Discordとゲームで生きていた男が恋人を失って壊れていく話
午前一時四十分。
PCのファン音だけが、やけに大きく聞こえていた。
スマホの画面を伏せる。
見たくもないものを見たあと、人はたいてい画面を伏せる。
でも、本当に見たくないものは、たぶん画面の外側にある。
窓の向こうでは、雨が降るほどでもない湿った風が、ビルの隙間をゆっくり抜けていた。
大阪の夜は、眠らないというより、うまく眠れなくなった人間たちの集まりみたいだった。
彼女は今、別の男とゲームをしている。
ただそれだけの話だ。
誰も死んでいないし、世界は終わっていない。コンビニは開いているし、電車は明日も動く。
それなのに、胃の奥に鉛みたいなものが沈んでいた。
Discordの通知音が鳴る。
昔の同僚から連絡が来ることはない。通知のほとんどは、オンラインゲームのフレンドか、深夜に起きている誰かだった。
仕事を辞めてから、五年が経っていた。
最初の一年は休憩だった。
二年目は調整。
三年目から先は、よくわからない。
気づけば、季節はゲームの大型アップデートで判断するものになっていた。
ヘッドセットを外す。
途端に、世界から音が消える。
PCのファン音だけが回っていた。
人間は案外、簡単に社会から消える。
そしてもっと恐ろしいのは、消えたあとでも普通に生活できてしまうことだった。
大学を出たあと、東京の会社に入った。
社員数は二千人くらいの、特徴の薄い会社だった。
満員電車に乗って、パソコンを開いて、愛想笑いをしていれば、とりあえず社会は続いていった。
今まで彼女は五人いた。
一番短くて一年、長いと三年続いた。
終わるたびに、「今回は少し本気だった気がする」と思った。
でも次の恋愛が始まる頃には、その本気も古い映画のワンシーンみたいにぼやけていった。
会社を辞めてから、一ヶ月くらい経っていた。
十二月二十五日。
大阪の街は、付き合いたてのカップルか、諦めの悪いイルミネーションで溢れていた。
僕は高校時代からの友人と二人で、特に目的もなく梅田を歩いていた。
男二人で歩くクリスマスには、独特の静けさがある。
惨めというほどではない。
でも、何かの本編から外れてしまった人間の空気は漂う。
「腹減ったな」と友人が言った。
その時だった。
彼女は、たまたま前を通った。
運命、という言葉はあとからなら何にでも使える。
でも実際には、人生を変える瞬間ほど妙に生活感がある。
白いマフラーを巻いていたことだけを、僕はまだ覚えている。
彼女は、僕が思っていたよりよく笑う人だった。
付き合って三ヶ月くらい経った頃、昼夜逆転が少しだけ治った。
「昼の梅田って、人多すぎて酔うね」
そう言いながら彼女はタピオカを飲んでいた。
僕は甘いものが苦手だったけれど、その時間は嫌いじゃなかった。
人と一緒にいると、時間に輪郭が戻る。
朝になれば眠って、夕方に起きるだけだった生活に、「待ち合わせ」が発生する。
それは思っていたより、人間的なことだった。
変化は、たいてい静かに始まる。
だから最初の頃、僕はほとんど気づかなかった。
彼女の返信が少し遅くなった。
Discordの通話時間が短くなった。
一緒にゲームをしていても、「じゃあ今日はこのへんで」と言われる回数が増えた。
ただ、それだけだった。
人間関係が壊れる時、もっと決定的な何かが起きると思っていた。
映画みたいな裏切りとか、泣きながらの告白とか。
でも実際には、もっとWi‑Fiの接続不良に近い。
少しずつ声が途切れて、気づいた時には、もう会話になっていない。
三年も同棲していると、相手は恋人というより生活になる。
冷蔵庫の中身。
洗濯のタイミング。
コンビニで買うアイスの種類。
そういう細部に、その人は住みつく。
だから別れは、「愛が終わる」というより、生活の一部が静かに剥がれていく感覚に近かった。
別れたあとも、生活はしばらく彼女の形をしていた。
洗面所には、使わなくなったヘアオイルが残っていた。
冷蔵庫には、彼女しか飲まなかった豆乳が入っていた。
Steamを開けば、昔一緒に遊んでいたゲームがライブラリの上に表示される。
人は死んだあとにも痕跡を残すという。
恋愛も、たぶん少し似ている。
違うのは、相手がまだどこかで普通に生きていることだった。
僕はその頃、昼と夜の区別がほとんどなくなっていた。
眠くなれば寝て、起きればPCをつける。
空腹になればコンビニへ行き、からあげと1ℓのルイボスティーを買う。
それだけで、一日は終わった。
世界は驚くほど簡単に一人用へ戻る。
夜中の三時、ふと目が覚めた。
隣には誰もいない。
それ自体には、もう慣れていた。
ただ、彼女がいた頃の癖だけが身体に残っていた。
寝返りを打つ時、少しだけスペースを空けてしまう。
コンビニで新作のアイスを見ると、無意識に甘いものを選びそうになる。
人間は記憶で生きているというより、習慣で生きているのかもしれなかった。
Discordの通知音が鳴った。
画面を見る。
知らない名前だった。
「今からVALORANTできる人いますか?」
ただ、それだけのメッセージ。
僕はしばらく画面を見つめ、それから静かにDiscordを閉じた。
誰かと話す気力がなかったわけじゃない。
でも、自分がもう以前とは違う場所にいる気がしていた。
うまく説明はできない。
ただ、長い間水の中にいた人間が、急に陸へ戻れなくなるのと少し似ていた。
春になっていた。
気づけば、暖房をつける回数も減っていた。
コンビニへ向かう夜道の風も、冬ほど鋭くない。
彼女と別れて、半年が過ぎていた。
結局、人間は慣れる。
眠れない夜にも。
一人分の食器にも。
返ってこない通知にも。
Steamのライブラリには、もう何ヶ月も起動していないゲームが並んでいた。
一緒に遊ぶために落としたゲームだった。
でも、不思議とアンストする気にはならなかった。
僕はコーヒーを淹れて、PCの前に座る。
Discordを開く。
誰からの通知も来ていない。
静かな部屋だった。
それでも昔みたいな絶望は、もうそこにはなかった。
ただ、ときどき思い出す。
梅田の人混み。
白いマフラー。
深夜二時のファン音。
たぶんこれからも、完全には消えないのだと思う。
でもそれでいい、と、その頃には思えるようになっていた。




