婚約破棄された瞬間、好感度が見えるようになりました。殿下は2でした
「エリシア・ヴァルトン! お前との婚約を、ここに破棄する!」
その瞬間、ユリウス殿下の頭上に、ぽんっと数字が浮かんだ。
《好感度:2》
……二。
百点満点で、二。
*
建国祭の舞踏会。シャンデリアの真下、広間のど真ん中。
殿下の腕には、子爵令嬢のセシリア様が、守られるお姫様のような顔で寄り添っている。
私は、そっと目をこすった。
消えない。
それどころか――広間にいる全員の頭の上に、淡く光る数字が浮かんでいた。
『エリシア。あなたがいちばん困った夜に、一度だけ、本当のことが見えるおまじないをかけておいたからね』
亡くなったお祖母様が、幼い私の額に口づけて言った言葉を思い出す。
ずっと、おとぎ話だと思っていた。
数字の意味は、なんとなく分かった。たぶん、私への好感度だ。
その証拠に、セシリア様の頭上には《好感度:−48》とある。
……マイナスもあるのね。
「聞いているのか、エリシア!」
殿下が声を張り上げた。
「お前はセシリアの美しさと清らかさを妬み、学園で陰湿な嫌がらせを繰り返した! 教科書を隠し、ドレスにワインをかけ、あまつさえ階段から突き落とそうとしたそうではないか!」
「ユリウス様、もういいんです……私が我慢すれば……っ」
セシリア様が、殿下の胸に顔をうずめる。
その頭上で《−48》が《−52》に下がった。我慢しているのは、どうやら私への悪感情のほうらしい。
私は、殿下の《2》をもう一度見上げた。
三年間。
王子妃教育で、寝る間もなかった。
殿下の代わりに公務の書類を読み、殿下が忘れた式典の挨拶を考え、殿下の失言を各国の大使に詫びて回った。
その結果が、二。
……不思議と、涙は出なかった。
むしろ、肩の力がすとんと抜けた。
ああ、そうか。
もう、頑張らなくていいんだ。
*
ふと、周りを見回した。
ひそひそと囁き合う貴族たち。扇の陰から私を見る令嬢たち。きっと、みんな殿下と同じような数字なのだろう――そう思っていた。
《82》
《91》
《76》
……え?
壁際に並ぶ、学園の同級生たち。試験前に、一緒に図書室で勉強した子たちだ。
給仕の盆を持った侍女たちは《95》《88》《97》。
玉座の近くに控える、白髭の宰相閣下は《88》。
楽団のヴァイオリン弾きでさえ《64》。いつだったか、演奏を褒めたことがあったかもしれない。
私は、思わず口元を押さえた。
――ひとりじゃ、なかった。
ただひとつ、広間の扉の前だけは、見ないようにした。
そこには、黒い騎士服の男性が立っている。
ジークフリート・アイゼン騎士団長。
笑ったところを誰も見たことがないという、《氷の騎士団長》。
この三年間、王子妃教育に通う私の護衛を務めてくださった方だ。いつも眉間に皺を寄せて、口数も少なく、一度だけ「無理をなさるな」と叱られたことがある。
きっと、出来の悪い私に呆れていたのだろう。
あの方の数字だけは、見たくなかった。セシリア様より低かったら、さすがに立ち直れない気がした。
*
「証人もいるぞ! マリー嬢、アンナ嬢、前へ!」
殿下が、壁際の同級生を指さした。
呼ばれた二人の頭上には、《89》と《93》。
二人は顔を見合わせ、おずおずと前へ出てきた。
「お前たちは見たのだろう? エリシアがセシリアを階段から突き落とそうとしたところを!」
「……いいえ」
マリー嬢が、小さく首を振った。
「私たち、そんなものは見ておりません」
「なっ……昨日は、セシリアの言う通りだと――」
「殿下に『見たと言え』と言われましたけれど、やっぱり嘘はつけません」
アンナ嬢が、まっすぐに顔を上げる。
「エリシア様は、私が試験に落ちそうだったとき、毎晩図書室で教えてくださった方です。そんな方が、人を突き落とすはずがありません」
「私も、見ていません!」
「私もです!」
壁際から、次々と声が上がった。手を挙げる令嬢、うなずく令息。
「殿下」
令息の列から、眼鏡の青年が一歩進み出た。学園の生徒会で書記を務めていた、カイル様だ。頭上の数字は《84》。
「僭越ながら申し上げます。セシリア嬢が『階段から突き落とされかけた』とおっしゃる日、エリシア様は生徒会室で、殿下の代わりに予算案をまとめておられました。私が、ずっと隣で見ておりました」
「せ、生徒会の予算は私が――」
「殿下は、その日もご欠席でした」
カイル様は、静かに眼鏡を押し上げた。
「議事録もございます。お望みでしたら、明日にでも陛下にお届けいたしますが」
殿下は、ぱくぱくと口を開け閉めした。
壁際の同級生たちの数字が、ひとつ、またひとつと明るくなっていく。
セシリア様の《−52》は、《−80》まで下がった。
殿下の顔が、赤から青へと忙しく色を変える。
「エリシア嬢」
静かに歩み出たのは、宰相閣下だった。
「念のため伺いますが――セシリア嬢に嫌がらせをなさる時間は、おありでしたかな?」
「いいえ、閣下。ございませんでした」
私は、正直に答えた。
「ここ二年ほど、夜はずっと殿下の書類仕事をしておりましたので」
「ふむ」
閣下は白い髭を撫でて、殿下のほうへ向き直った。
「殿下。明日の三国会談の資料は、エリシア嬢なしでお読みになれますかな?」
「し、資料? 何の話だ」
広間のあちこちで、誰かがこらえきれずに噴き出した。
明日の会談のことを、殿下はご存じなかったのだ。
「さ、三国会談くらい知っている! あれは、その、来月の――」
「明日でございます」
宰相閣下の静かな訂正に、今度ははっきりと笑い声が起きた。
*
「――何の騒ぎだ」
重い声が響いた。
広間の全員が、一斉に膝を折る。
国王陛下だった。頭上の数字は《90》。
殿下が慌てて駆け寄り、早口で事情を説明する。陛下は黙って聞き、宰相閣下と、同級生たちと、最後に私を順に見た。
「エリシア嬢。婚約破棄を、受け入れるか」
「はい、陛下。謹んでお受けいたします」
「そうか」
陛下は、ふう、と長い息を吐いた。
「では、ユリウス。お前の望み通り、婚約は解消としよう。そしてもう一つ――立太子の件は、白紙に戻す」
「父上!?」
「国を支えてくれる者を、自ら手放す者に、国は任せられん」
殿下が、その場に崩れ落ちた。
すると、それまで殿下の腕にしがみついていたセシリア様が、ぱっと手を離した。
「え……王太子じゃなくなるなら、私……」
彼女はそれだけ呟くと、ドレスの裾をつまんで、人垣の向こうへ消えていった。
床に膝をついたまま、殿下は呆然とその背中を見送っていた。
陛下は、それから私に向き直った。
「エリシア嬢。三年間、愚息が苦労をかけた。……すまなかった」
「もったいないお言葉です、陛下」
「今後のことは、ヴァルトン公とよく話して決めるといい。望むものがあれば、何でも言いなさい」
頭上の《90》が、ほんの少しだけ《92》になった。
*
舞踏会は、そこでお開きになった。
広間を出ようとして――私は、とうとう扉の前で足を止めた。
ジークフリート団長が、そこに立っていた。
見上げるほど背が高い。眉間には、いつもの深い皺。
覚悟を決めて、その頭上を見た。
《好感度:999》
……。
…………え?
数字が、点滅している。
よく見ると、横に小さく《上限》と書いてある。
「エリシア嬢」
低い声で呼ばれて、私は飛び上がりそうになった。
「お屋敷までお送りします。……お疲れでしょう」
「は、はい」
団長が、一歩近づいた。
《999》が、ちかちかと激しく瞬いた。
もう一歩近づく。
《999》《999》《計測不能》《999》。
数字が、明らかに混乱している。
なのに、団長のお顔は、いつも通りの無表情だった。
試しに、私は小さく微笑んでみた。
「送ってくださって、ありがとうございます。団長様」
《999》《99■》《エラー》《999》。
……壊れた。
団長は、ふいっと顔を背けた。
「職務ですので」
「そうですか」
「……職務、ですので」
二回言った。
廊下を並んで歩きながら、私はもう一度だけ試してみたくなった。
「団長様は、甘いものはお好きですか?」
「なぜです」
「いえ、なんとなく」
「……好きです」
《999》が、ぴこん、と跳ねた。甘いものの話で跳ねる数字ではない、と思う。
「あの、団長様」
「何でしょう」
「失礼ですが……私のこと、お嫌いでは、なかったのですか?」
団長が、ぴたりと動きを止めた。
「……なぜ、そう思われたのです」
「いつも、怖いお顔をなさっていたので。てっきり、出来の悪い私に呆れていらっしゃるのかと」
長い沈黙が落ちた。
団長の耳が、ゆっくりと赤くなっていく。
「顔が怖いのは、生まれつきです」
「そう、なのですか」
「それに、呆れたことなど一度もない」
団長は、廊下の窓の外に目をやった。月が、白く庭を照らしている。
「三年前、王宮の庭で、泣いているあなたを見ました。王子妃教育が始まったばかりの頃です。誰にも見られないよう、薔薇の茂みの陰で」
私は、息をのんだ。
覚えている。初めての礼法の授業で、教師にひどく叱られた日だ。
「泣き終わったあなたは、顔を洗って、また授業に戻っていった。……それからずっと、目が離せなかった」
「では、護衛を引き受けてくださったのは」
「自分から願い出ました」
団長は、まっすぐに私を見た。
氷のようだと言われる灰青の瞳が、少しも冷たくなかった。
「あなたは殿下の婚約者だった。だから、何も言うべきではないと思っていた。『無理をなさるな』と言うのが、精一杯でした」
あの一言は、叱責ではなかったのだ。
三年間、ずっと。
「ですが、今夜――あなたは婚約者ではなくなった」
団長は、その場に片膝をついた。
廊下に残っていた侍女たちが、小さく悲鳴を上げる。
「エリシア・ヴァルトン嬢。お慕いしています。三年前から、ずっと」
頭上の《999》が、ぱちん、と弾けた。
そこに浮かんだのは、横倒しの八の字――《∞》だった。
「……団長様」
「ジークフリートと」
「ジークフリート様。数字が、壊れてしまいました」
「数字?」
「いいえ、こちらの話です」
私は、笑いながら泣いていた。
二と言われた夜に、無限をもらうなんて、誰が想像しただろう。
「ありがとうございます。……お受け、いたします」
団長の――ジークフリート様の無表情が、ほんのわずかに崩れた。
それが、私が初めて見た、この人の笑顔だった。
*
公爵邸へ向かう馬車に乗り込もうとしたとき、背後から足音が駆けてきた。
「待て、エリシア!」
ユリウス殿下だった。髪は乱れ、礼装の襟も曲がっている。
「さっきのは取り消す! 婚約破棄は撤回だ、やり直そう!」
殿下の頭上を見ると、数字が《2》から《41》に上がっていた。
「上がりましたね」
「何がだ?」
「いいえ。……殿下、ひとつだけ伺っても?」
「何でも聞け!」
「明日の会談の資料は、どなたがお読みになるのですか」
殿下は、ぐっと詰まった。
数字が、《41》から《43》に上がる。
ああ、やっぱり。
この人の数字は、私の“使い道”が分かってから上がったのだ。私自身を見てではなく。
「殿下。その数字、三年前に見たかったです」
「数字……?」
「でも、今はもう要りません」
私が一礼すると、ジークフリート様が、すっと殿下と私の間に立った。
「殿下。エリシア嬢へのご用件は、今後、私を通していただきたい」
背の高い騎士団長に見下ろされて、殿下は二歩、三歩と後ずさった。
そして結局、何も言えないまま、肩を落として広間へ戻っていった。
翌日の三国会談で、殿下は資料の一頁目から読み間違え、会談は宰相閣下が引き取ったという。
王太子には、学問好きで知られる第二王子殿下が立つことになった。
――それはまた、少し先の話。
*
ようやく走り出した馬車の中で、私はジークフリート様と向かい合って座っていた。
……沈黙が、重い。
頭上の《∞》のほうは、ふわふわと楽しげに揺れているのに。
「あの、ジークフリート様。ひとつ伺ってもいいですか」
「はい」
「王宮の書庫で夜遅くまで書類仕事をしていたとき、いつの間にか温かいお茶が置いてあったのですけれど」
ジークフリート様の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……侍女の誰かでしょう」
「侍女の皆さんに聞いても、誰も知らないとおっしゃっていました」
「……」
「冬に、書庫の椅子に毛織のクッションが増えていたのも」
「……」
「春に、窓辺に白い薔薇が一輪だけ飾られていたのも」
「…………私です」
ジークフリート様は、片手で顔を覆った。指の隙間から見える耳が、もう真っ赤だ。
「名乗るつもりはありませんでした。あなたに、余計な気を遣わせたくなかった」
「どうして、お茶だったのですか」
「書庫の灯りが消えるのは、いつも真夜中を過ぎてからでした。殿下の部屋の灯りは、宵の口に消えるのに」
私は、言葉を失った。
この人は、ずっと見ていたのだ。殿下の分まで灯りを点けていた、書庫の窓を。
「腹が立っていました。殿下にも、何もできない自分にも。……だから、せめて茶ぐらいはと」
「とても、美味しかったです」
「そうですか」
「毎晩、あのお茶を楽しみにしていました」
「…………そうですか」
ジークフリート様は顔を覆ったまま、窓のほうを向いてしまった。
頭上の《∞》が、くるくると回っている。
私は、膝の上で手を握りしめた。
ああ、どうしよう。この人、とても可愛い。
*
馬車が公爵邸に着いたのは、東の空が白み始める頃だった。
「エリシア嬢、足元にお気をつけて」
先に降りたジークフリート様が、手を差し出してくださる。
その手を取って顔を上げたとき――頭上の《∞》が、朝日に溶けるように、ふっと薄くなった。
見回すと、門番の頭上にも、御者の頭上にも、もう何も浮かんでいない。
お祖母様のおまじないは、一夜限りだったらしい。
「……どうかなさいましたか」
「いいえ。少し、寂しくなっただけです」
これからは、もう数字に頼れない。
この人の気持ちも、言葉と顔で確かめるしかない。この、生まれつき怖いお顔で。
すると、ジークフリート様は、私の手を握ったまま、少しだけ目を逸らした。
「エリシア嬢。……その」
「はい」
「朝日の中のあなたは、夜より、ずっと綺麗だ」
ぼっ、と音がしそうな勢いで、彼の耳が真っ赤になった。
私は、思わず噴き出した。
――なんだ。
数字なんかより、ずっと分かりやすい。
*
あの夜から、一年。
私は今、アイゼン家の奥方として、騎士団の書類仕事を手伝っている。
夫は相変わらず、人前ではにこりともしない。騎士たちには今でも《氷の騎士団長》と呼ばれている。
けれど、私は知っている。
朝、私が「おはようございます」と言うたび。
お茶を淹れて、隣に座るたび。
名前を呼んで、笑いかけるたび。
この人の耳は、真っ赤になるのだ。
今朝も、朝食の席で名前を呼ばれた。
「エリシア。今日は、騎士団の視察が早く終わる。……その、王都に新しい菓子店ができたそうだ」
「まあ。連れて行ってくださるのですか?」
「甘いものは好きだと、言ったでしょう」
「ええ。覚えています」
あの夜、廊下で数字がぴこんと跳ねたことも。
にっこり笑って「嬉しいです」と答えると、夫の耳が、また赤くなった。
数字は、もう見えない。
だから私は、こっそり数えている。
今日は、これで十二回目。
(了)




