お題バトル「無作為」
お題ワード
:扉
:カフェ
:破壊
:創造
:新聞
:車
時間:46分(実測、46:28)、文字数2960(スペース有り)、使用ツールPages、GoogleIME、
歩いているのだが、如何せん直進出来ない。世界が幾度と無く湾曲し、転倒し、壊れ創られれ認識され打ち消され終わり始まる。何故だろうこんなにも世界が歪んでいるのだから間違いなく、この世界は終わりに近づいているのだろう。自分の家が遠い。いや、自分の家なんて合っただろうか? 既に無くなっているのかもしれない。こんなにも歪む世界なのだから、きっとあの家も。
ふと目の前を捻れた車が通りかかる。視界の右から左へ流れたそれははて、本当にそこが右か左かは理解できぬが、感覚的には間違っていないだろう。黒い車体と粉々に砕けようかというほど曲がった硝子窓。窓だったか。窓がまだあるのか。
そういえばだんだん世界の歪みが無くなってきている。わずかばかりだがゆっくりと確実に。確かなその感触が感じられる。大きな地震だったのだろうか、そも記憶がない。気がついたらこんな世界に一人放り出されていた。だんだん頭もはっきりとしてきた。自分で側頭部を幾度か殴る。少しばかリ痛みがあるが気にかけない。何かそう。大事なことを忘れている気がしているのだ。重要なこと。明日の会議の書類だとか、家の扉に鍵を締め忘れただとか。俺にとって重要であろうことを喪失している、そんな感覚。
躓く。何に? 階段が足元にあった。なんの階段だろうかと思考を張り巡らせる。大分思考も回るようになってきた。大丈夫ゆっくりと考えていこう。目の前には看板、暗がりでも確かにそこにあると理解できる、小さいけれど主張性の高いソレ。次に目に入るのは明かりが溢れる扉と、そこへ導かれるように創られた階段。よし理解出来た。つまりはあの扉の中へ導かれるように創られたものなのだろう。素晴らしい。こんなボロクソな頭であっても理解できるような、正しくユーザーフレンドリーなそれはデザインの完成形だろうか。俺もいずれこのようなシステムを建てたいものだ。
「いらっしゃいませ」
扉を片手で開けると小さな声が聞こえてきた。小さくはあるけれど耳に確かに入ってくる音。人の声というのを単音を重ねて再現出来ないかと一時期考え続けていた時期があったのを思い出す。結局実現出来なかったし就職してしまったから、そんなことで遊ぶ余裕は無くなってしまった。
「何にしましょうか」
カウンターと思しき場所へ何かに背を押されるように動き、椅子に深々と座る。良い椅子だ。椅子というのは使用者だけではなく周囲の環境より影響を受け、その存在を形作るものだと信じてやまない。この椅子は幾人の身体を支え、自己を摩耗させながら役割に従事しているにも関わらず、気品に満ちた、それでいて謙虚な立ち振る舞いを感じる。そんな椅子だった。つまりはこの空間自体が、そんな空気に満ちているということでもある。
深呼吸をする。サキュレーターでかき回された空気が鼻より身体へ浸透し、脳を刺激する。良い香りだ。直感で判断する。珈琲の香りと僅かに混じった甘い香り。前者はそのままだろう、後者は一体なんの香りだろうかと思案する。丁度良く目の前に薄い紙が置かれる。上から順繰りに読み上げようとするが、声が出ないことに気がつく。なんたることか、ここは妥協し黙読しよう。
オリジナルケーキ、チーズケーキ……文字が読みにくい。既に世界は平衡を取り戻しているが、まだ若干視界が歪んでいる。その弊害かまだ細かい文字は脳が処理出来ないようだった。頭に鈍痛が広がる、先ほど叩きすぎたからだろうか、そこまで気が回らないのでゆっくりと動作を開始する。
眼の前の人間に向かって――いつの間にか人間が居た――顔を向けると、小さく笑顔を返された。そして一つ小さな仕事を了承したかのように、若干ながら首を縦に振ると口を開いた。
「珈琲とシフォンケーキでございますね。かしこまりました」
いつの間にか俺の指は紙の一部を示していたようだ。そこには目を細めれば確かに『シフォンケーキセット』と書いてあった。なるほど、彼は俺の指先を見て注文を取ったということか。よってここは喫茶店か何かだろう、それならばこの椅子の気品の高さ、空気の高貴さも窺い知れる。一言で言うならば素晴らしい、短絡的ではあるがこの形容が最も適切であると思う。自身の語彙力のなさにこの様なタイミングで嫌気が刺すのは、この年まで生きていても珍しいことだ。そも普段は語彙力のなさなど気に止めもしないからな。
「珈琲と紅茶シフォンでございます」
眼の前に静かに置かれた皿には黒の液体と、大きく膨らんだ茶色のケーキが置かれた。シフォンには透明で艶やかな液体が小さく線を描くようにかけられ、一種の芸術を創造していた。だが隣に在る漆黒の液体がその芸術を破壊しているが、然り、その破壊こそがこの液体の創りだす芸術だ。この黒はただ黒いわけではない。『黒く在る為に黒く在る』のだ。それを直感にも似た感覚で理解出来てしまった瞬間、俺は自分の口へとカップを近づけていた。
あと少し、陶器へ伝わる黒の熱さが指を刺すが、全く気にならない。普段であれば声を上げてこの陶器のカップを再び置いているだろう。今日は、特に今回はそんなことは無かった。あぁもうすぐこの液体を自分の中に迎え入れられるんだという歓喜が、充実感を欲する欲望が、総じて痛みを超えていた。そう、そうして口をいよいよカップにつける。一拍呼吸を置く。深呼吸とは言わない、が、そして手首を静かに傾ける。唇と唇の間から口腔へと侵略する熱さは、暫時と立たず攻め寄せる苦味、そして充実感によって打ち消されていった。こくりと飲み下すそれは、俺の身体の隅々までを侵略していった。
「……ぁ――」
自然と吐息が漏れていた。右手は既にカフェのテーブルへ置かれ、次の上昇を今か今かと待っている。なんて、なんて美しいモノだろうか。生まれてはじめて珈琲というものを味わった気がする。これから飲むであろう珈琲達にこれを超える事ができるのだろうか、出来ないかもしれぬが、してもらわねば困るのだ。これだけで終わりにしてはならぬだ。
もう一口、そしてもう一口。自然と腕は動き唇はそれを迎え、視界の隅でめくられる他の客の読み物も気にならない。ただ飲むという行為に陶酔する。やがて右手はフォークを取り、シフォンの山へ侵略を開始していた。音を立てずに小さく崩れる山を刺し、そして口へと導く。俺の身体は自然とそれを受け入れるようにそのケーキを咀嚼し、味わい、喉の通す。
「美味しい」
今日、記憶を取り戻してから初めて発した言葉がこれだ。それを皮切りにこれまで砕かれていたパズルのピースが組み立っていく。そう、居酒屋、お酒。同僚、仕事、嘔吐。
真実を知った俺は思考を再び全て投げ出し、右手の珈琲へと視線を落とす。深い黒が俺の歪んだ顔を反射し、嘲るように象る。
「また明日があるさ」
自分の笑った顔に自分で答え、最後に残ったシフォンケーキを胃袋へ導き、最後まで砂糖とポーションを入れなかった珈琲を飲み下し、チラと見えた他の客がめくる見出しの「消費税増税」という単語に嫌気を覚えながら、天を仰ぐ。厳密にはサキュレーターだったが今の俺には正しく天だった。時はゆっくりと流れ、世界はこんどこそ本当に修復されていった。