重層スラウ(2)
始まりは何時だったかな。
僕が彼と出会った時期は不明瞭だけど、そのときの状況はいつ何時でも思い出すことができるよ。
当時の僕は、自分と他人との間にあるラップフィルムのような隔たりの正体を模索していた。
そうだなぁ。例えば、元日に両親と一緒に田舎に帰省したとき、大勢の親戚に囲まれた食卓の一端にいる僕は、酒に酔った大人たちと同年代の子どもたちが巻き起こす騒乱をまるで映画を観賞しているかのような気持ちで眺めているんだ。
ラップフィルムによって喧騒は山を越えて響く海鳴りのように間遠になり、夢でも見ているかのような感覚に襲われている僕は一人黙りこくって荒れ狂う食卓の情景を見物している。そんな僕のことを心配して話を振ってくる親戚も幾人かいたけど、その度に映画の登場人物がスクリーン越しに話しかけてきたかのような気味悪さを覚えていたんだ。
膜は年月を経るごとに厚みを増して行き、繭のように僕の全身を包んでいった。そして日増しに広がり続けるこの奇妙な膜の正体を調査し始めた。でも成果は全く現れないで、それどころか膜の存在を知ろうとする度、周囲に張り巡っている膜の厚みと強度の高さを知るばかりだった。
これを打ち破るには並大抵の努力では不可能なのだと独り合点しながら僕は、僕しかいない劇場の中央席に座り、キャラメル味のポップコーンと炭酸の利いたコーラを適宜口に運んで前方で上映されている映画の観賞を続けてきたんだ。ずっと、ずっと、『彼』が現れるまで。
彼が現れたのは、クラスの学級委員に立候補した三人の生徒が教壇に並んでそれぞれの抱負を述べているときのことだった。
一人目の女生徒が近眼のメガネに頻りに触れながら、私が学級委員になった暁には、と目眩く長広舌を披露している様子を塩味のポップコーンを摘んで観ていた僕の隣から「あいつはねぇな」という呟きが聞こえてきた。
驚いて隣の座席を見ると、学生服を着た高校生くらいの人がスクリーンに映し出される学級委員選挙という映画をニヤつきながら観ていた。
その余りの唐突さに絶句している僕に彼は軽薄な笑みを寄越して、僕のポップコーンの山に勝手に手を突っ込み、むしゃむしゃと頬張りながら口を開いた。
「あいつ、メガネばっか触ってるだろ。あれは自分に自信がない証拠だ。そんなやつが代表なんかになれるはずがねぇよ」
そう言って彼はスクリーンへと顔を戻す。その明け透けな口調や態度とは裏腹に、彼の横顔は映写される光の瞬きによって酷薄なものへと変えられていた。
彼の登場によって心を掻き乱された僕は、その戸惑いを和らげるために果汁一〇〇%のオレンジジュースを喉に通した。そして、事あるごとに映画を酷評する彼を気にしながら僕も観賞を続けた。
これが彼との初体面の記憶。
それから僕は独りではなく彼と一緒に薄膜に投射される映画を観ることになった。あるときは運動会でリレーが行われている短編映画、あるときは緊迫した受験会場を舞台にした映画、家族と旅行をする映画もあった。その度に彼は登場人物の容姿や演技、演出に辛辣な言葉をぶつけて僕に賛同を求めた。
「それは、今もそうなのかな?」
どういう意味? 今も僕がスクリーンを通してお兄さんと接しているのか、ということ?
「まぁ、それもそうだけど。僕が聞きたかったことは、今も君の隣には彼がいて、その彼はスクリーンに映っている僕の容貌を観て、君に何か言っているのかなって気になったんだ」
言っているよ。お兄さんの顔を見て、「瞬きする度にどんな顔だったか忘れる」って笑ってる。
「それは酷いな。そんなに僕の顔は平凡かな?」
平凡っていうか、特徴がないんじゃないかな? あ、怒らないでね。良く言えば無駄がなくて均整が取れているってことだから。
「悪く言えば、目を瞑る都度に忘れてしまうくらい印象が薄いってことだろう」
ま、悪く言えばね。
「それはそうと話を戻してもらっていいかな」
そうだね。えぇと、どこからまで話したか忘れちゃったよ。
「僕の顔のように?」
お兄さん、自分の容姿を自虐して虚しくならない?
「なるよ、とっても。だから早く話を続けてくれないかな。そうじゃないと僕は自分の肘や耳たぶまで嫌な部位を見付けては余すところなく罵詈讒謗を口にしてしまいそうだ」
それはいけない。お兄さんのために僕は頑張るよ。頑張って話すよ。――そうだ、思い出した。
その日から僕は、独りではなく彼と一緒に映画を観ることになったんだ。相変わらず彼は僕のポップコーンにいつの間にか手を出しているし、ときにはドリンクまで勝手に飲まれてしまうこともあった。飲食代だって馬鹿にならないっていうのに、彼はいつだって自由奔放で、僕の意見なんてお構いなしだった。
それでも僕は、独りより二人で観る映画の方が好きだった。彼の軽口に合わせて笑い、内容がつまらないとスクリーンに向かって一緒にポップコーンの投げ合いをした。彼さえいれば膜の先のことなんて考えなくてよくて、僕はスクリーンを通した対話に苛まれることもなくなる――はずだった。
「はずだった?」
うん、はずだった。
その映画は、古い木造アパートで暮らす話だった。
アパートには男女合わせて七名が住んでいて、主人公はそこの一〇二号室で起居していた。彼は主人公であり、視点であり、僕だった。僕とは即ち、映画を観ている僕のことであり、映画に出ている僕でもあった。劇場で映画を観る僕の目線が映画の視点となり、映画の視点は主人公の目線でもあった。しかし、僕と映画の主人公は視覚を共有していたが意識や思考、肉体の連関は一切なかった。僕が何を考えようと主人公の行動には影響がなく、主人公の慮りも僕の行動を制限することはなかった。
主人公はその年の春、都内の私大に入学した一回生だった。親元を離れた生活に多少の不安を抱えつつも、手足に着いていた枷が外された解放感を心から満喫していた。
住まいの木造アパートは目を覆いたくなるほど寂れていたが、大学まで自転車で十分という好立地と家賃の安さを加味すれば何とか我慢できないこともなかった。
アパートの住人達は偉人のような奇人のような変人のような掴みどころのない人たちばかりだったけど、一人の住人を除いたほとんどは、他人と積極的に関わろうとするどころか意図的に避けているような人たちばっかりから、人間関係がネックになっていた主人公にとってそこは打って付けの物件だった。
問題は一人だけ関わってくる住人だった。
その男は主人公の隣の部屋である一〇四号室に住んでいた。寝癖を無造作ヘアー、無精ひげをオシャレと言い張るその男は、主人公と同じ大学の四回生だった。その所為か何かと主人公に対して何かと先輩面をしたがった。あるときはゼミの飲み会に誘い、あるときは麻雀の面子に加えようとし、挙句、金の無心までしようとする始末であった。主人公は事あるごとに関わってくるその男のことが嫌いだった。この嫌いとは所謂、生理的に嫌というやつであった。
主人公はその男に嫌悪をすら抱いていたが、男には不思議と人望があった。キャンパスで会ったときには男の周囲には三十名にも及ぶ大所帯が取り巻いており、男が歩くまるで大名行列のように人塊が続いた。たしかに男には人を引き付ける何かがあったように思えたが、主人公は決してその何かに魅惑されることなく、その夜が来た。
日付が変わってまだ新しい夏の夜を、主人公はバイト先の工場からアパートまで自転車で帰っている途中だった。
あと十数メートルでアパートに到着するというところで、切れかけた街灯の下に蹲り滝のような嘔吐をしている男性がいた。その吐瀉音が余りにも苛烈であったため、心配になった主人公は自転車を停めて男性に声を掛けた。その男性は隣室の男だった。
ペダルに全体重を乗せて見て見ぬふりをしたい主人公であったが、男に隣室の後輩だということを気付かれてしまい泣く泣く部屋まで送り届けることになった。
右の腕と肩で千鳥足の男を抱え、左手のみで自転車を押して進む芸当は、その筋の熟練者でなければ容易ではない。主人公はバイトの疲れもありヘトヘトだった。死に物狂いでアパートを目指したが、脇に抱えた男は歌謡曲を陽気に唄いながら、その次いでとばかりに路面にゲロをぶちまけていた。
ようやくアパートにたどり着き、自転車は取り敢えず入り口に放置して、酔っぱらった男を部屋に運ぶことに専念した。
アパート内は静まり返っていた。他の住人は寝てしまったか、まだ外出中のどちらかだろう。手助けを頼むという案も一瞬浮かんだが頼みごとができるほど他の住人達との親交が深くないため気が咎め、仕方なく一人でやり遂げてしまうことにした。
共同廊下の角を折れ、寝入ってしまった男を引きずりながらフラフラ進んでいき一〇四号室の前に到着する。ムニャムニャとまるでマンガのような寝言を口にする男をこの場に打ち捨てて自室に帰ろうかと思っていると、折良く男が目覚めた。
「んぁッ、家に着いてる」
男は傍にいる主人公の存在をまるで無視して、よれよれのジーンズから取り出した鍵で部屋に入っていった。さすがに謝礼など期待していなかったものの会釈の一つもないことに主人公は苛立ち、一〇四号室の扉を爪先で蹴って憤然と自室へと帰っていった。
やっと帰還できた主人公は、鞄を畳に放りだして自分も横になる。疲労はピークに達し布団を敷く余力すらなかった。呼吸をするように眠りに就こうとした主人公であったが、壁が激しく叩かれる音で無理やり現実へと留められた。
騒がしいのはやはり一〇四号室だった。
揺れる電灯。舞う埃。反響する殴打音と笑い声。
主人公は眠気も疲労も忘れ、細胞を怒りで覚醒させた。
演出なのか真赤に染まったスクリーンを眺めていた僕は、珍しく映画に釘付けになっていた。赤みを帯びた室内を背に、鬼のような形相で壁を睨みつける主人公の表情がアップになる。
「ああ、こいつ殺しちゃうな」
隣から聞こえてきた彼の言葉に反することなく映画は展開した。
主人公は調理用の包丁を持ち出して隣室の扉を連続で叩く。男が迷惑そうな顔で出てくる。男の襟を引っ掴んで部屋に踏み入り、よたよたと引っ張られてきた男を部屋の中央に放り投げる。そして男が不平の声を上げる間もなく、肌蹴た胸元に包丁の銀を突き立て、溢れ出した血液の赤で全身が濡れていくことを気に止めず、男が息絶えるまで刃の紅白を刺し続けた。
「じゃあ、一〇四号室のあの染みはやっぱり血痕なんだ?」
僕が観た映画ではそうなってるね。
「君が観た映画では? じゃあ、現実の一〇四号室のあれはまた別だってこと?」
それは知らないよ。僕はさっきから僕が観た映画の話しかしてないんだから。
「でも、その映画の主人公は君なんだろう?」
そうだよ。主人公は視点であり僕。僕とは即ち、映画を観ている僕のことであり、映画に出ている僕でもある。
「それは、君がその男の人を殺したってことじゃないの?」
映画の主人公になっている僕はあの男を殺してしまったけど、映画を観ている僕は一切手を下していないよ。お兄さんが今会話をしているのは映画を観ていた僕だよ。だから僕があの男を殺したわけではないよ。
「頭がこんがらがってきそうだ。えーと、一つずつ僕の質問に答えて貰っていいかな?」
いいよー。
「まず、あの染みは血痕?」
映画ではそうなってるよ。
「映画の主人公は誰?」
僕。
「じゃあ、あの血痕の主を殺したのは君?」
その映画の主人公だった僕。
「映画の主人公の君と、今の君は同一人物?」
視界を共有しているだけで、意識とかは別物だからまったくの同一とは言い難いんじゃないかな。
「君が観ている映画というのは現実を暗喩めかして述べているのではない?」
僕の現実は映画館だけだよ。そこで観ている映画で何が起ころうとも僕の現実に変化はないよ。
「君は今、どこにいる?」
映画館。
「その映画館はどこにある?」
このアパートから自転車で三十分の場所にある駅の近くに建ってる雑居ビルの最上層にあるよ。
「そこには君と……『彼』以外の観客はいない?」
そうだね。僕と彼の二人だけだ。
「彼は今、どうしてる?」
お兄さんの顔を見て笑ってるよ。
「彼はどこから来た?」
さぁ、訊いたことはないけど。
「訊いてみてくれないかな?」
いいけど、ちょっと待って……。
「……どうだった?」
秘密らしいよ。
「じゃあ、その映画館に来た理由を訊ねてもらってもいいかな?」
…………。
「どう?」
……えっと。
「また秘密?」
んー、教えてくれたけど、ねぇ。
「なんだって?」
人を殺したから逃げてるんだって。
「誰を殺したか訊いてみて」
……気に入らない隣室の住人だって。
「殺し方は? 死体の処理は?」
包丁で胸を刺して殺して、死体は墓地に埋めたって。
「現場はどこ?」
古い木造アパートの一室。
「分かった。彼にありがとうって言っといて」
うん。どういたしまして、だってさ。
「そっか。それじゃ、僕はそろそろお暇しようかな。これからよろしく」
よろしく。お兄さんとなら上手くやっていけそうだ。
一〇二号室を後にした僕はそのまま扉に背を預けて脱力した。
全身から力が抜けると頭には、あの青年はなんなんだ、という疑問が真っ先に浮上する。
自分が見ている景色を映画と称し、自分自身は映画館でポップコーン片手にそれを観賞しているという。それならば、僕が今さっき対面していた彼は何者だというのだ、という疑問も続いて湧き上がってくるし、彼と一緒に観賞しているもう一人の『彼』はそもそも存在しているのか、とか、仮に存在していないのなら彼は嘘というか妄想を語っていただけになるし、もしそうなら一〇四の血痕は彼が原因になり、彼は人殺しということになる。
といった様々な憶測が伝書鳩のように飛び出しては行き先を忘れて戻ってくるのを繰り返している。
何やらとんでもない場所に越して来てしまったような気がしたが、隣室の彼と自室の血痕について深く考えなければ、それなりに平穏無事な生活を送れそうな予感がする。
僕は自分の図太さに感謝しながら一〇四号室のドアノブに手を掛けた。すると。
「あの――」
真新しい鈴を転がしたかのような声が廊下の先から響いた。その音色につられるようにして、声の出所に目をやると廊下の先に書籍の塔が立っていた。