしかない。推理小説でいうところの推理の切欠を与えてくれる気の利いた端役である。

 あくまでもこの物語については、だが。

 灰色の脳細胞が訳知り顔でそう言っているのを聞き流し、僕は己の好奇心を満たすために彼女に訊ねた。

「いっぱい本を持てますけど、お好きなんですか? 僕もそれなりに読むんですよ。どんな作家が好きですか?」

「最近は専ら安吾ですね。不良少年とキリスト、読んだことありますか? 『時間というものを、無限とみては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気で考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。』私はこの文章にハッとさせられたのですよ。時間というものは宇宙が生まれてからずっと流れているだとか言われて何となく理解した気になっていたのですが、すべてまやかしだと気付きました。いくら長大な時を経ていようともそれを観測する私自身が死んでしまっていては時間なんてものはないのです。私が息絶えてしまえばその時点で時は停まるのです。ということはですよ。私が死ねば世界が終わってしまうのです。私がいないと世界は成り立たないのです。この意味があなたに分かりますか? 私が全世界、全人類の中核だということなのですよ。もしも私が芥子粒ほどの気紛れを起こして命を絶てば、その時点で世界は終了するのです」

 のべつ幕なしに自分が世界の中核であるという暴論を捲くし立てる彼女の気が反れている間に、僕は素早く接近して彼女が抱える本の塔の最上端から一冊の上製本を取り上げた。

『重層スラウ』

 聞いたことがない題名だ。表紙を捲った遊び紙の先には登場人物の一覧があり、どうやら全部で七名が登場するようだった。

 本を閉じ、未だに自己中心論を書籍の塔の向こう側で講じている彼女を、背伸びをして上からのぞき込む。後頭部で一本に結わられた黒髪、右巻きの旋毛、柘榴(ざくろ)のような赤縁のメガネだけが印象に残り、その相貌は小説の中の登場人物のように確固とした像を結ばなかった。

 僕に見られていることに気付いた彼女は、「抜かった!」と、不意打ちを食らった武士のような声を上げ、抱えた本を高々と持ち上げ再び厳重に顔を隠した。

「油断もできない人ですね。あたなのような人がいるから私はいつもこうやって重い本を持ち歩かなければならないのですよ」

「君は、顔を隠すためにその本の塔を抱えているの?」

「本を持つ理由がそれ以外にありますか?」

「そんな、さも当然であるかのように言われても……。大多数の人は出先で読むために本を持ち歩いているんじゃないのかな」

「それは違いますよ。本を持ち歩くのは現実から目を背けるためです」

「現実から目を背ける?」

「満員電車の人ごみが蛆虫の群集のようで気持ち悪いから、教壇に立って偉そうにしているあの大人が不愉快だから、私の名前は(なり)(しの)(かん)()です、昼下がりの穏やかな空気が善人面をしているから、人は整然と縦列する活字の世界に逃げるのです」

 唐突に挟まれた自己紹介に僕は訳も分からずぽかんと放心した。僕が無言になったことから状況を悟ったのか鳴篠栞菜は弁解する。

「すみません、あのタイミングで私が名乗るよう本に書かれているので仕方ないのです」

 彼女の鈴の声で現実に引き戻され、僕は「本に? 何が?」と訊ね返した。

「あのタイミングで私が名乗るようにです」

「それは、君の言動が本に書かれているってこと?」

「私の言動が、ではなくて、これからのことが本に書かれているのです。私はその記述に従ってあのタイミングで名乗っただけです」

 えーとつまり、彼女の言葉を鵜呑みにするならば、彼女は未来について表記されている本を読んでいて、そこに記されている文章に従って発言したということだろうか?

 その主張をそっくりそのまま承服するほど僕に形而上の存在への信仰心はない。だからと言って他人の信仰を馬鹿馬鹿しいと断じるほど理解力がないとは訳ではないので、

「なるほど、それにしても突然だったね。どうしてもあのタイミングじゃなくちゃいけなかったの?」

 理解を装い、懐の深さを見せつけるようにして口にした。

「若干の誤差は平気ですが忘れないうちにと思って」

「その、これからのことが書かれている本、もしよかったら見せてもらってもいいかな」

「それはダメです」

 鳴篠栞菜は論文の終末に記された結論ように屹然と言う。

「あれは世界の中核である私だけが所有できる、いわば特権なのです。あなたのような凡百の凡人には永久に関わることのないものなのです。それはそうと、そろそろその本を返してもらえませんか?」

 彼女の語勢に気圧された僕は本を塔の上に戻してから口を開く。

「君はどうして、未来のことが分かる本に従っているの? 将来のことが分かってしまうことは、とてもつまらないことだと僕は思うけど」

「だってそれは仕方ないでしょう。世界の中核である私が世界の軌道を乱すことは出来ません。私が厳重に管轄しておかなければこんな(もろ)い世界なんて(つまづ)いて手を付いただけで簡単に崩壊してしまいますよ」

 まるで自分が世界を管理しているかのような物言いをする鳴篠栞菜。一〇二号室の青年と言い、ここの住人たちは世界への認識が普遍的ではない人しかないのだろうか?

 僕たちが会話を交わしている間も、アパートは相変わらず物音も人気もなく廃屋のように索漠としている。夕風に吹かれた建物のどこかで、カタカタと板の鳴る音がし、アパートの継ぎ目を抜け目なく見付けた風は、隙間風となって内部に吹き込んで天井の電球を孵化直前の昆虫の卵のように揺らし、その度に廊下の角にある黒電話の下で停留している影や、銀色のドアノブの下に垂れ下がっている影、書籍を抱えた鳴篠栞菜の影が生命を与えられたかのように伸び縮みして、アパートの内部が怪しく艶めかしく生々しく蠕動するその光景は、まるで食らった人間を消化するために胃液を分泌しているかのようだった。

「もし、その本に書かれている筋書きが乱されるような出来事があったらどうする?」

 この言葉も筋書きに(なぞら)えられた科白なのだろうか。そう思い始めると口の中を満たした己の言葉はいとも簡単にカラカラに空々しくなった。

「もちろん、排除しますよ。物だろうと概念だろうと人だろうと」

 ぎゅち、ぎゅち、と収縮を繰り返すアパートの映像が脳裏に染み渡るようにして浸潤していく。足下にある楕円状の影は、電球の振動とともに温度を床板に拡散していき冷えていく。影と繋がっている足裏から冷気が這い上がって体温を奪い、冷却された身体からは触覚が失せ、温もりを失くした骨と血と肉から逃げるようにして肉体を置き去りにした精神が宙へと漂い出した。

 老朽した木板の天井に張り付いて、僕は場景を俯瞰する。

 黴臭い廊下には、神妙に佇んでいる僕の肉と書籍の塔を抱えた鳴篠栞菜。二人を見下ろした僕は、金魚鉢の先から今までずっと監視されていたことに気付いた緋鮒のような感覚に陥った。監視者の視線でチリチリと焼けているかのように肌が微弱に震え、ガラスの先の監視者の動きを河の流動と勘違いたことに気付いてしまった、今まで自分が囲いの内にいたことを知ってしまった感覚。

 気付いた金魚は尾ビレから水弾を撃ち出して水上へと跳び上がり、鉢の内から外へと抜け出した。水から大気へと環境が変わったとしても、金魚のすることは変わらない。失語のように口を開閉させ、大黒い目玉で周囲を窺う。しかし、同一の動作であってもそこに含意されている意識には明瞭な違いがある。金魚は内包と外延の両側から意識を向けることができた。

 無色透明の金魚鉢で衝突した二本の意識の矢の(やじり)から蜜のような閃光が洩れて球面状境界を辿り、打ち上がった花火が夜空に紛れる刹那の火花のような滴りが球体を隈なく覆い、雫の中にある屋台の提灯に照らされて祭色に輝いたかつて自分のいた金魚鉢の世界を金魚は浮揚して眺め、長らく己を閉じ込めていた鉢の丸みを見て美しいと思い、たゆたう水草の匂いを懐かしく想い、再び鉢の中に戻ることにした。例え監視されていようとも、あの美しい球体の中は限りなく美しいから、僕は天井を蹴って下降し、旋毛から肉の中に戻り鳴篠栞菜に言った。

「人だろうと?」

「はい、人だろうと。……今までにも一人だけいましたよ」

「一人だけ?」

「はい、その部屋の元住人です」

 鳴篠栞菜は書籍をピサの斜塔のように傾けて一〇四号室を示した。対面した当初に言っていた『一〇四号室にあまりいい思い出がない』というのはそれが原因なのだろうか? それにしてもまた一〇四号室か、と会話の行く先にかすんで見える不穏な雲に戸惑いを感じながら僕は言う。

「その人は、どんな人だったの?」

「あまり思い出したくはないのですが……。そうですね、本の筋書き通りに事を運んでくれなくて厄介な人でした。え、性別? いるのかいないのかよく分からないくらい影の薄い男性の方でしたよ。存在の有無すら定かでない彼は、世界を管轄する私にとって異分子だったので――」

 排除しました、と鳴篠栞菜は書籍の塔の十五段目辺りから囁いた。

 排除とは、即ち(はら)い除いたということなのだろう。

 一体どこから排除したのか、視界からだろうか、このアパートからだろうか、この地区からだろうか、この国からだろうか、この地球からだろうか、この宇宙からだろうか、この世界からだろうか、いや、何れも同じことなんだ、そこにいなければ、眼に見えなければ、その存在は存在せず、存在しないとは生きていなく死んでいるということなのだ。

「どうしました、顔色が悪いようですが」

 そうかな? と声にならないような声で僕が答えると鳴篠栞菜は「ええ、まるで死んだ金魚みたいですよ」と薄く笑い声をこぼす。

 僕は気分が悪いのだろうか、余所から見てそう見えるのなら悪いのだろう、悪いのだ、ああ悪い悪い、気持ち悪い、気持ちが悪い。

 鳴篠栞菜の笑い声は大気から水分を取り込んで徐々に丸みを帯びていき、ある程度加重されると重力に打ちのめされた林檎の粒のように床板へ落下して板と板との溝をしゃりしゃりと転がっていき扉にぶつかって止まった。そこは黒いくぅろい染みを孕んだ一〇四号室だった。

「そうですね、では憐れなあなたにヒントを一つ上げましょう」

 ヒント、何のだ、僕は問題に直面しているのか、それにしても上から目線、いや、外から目線なのか、そんなことは知らない、知る必要はあまりない、あまり。

 あの部屋で殺されたのは三人、死んでいないのは一人です。

 それは、生きていないのが三人で生きているのが一人、ということなのだろうか、それとも、元々四人いて、その中で殺されたのは三人で、死んでいない、つまり、生きているのが一人と解釈すべきなのだろうか、同じか、同じだ、死んだのは三人だ、死んでいないのは一人だ、変わらない、変わらない、変わるのは殺された三人を殺した人数だ、七名の登場人物のうち三名がもうすでにいないので残りは四名、一〇二号室の青年は殺したと言った、それで一人だ、鳴篠栞菜も一人排除したと言った、それで一人だ、二人はそれぞれ一人ずつ殺した、残る登場人物は二人、そのうちの一人が殺された三人の中の一人を殺したんだ、誰だ、誰――。

 僕はどうすればいい、どうすべきなのだ。

 目下の目標目的を見失っている、何時からだ、そもそもの目的に立ち返ろう、そうだ、僕はあの染みの正体を知りたくて、正体? 正体は知ってる、そのくらい、ずっと前から、知りたいのはそれじゃない、僕が知りたいのはそれではない、では何だ、僕が知りたいのは、決まってる、誰が殺されたかだ、どうして僕は固執するそれにどうして僕は。

 アパートが消化液の分泌を止めないので僕の思考は結合を解かれて散漫になっているのだ、思考が酸の風呂に浸かり全て溶解させられてアパートの肉と一体化するまであとどのくらい時間がある、まだ猶予はあるか、ないか、どっちだ、教えてください、僕はまだ現実に縋ろうと、常識に捕らわれようと願っている、現実とは何だ?

 現実とは、実在することだ。

「排除したっていうその人は、一体どこへ排除させられたのかな?」

 人喰いアパートの食道に(うずたか)く積まれた書籍の塔に僕は訊ねる。

 排除された人が帰る場所なんて決まってるじゃないですか。

「海か大地か」

 そうです。言い換えると、水か土です。

「分かった、ありがとう、確かめてみるよ」

 それじゃあ、と別れの字句を告げて僕は帰える、どこに、水か土に、帰るために僕はアパートの外に出て墓地がある裏手に回った。

 夕日に焼き尽くされた墓地は夜に濡れた街の瓦礫(がれき)だった。かつては天高かった建造物もいまや瓦解した生者の遺恨であり、辛うじて形状を保っていた骨子も夜露の冷酒を煽っていた鈴虫に食い荒らされ葉群の中に打ち捨てられている。

 僕は迷うことなく墓地の中を進み、アパートの裏に直面した一帯の土を、軟らかで温かな大地を素手で貪り掘り出した。

 焦土の大地は一度煮え立ったためか軽く指先を突き刺しただけで容易に剥がれていく。その一枚一枚を剥ぎ、剥離した大地の層は左右に分配する。二つの山は悠久の年月を数秒で体感しているかのように高大に夜空へと向かっていった。

 両隣に形成されていく山に対して目下には爆心地のような大穴が穿たれていく。この穴の先に、この暗く暗い穴の先にいる、誰が、三人が、欠損した三つの死体が、白い骨が、腐敗した肉が、悪臭と、ともに穴の底から手を招き、一人生き残った、生き返させられた僕と再び同化することを、願っているのか、後頭部に衝撃を受け、僕は前のめりになりながら穴底へと転落する、天地も分からず、目の前で瞬いている星の、僅かな明かりだけを頼りにして、見上げた穴の上には、星明りに照らされた背広姿の、ああ最後の一人はこの人だったのか、僕は落ちていく、穴の底へ、欠損した部位へと還るために、僕は落ちて、いや、上がってゆくのである。





色々と忙しくて投稿ペースは遅れていますが、書き進んではいるので完結に影響はないかと。

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