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Discordとゲームで生きていた男が恋人を失って壊れていく話

作者: user_03
掲載日:2026/05/21

午前一時四十分。

PCのファン音だけが、やけに大きく聞こえていた。


スマホの画面を伏せる。

見たくもないものを見たあと、人はたいてい画面を伏せる。

でも、本当に見たくないものは、たぶん画面の外側にある。


窓の向こうでは、雨が降るほどでもない湿った風が、ビルの隙間をゆっくり抜けていた。

大阪の夜は、眠らないというより、うまく眠れなくなった人間たちの集まりみたいだった。


彼女は今、別の男とゲームをしている。


ただそれだけの話だ。

誰も死んでいないし、世界は終わっていない。コンビニは開いているし、電車は明日も動く。


それなのに、胃の奥に鉛みたいなものが沈んでいた。


Discordの通知音が鳴る。


昔の同僚から連絡が来ることはない。通知のほとんどは、オンラインゲームのフレンドか、深夜に起きている誰かだった。


仕事を辞めてから、五年が経っていた。


最初の一年は休憩だった。

二年目は調整。

三年目から先は、よくわからない。


気づけば、季節はゲームの大型アップデートで判断するものになっていた。


ヘッドセットを外す。

途端に、世界から音が消える。


PCのファン音だけが回っていた。


人間は案外、簡単に社会から消える。

そしてもっと恐ろしいのは、消えたあとでも普通に生活できてしまうことだった。


大学を出たあと、東京の会社に入った。

社員数は二千人くらいの、特徴の薄い会社だった。


満員電車に乗って、パソコンを開いて、愛想笑いをしていれば、とりあえず社会は続いていった。


今まで彼女は五人いた。

一番短くて一年、長いと三年続いた。


終わるたびに、「今回は少し本気だった気がする」と思った。

でも次の恋愛が始まる頃には、その本気も古い映画のワンシーンみたいにぼやけていった。


会社を辞めてから、一ヶ月くらい経っていた。


十二月二十五日。

大阪の街は、付き合いたてのカップルか、諦めの悪いイルミネーションで溢れていた。


僕は高校時代からの友人と二人で、特に目的もなく梅田を歩いていた。

男二人で歩くクリスマスには、独特の静けさがある。


惨めというほどではない。

でも、何かの本編から外れてしまった人間の空気は漂う。


「腹減ったな」と友人が言った。


その時だった。


彼女は、たまたま前を通った。


運命、という言葉はあとからなら何にでも使える。

でも実際には、人生を変える瞬間ほど妙に生活感がある。


白いマフラーを巻いていたことだけを、僕はまだ覚えている。


彼女は、僕が思っていたよりよく笑う人だった。


付き合って三ヶ月くらい経った頃、昼夜逆転が少しだけ治った。


「昼の梅田って、人多すぎて酔うね」


そう言いながら彼女はタピオカを飲んでいた。

僕は甘いものが苦手だったけれど、その時間は嫌いじゃなかった。


人と一緒にいると、時間に輪郭が戻る。


朝になれば眠って、夕方に起きるだけだった生活に、「待ち合わせ」が発生する。


それは思っていたより、人間的なことだった。


変化は、たいてい静かに始まる。


だから最初の頃、僕はほとんど気づかなかった。


彼女の返信が少し遅くなった。

Discordの通話時間が短くなった。

一緒にゲームをしていても、「じゃあ今日はこのへんで」と言われる回数が増えた。


ただ、それだけだった。


人間関係が壊れる時、もっと決定的な何かが起きると思っていた。

映画みたいな裏切りとか、泣きながらの告白とか。


でも実際には、もっとWi‑Fiの接続不良に近い。


少しずつ声が途切れて、気づいた時には、もう会話になっていない。


三年も同棲していると、相手は恋人というより生活になる。


冷蔵庫の中身。

洗濯のタイミング。

コンビニで買うアイスの種類。


そういう細部に、その人は住みつく。


だから別れは、「愛が終わる」というより、生活の一部が静かに剥がれていく感覚に近かった。


別れたあとも、生活はしばらく彼女の形をしていた。


洗面所には、使わなくなったヘアオイルが残っていた。

冷蔵庫には、彼女しか飲まなかった豆乳が入っていた。


Steamを開けば、昔一緒に遊んでいたゲームがライブラリの上に表示される。


人は死んだあとにも痕跡を残すという。

恋愛も、たぶん少し似ている。


違うのは、相手がまだどこかで普通に生きていることだった。


僕はその頃、昼と夜の区別がほとんどなくなっていた。


眠くなれば寝て、起きればPCをつける。

空腹になればコンビニへ行き、からあげと1ℓのルイボスティーを買う。


それだけで、一日は終わった。


世界は驚くほど簡単に一人用へ戻る。


夜中の三時、ふと目が覚めた。


隣には誰もいない。


それ自体には、もう慣れていた。


ただ、彼女がいた頃の癖だけが身体に残っていた。


寝返りを打つ時、少しだけスペースを空けてしまう。

コンビニで新作のアイスを見ると、無意識に甘いものを選びそうになる。


人間は記憶で生きているというより、習慣で生きているのかもしれなかった。


Discordの通知音が鳴った。


画面を見る。


知らない名前だった。


「今からVALORANTできる人いますか?」


ただ、それだけのメッセージ。


僕はしばらく画面を見つめ、それから静かにDiscordを閉じた。


誰かと話す気力がなかったわけじゃない。


でも、自分がもう以前とは違う場所にいる気がしていた。


うまく説明はできない。


ただ、長い間水の中にいた人間が、急に陸へ戻れなくなるのと少し似ていた。


春になっていた。


気づけば、暖房をつける回数も減っていた。

コンビニへ向かう夜道の風も、冬ほど鋭くない。


彼女と別れて、半年が過ぎていた。


結局、人間は慣れる。


眠れない夜にも。

一人分の食器にも。

返ってこない通知にも。


Steamのライブラリには、もう何ヶ月も起動していないゲームが並んでいた。

一緒に遊ぶために落としたゲームだった。


でも、不思議とアンストする気にはならなかった。


僕はコーヒーを淹れて、PCの前に座る。


Discordを開く。

誰からの通知も来ていない。


静かな部屋だった。


それでも昔みたいな絶望は、もうそこにはなかった。


ただ、ときどき思い出す。

梅田の人混み。

白いマフラー。

深夜二時のファン音。


たぶんこれからも、完全には消えないのだと思う。


でもそれでいい、と、その頃には思えるようになっていた。

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