七日で七人が倒れた王城で、盗まれた処方録は読めなかった
雪が降り始めた朝、エメリア・ソレールの小屋の扉が蹴り開けられた。
「薬師はいるか!」
低い男の声と同時に、土間に人の重みが崩れ込む音がした。エメリアは薬研を置いた。
匂いはすでに届いていた。血の錆びた鉄臭。それから——草の香りに紛れた、かすかな酸の気配。
(毒だ。まだ新しい)
「板の間に置いて」
扉のそばで立っていた男が振り返った。褐色の肌、黒い短髪、外套の肩に騎士団の徽章が縫いつけてある。年の頃は三十に近いだろうか。目の下に薄い疲労の影があった。
男は素直に従った。倒れ込んだ兵士を板の間に横たえ、自分も膝をついてエメリアを見上げた。
エメリアは患者の首元に顔を近づけた。傷口の匂いをゆっくり嗅ぐ。甘い草の香りの下に、濁った気配が沈んでいる。辺境特有の山野草の毒だった。王都ではほとんど見ない。蔓延るものではないが、放置すれば心臓を侵す。
「いつ刺された」
「二時間前です。山道で賊に」
「毒入りの矢か」
「わかりません」
「わかりました」
エメリアは棚に向かった。壁一面の棚には小さな壺と袋が並んでいる。この半年で自分で詰めたものだった。手元は迷わなかった。目を閉じても手が先に動く——五年間、毎日薬草の匂いを嗅いで身体に覚え込ませてきた。
「抗毒草の煎液を作ります。少し待って」
男はひと言も口を挟まなかった。煎じる間も、解毒処置の間も、エメリアの手順に何も言わなかった。邪魔をしないために見ていた。そういう黙り方だとわかった。
普通は聞く。「本当に効くのか」「なぜそれを使う」「あなたは何者だ」。
でもこの男は黙って見ていた。
一時間後、兵士の顔色が戻り始めた。
「助かります」と男は言った。言い切りだった。礼を言うより先に事実を確認する人間の言い方だった。
「おそらく」とエメリアは答えた。「夜まで様子を見てください」
「ここに泊まっていいですか」
「どうぞ」
男は短くうなずいた。それから自分も板の間に座り込んだ。外套の雪を払う仕草が、疲れていながら几帳面だった。
「クァルト騎士団副長、アダン・フォールスです」
「エメリア・ソレール。薬草商をしています」
それだけで会話は終わった。
夜、兵士の容態が安定した後、アダンは初めて少し長く話した。
「この辺りの毒に詳しいのですか」
「詳しくなりました。来てから覚えました」
「前は」
エメリアは少し間を置いた。「王都にいました。別の仕事を」
アダンは何も続けなかった。聞いていいかどうか考えて、聞かないと決めた様子だった。
翌朝、雪の中を馬に乗って帰っていく二人を見送りながら、エメリアは小屋の匂いを確認した。薬草と雪と、赤毛の馬の体温が混ざった残り香。それが消えると、またいつもの朝に戻った。
(会うことはないだろう)
そう思ったのに、一週間後、アダンは薪を持ってきた。
エメリア・ソレールが亡き母の侍女リネアに薬草を習い始めたのは、十歳の春だった。
「あの白い花に触れていいよ」とリネアは言ったが、エメリアはすでに気づいていた。
(甘い匂いだ。でも、その下に何かある)
伸ばしかけた指が、器の縁で止まった。
リネアは目を見開いた。「なぜわかるの?」
「わかる」とエメリアは答えた。「臭う」
毒だった。見た目は愛らしい白い花だったが、根に微量の毒素を含む草だった。リネアが十年以上薬草師として働いて初めて覚えたことを、エメリアはその場で嗅ぎ分けた。
「あなたの鼻は、普通と違う」とリネアは言った。「大事にしなさい」
それがすべての始まりだった。
十七歳で宮廷薬師試験を受け、史上最年少で一等を取った。
同期の試験候補は二十三人いた。一等合格は三人だった。
翌年、クロード王太子との婚約が正式に結ばれた。伯爵家の令嬢としては破格の縁だった。父は何度も喜びを口にした。継母のジョリーは微笑みながら一言だけ言った。「よかったこと」。
その微笑みの意味も、後になって知った。
王宮薬師の仕事は、地味だった。
調合をする。記録をつける。翌日の薬を準備する。それだけだった。
だがその「それだけ」の中に、エメリアは五年間で三百四十七名分の記録を積み上げた。
処方録と呼ばれたそのノートには、誰が何の薬に過敏で、何の食材と反応するか、季節ごとに体調がどう変化するか、が書き込まれていた。略号と参照符号を使った独自の記法は、エメリア以外にはほとんど読めない形になっていた。
一冊が満杯になると次の冊を始めた。五年目には七冊になっていた。
二年目の秋、王族の晩餐会で使用人の一人が急に倒れた。エメリアは三秒で「貝と白ワインの反応です」と特定し、解毒薬を届けた。
侍医ハーヴィス・クラムはその場で首をかしげながら言った。
「なぜわかりました?」
「記録しています」とエメリアは答えた。「一年前に同じ反応が出ていましたから」
ハーヴィスはにこやかに笑った。「ご苦労なことです」
その目は笑っていなかった。
エメリアはその目の意味を——薬師に対する侮りではなく、脅威の認識だと気づいたのは、もっと後のことだった。
四年目の春、外国使節に出された薬膳で軽い発作が起きた。
エメリアが事前に「この使節の方は特定の根茎類との反応に気をつけてください」と上申していたが、晩餐担当の料理長には届いていなかった。
事後処置はエメリアが行い、使節は翌日には回復した。
料理長はエメリアに謝罪した。ハーヴィスは「薬師の仕事ではなく厨房の問題」と整理した。クロード王太子はそれで一件落着とした。
誰も処方録の六冊目に一行付け加えたエメリアの記録には触れなかった。
婚約破棄が告げられたのは、五年目の冬だった。
侍女が書簡を持ってきた。エメリアが処方録の更新作業をしているところに。
書簡を開いた。
「貴女との婚約を解消する。薬師の職も返上のこと。新任薬師の準備は整っている」
クロードは処方録の背表紙を一瞥して、それから目を逸らした。
「薬など女の気慰め遊びだ。五年も帳面をつけて、何が変わった」
それだけだった。
エメリアはしばらく書簡を見ていた。新任薬師の準備は整っている、という一行を読み返した。
(誰が、来るのだろう)
翌朝、廊下でドレアと顔を合わせた。
異母妹は十七歳になっていた。エメリアの六つ下だ。薄茶色の目が、ゆっくりとエメリアを見た。遠慮がちな笑顔ではなく、勝ち取った笑顔だった。
「おめでとうございます」とエメリアは言った。「あなたが次の薬師になるのですか」
ドレアは少しだけ目を瞠った。それからうなずいた。
「お姉様の処方録は、参考にさせていただきます」
参考。
エメリアはひと言も返さなかった。
廊下の突き当たりにある棚に目を向けた。七冊のノートが並んでいる。
持ち出せる荷物の量に限りはあった。処方録は重い。七冊を全部持つと、着替えを一枚も持てない。
でも、置いていくつもりはなかった。
翌朝、ドレアが書簡を届けてきた。
「処方録は王宮の備品として残置をお願いします」という内容だった。ハーヴィスの筆跡だった。
エメリアは七冊を鞄から出して、棚に戻した。
(写しがある)
携帯用の薄いノートに、三年分だけ転記してあった。省略せず、記号の意味まで書き込んだもの。持ち出せるのはそれだけだった。
部屋を出た。追放の馬車が待っていた。
馬車の中で窓の外を見ていた。雪が降っていた。何かが終わった、と思った。でも何が終わったのか、その時にはまだわからなかった。
アダンが次に来たのは、一週間後だった。
薪を持ってきた。怪我をした兵士の経過報告もした。兵士は回復していた。
「ありがとうございました」
「どうぞ。また何かあれば」
翌週も来た。また別の用件だった。「部下の一人が咳が長引いている」。薬を処方した。翌週も来た。「あの薬がよく効いた」。それだけ言って帰った。
四度目からは理由を言わなかった。薪を何束か持って来て、置いて帰った。
エメリアは何も聞かなかった。
聞かなかったのは、必要な気がしなかったからだ。アダンという人間は、する行動と言う言葉が一致していた。薪を持ってくる人間は薪を持ってくる理由があってそうする。それだけだった。
雪が深くなる頃、アダンは初めて処方録の話をした。
「一冊、見てもいいですか」
エメリアは驚いた顔を隠す間もなかった。
「なぜ」
「部下が持病を隠している。薬との相性を確認したい」
「なぜ私がそれを持っているとわかりましたか」
「村の人間から聞きました。追放された薬師が三年分の記録を持って来た、と」
エメリアは薄い携帯ノートを出した。
「これが持ってきたものの全てです。七冊ある処方録のうち、三年分だけを写したもの。五年分ではありません」
「五年分は」
「王宮に置いてきました」
アダンは何も言わなかった。エメリアはその沈黙を、責めているのではなく整理していると受け取った。
ノートを受け取ったアダンは、しばらく頁をめくった。「……読めない部分が多い」
「記号の説明は口頭でできます。部下の名前と症状を教えてください」
「抗痙攣薬と気温の問題でした。冬場に量を調整したい」
「冬は量を三割減らして、二日に一度に変えるといいかもしれません。暖かくなったら戻してください」
「ありがとうございます」
会話はそこで終わった。用件が終わると帰る。居座らない。またいつか来る。
エメリアはその訪問が嫌いではなかった。嫌いではない、という言い方しかまだできなかったが、窓から馬の足音が聞こえると、耳が少しだけ澄んだ。それは確かだった。
春になった頃、近在の商人が知らせを持ってきた。
「王宮の薬師に新しい方が入られて、大変なご活躍だそうですよ」
エメリアは薬草を刻みながら聞いた。
「そうですか」
「なんでも、処方録と申す記録帳をお持ちで。三百人以上の禁忌を把握しておられるとか。大した方だ」
包丁の動きが一瞬止まった。止まったのを誰にも気づかれないよう、次の一刻で動き直した。
「では、薬師として申し分ありませんね」
「ええ。王太子殿下のご婚約相手だそうで、大層華やかな話で——」
以後の言葉はあまり聞かなかった。
(七冊全部、使っているのか)
驚きはなかった。「参考にする」と言った。そのとおりにした。
ただ——処方録は七冊あって、後半の二冊には前半五冊にない記録が詰まっている。四年目の春の薬膳発作。五年目に集中して書いた根茎類の禁忌。それらは後半の処方録にある。
(後半二冊の記号を、ドレアは読めるだろうか)
読めない、と直感した。
処方録の記法は独自のものだった。薬師仲間でも頁を見せると「暗号みたいだ」と言われた。省略記号の意味を知らなければ、三百人分のリストは字面だけの羅列になる。
エメリアは薬草を刻み直した。包丁の角度を変えて、より細かく。細かく刻むと成分がより抽出されやすい。それだけのことだった。
夏の半ば、アダンが焚火の前で珍しく長い話をした。
「王都に姉がいる。昔から体が弱くて、侍医に恵まれなかった。十八の時に自分で薬の調合を覚えて、今は薬師として生計を立てている」
エメリアは焚火を見ながら聞いた。
「立派な方ですね」
「姉が言っていた。薬師の仕事は何年もかけて積み上げるものだ、と。一冊の記録帳を作るのに何年もかかる。でも積み上げた記録がいつか誰かの命を繋ぐ、と」
エメリアは炎の揺れを見た。
「そうだと思います」と言った。「そうだと、私も思います」
アダンは少し間を置いた。
「六ヶ月前に、あなたのノートを見せてもらいました。中身はほとんど読めなかった——記号の意味がわからないので。でも積み上げた年数の重さはわかった。三年分でその重さなら、七冊分はどれほどのものか」
エメリアは炎を見続けた。
「奪われた、とは言わないんですね」とアダンは言った。
エメリアは少し考えた。
「奪われた、と言えば簡単でした。でも正確ではない気がして」
「なぜ」
「私は自分で棚に戻しました。強制されたのは確かです。でも最後の手は私の手でした。次に使う人間のためでも、誰かへの善意でもなかったかもしれない。ただ——置いてきた事実は私のものです。奪われた話にすると、それまで変わってしまう気がする」
アダンはしばらく黙っていた。
「そうか」と言った。
「そうです」
火が小さくなって、二人とも何も言わなくなった。空に星が多かった。
秋の初め、商人が続けて二つの知らせを持ってきた。
一つは「王宮の晩餐会で、宰相閣下が急に体調を崩された」という話。
もう一つは「王太子殿下の新薬師が調合した解毒薬が、効かなかったらしい」という話。
エメリアは二つを聞いて、薬草の仕分けを止めなかった。
(効かなかった。なぜ)
宰相がどんな薬を飲んでいたか、エメリアは知っていた。三年前から。宰相は特定の根茎類との反応がある。それは後半の処方録に記録していた。
(ドレアは知らない)
三日後、商人がまた来た。「外国使節の方が倒れたそうで」
四日後。「近衛騎士の一人が——」
五日後。「宮廷女官が……」
七日目の朝、アダンが来た。顔色が違った。
「王太子殿下が倒れた」
エメリアは薬草から手を離した。
「重篤ですか」
「今のところは軽い。でも、倒れた人間が七人になった。薬師は解毒できていない」
「知っています」
「どうして」
「後半の処方録に書いてあったことが、私が写した三年分には入っていないからです。誰が何の根茎類に反応するか——五年目に集中して記録した禁忌が、抜けている」
アダンは口を挟まずに聞いていた。
「その記録を、王宮に持っていけますか」
エメリアは少し考えた。
「私が持っているのは、三年分を写したノートだけです。処方録は七冊とも王宮にあります。ドレアの手元に」
「ドレアが持っていても、読めないなら同じことです」
「そうです」とエメリアは言った。「読む技術がなければ、ないのと同じです」
処方録は薬師としての判断の積み重ねで作られている。ただ頁をめくっても使えない。記号の意味を、エメリアしか知らない。
王都から使者が来たのは翌朝だった。
国王からの書簡だった。「至急、王都に来られたし」という一行と、「処方録について確認したいことがある」という補足があった。
エメリアはその書簡をアダンに見せた。
「行きますか」とアダンは聞いた。
「行きます」
「何のために」
「解毒の方法を伝えるために。でも薬師として戻るつもりはありません。そのことだけははっきりさせておきたい」
アダンは短くうなずいた。「それでいい」
王都への三日間の道中で、エメリアは携帯ノートを繰った。
七人が倒れた順番、使われた薬の名称、宰相が体調を崩した晩餐のメニュー。全部の点が線になっていた。
根茎類の成分が調合された解毒薬に混入していた。後半二冊に記録した禁忌が、次々と踏み抜かれていた。
(意図的ではない。ドレアに七人を倒す動機はない。ただ——後半二冊の記号が読めなかった)
それが「参考」の限界だった、と今はわかった。
王城の審問室は石の壁に囲まれた薄暗い部屋だった。
テーブルの向こうに、国王と、ハーヴィスと、ドレアが座っていた。
エメリアが扉を開けた瞬間、ドレアの顔が変わった。目が少し広がった。来るとは思っていなかった顔だった。
ハーヴィスは表情を動かさなかった。老練な人間の顔だった。しかし手が、机の端をそっと掴んでいた。
エメリアは国王に礼をした。
「ソレール伯爵令嬢エメリアです。お召しに応じました」
「来てくれて感謝する」と国王は言った。「七人が倒れた原因を聞きたい」
「処方録の後半二冊に記録した禁忌が、解毒薬に反映されていなかったためです」
「その処方録は」
エメリアは手元の携帯ノートを置いた。「こちらが私の手元にある前半三年分です。後半二年分は、王宮に置いてきました」
国王はハーヴィスを見た。ハーヴィスはドレアを見た。ドレアは机を見た。
「ドレア・ソレール」と国王が言った。「処方録の後半二冊を」
ドレアは立ち上がった。「……持っています」
「なぜ解毒薬に反映されていなかった」
沈黙が落ちた。
ドレアの顔が、じわじわと崩れ始めた。唇が小さく動いて、止まった。
「記号の……意味が」
「解読できなかった、ということですか」
「……はい」
エメリアは机の向かいを静かに見た。ドレアはうつむいた。
「処方録は五年分でした」とエメリアは言った。「盗まれたことで、なくなるものでは——ありません」
部屋が静まり返った。
国王は一度目を閉じた。
ハーヴィス・クラムの転落は、地味だった。
審問室を出た後、石廊下で代理侍医に引き渡された。
廊下には白い秋の光が差していた。足音だけが響いた——ハーヴィスの革靴の音、代理侍医の短い靴の音、後ろに続く役人の硬い足音。三種類の重さが石の床を叩いた。
ハーヴィスは最初、背筋を伸ばして歩いた。五十年分の貫禄を落とすまいとする歩き方だった。だが廊下の途中で、右手が壁に触れた。壁に触れたのは一瞬だけで、すぐに離した。それでも冷たい石の感触は、彼の指に一呼吸分だけ残ったはずだ。
向かう先は侍医官舎ではない。拘置室だった。
エメリアはその背中を見ていた。五年前、「ご苦労なことです」と笑った侍医の背中。今は肩が、わずかに内側に折れていた。
ドレア・ソレールの転落は、静かだった。
国王の命で薬師の地位を剥奪された。王太子クロードとの婚約も、その場で破棄が言い渡された。
ドレアは声を上げなかった。泣くかと思ったが、立ったままだった。
エメリアはドレアの息の音を聞いていた。鼻から短く吸って、口から静かに吐く。それを繰り返していた。崩れないために呼吸を使っていた。
ドレアは椅子から立ち上がり、正面を向いたまま部屋を出ていった。背筋は真っ直ぐだった。誇りではない。ただ、崩れることを体が許さなかった。
廊下に出た途端、その呼吸が一度乱れた。それでも足は止まらなかった。
エメリアはそれを見届けた。憎しみはなかった。「参考にさせていただきます」と言ったドレアは、参考にして失敗した。処方録を盗んだ事実は消えない。でも十七歳の異母妹が何を恐れていたか——それを思うと、ただ重たかった。
クロード王太子の転落は、派手だった。
七人を倒した原因の一端が、王太子自身の判断にあることが明らかになった。前任薬師の処方録の引き継ぎ確認を行わずに新薬師を任命した、という手続き上の問題だった。
廷臣の前で陳謝する場が設けられた。
広間に臣下が集まり、王太子が陳謝文を読み上げた。
エメリアはその場にはいなかった。後でアダンから聞いた。
「王太子が頭を下げた。でも誰も顔を上げなかった」
「廷臣が」
「ひとりも」
エメリアはその光景を想像した。頭を下げた王太子と、動かない床の絨毯。
「薬など女の気慰め遊び」と言った言葉が、五年越しで戻ってきた。その言葉が、喉の奥で凍りついていた。
審問が終わり、国王から復職の打診があった。
エメリアは三秒考えた。
「辞退します」
「なぜか」
「すでに働いている場所があります」
国王は少し黙った。それからうなずいた。「そうか。わかった」
それだけで済んだ。
薬師室に処方録の後半二冊を届け、次の担当者への引き継ぎメモを書いた。記号の解読表も添えた。次の薬師が誰であれ、七冊が正しく使えるようにするためだった。
別の薬師に頼まれて、七人の患者の追加処置についても説明した。禁忌の根茎類さえ避ければ、どの患者も回復できる。三日で全員の顔色が戻るはずだった。
用が済むと、エメリアは王都を出た。
クァルトの薬草村に戻ったのは夕暮れ時だった。
空が橙色に染まる中、小屋の前にアダンが立っていた。今日は薪を持っていなかった。手ぶらで来た。
「早かった」と彼は言った。
「用が済んだので」
「復職は」
「しませんでした」
アダンは短くうなずいた。それからしばらく何も言わなかった。
空に早い星が出た頃、彼が口を開いた。
「聞いてもいいか」
「どうぞ」
「ここに留まる理由を」
エメリアは少し考えた。正直に答えようと思った。
「王宮は、仕事をする場所でした。でもここは、生きる場所になっています。何が違うのか——うまく言えませんが」
「違わなくてもいい」とアダンは言った。「理由がなくてもいい」
エメリアは彼を見た。
「いてくれると、助かる」と彼は続けた。不器用に、事実を述べるように。「部下が薬師を信頼し始めている。俺も——信頼している。それ以上の理由がもしあるなら、ゆっくり話したい。今日でなくてもいい」
エメリアは星を見た。
五年分の処方録を棚に戻した朝のことを、ふと思い出した。追放の馬車の窓から、雪を見ていた。何かが終わったと思った。その「何か」がまだ失われていなかったことを、今、初めて確認した気がした。
「今日でも、かまいません」と言ったら、アダンが少し目を見開いた。
エメリアは笑った。涙が一粒、頬を伝った。安堵と呼ぶしかないものだった。
「仕事の話は明日にします」とエメリアは言った。「今日は——お茶を出しましょうか」
「ぜひ」とアダンは言った。
扉を開けると、薬草の香りが流れ出た。一年分の、エメリアが積み上げた匂いだった。
歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
「薬など女の気慰め遊び」は、「積み重ねは、盗んだ者のものにはならない」というテーマを書いた一作です。エメリアが五年かけて作った処方録は、七冊そのままドレアの手に渡ってしまいました。でも七冊の知識と技術は、エメリアの体と思考に染み込んでいる。記録帳を失っても、彼女が失われるわけではない——そこに静かな逆転があると信じて書きました。
恋愛軸のアダンは、口数少ない実直な男として書きたかったのです。「薪を持ってくる」行動で愛情を表す人間。言葉より先に行動する人間が、エメリアのような観察眼の持ち主と向き合う場面は、言葉少なくても密度があると思っています。「それ以上の理由がもしあるなら、ゆっくり話したい」という台詞に、彼のすべてを込めました。
三者の転落は、それぞれに違う色で書きました。ハーヴィスは壁に手をつく老骨の崩れ方、ドレアは崩れたくても崩れられない背筋、クロードは廷臣の視線が誰もない孤独。ざまぁは大声でなく、静かに骨まで沁みる方が好きなので。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
・S01-P212「「お前の授業など絵本読み」——八年分の教え子が王立学院でことごとく首席になった件」【才能覚醒型】
・S01-P132「「代筆など代書屋と同じ」——六年分の書簡が消えて、誰も嘘を見破れなくなった件」【機能停止型】
・S01-P133「「数字が見えるなど気が狂っている」——七年分の記録を置いて令嬢が静かに去った件」【静かな離脱型】
・S01-P134「「看護など侍女の余分な仕事」——八年分の病床記録が燃えて、王妃が三度目の毒に倒れた件」【機能停止型】
・S01-P135「「帳面など紙切れ遊び」——七年分の取引控えを失って、侯爵家の密輸が暴かれた件」【ミステリ暴露型】
毎日19時、新作更新中!
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




