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夏の日

作者: 一威/零壱
掲載日:2026/04/26





 年老いた男は手を翳し、木々の隙間から真昼の空を見上げた。

 山の中腹だと言うのに太陽の日差しが強い。

 持参した水筒を傾けて喉を潤してから、目の前の墓石に視線を戻す。


「久しぶり」


 返らない応えに構わず、よっこいしょ、と長年椅子代わりにしている岩へ腰を下ろした。


「此処に来るのに、今日は随分と時間が掛かったよ。もうすっかり爺だ」


 手拭いで額の汗を払いながら小さく笑う。

 若い頃は難なく辿り着けたが、今日は一時間以上掛かった。

 年々月命日に訪れる事も難しくなり、十年前からは一年に一度、背中を見送った日にどうにか山を登って来るようになっていた。

 彼から貰った守り袋だけが入る墓。

 墓標は男が刻んだ。

 不格好で、歪な形の大岩だ。

 苔の生えたそれを、繰り返し撫でる。

 彼との時間を誰にも邪魔されたくなくて、山の中に建ててしまった。

 歳を重ねて思う様に手足が動かなくなって来ると、ほんの少し、失敗したなと思う。


「毎月来れなくて済まないね」


 寂しがり屋の彼は拗ねているだろうか。

 どうにも膝が痛くてねぇ、と男は再び笑い、墓標をなぞる。


「……妻は春前に逝ってしまったけど、三人目の孫が産まれたよ」


 何度も何度も、繰り返し見た悪夢。

 仲間達や異国の男達の叫びと、咽せ返る程の錆と硝煙の匂い。

 肉が腐り、木々が焼ける中、轟音におかしくなった耳で必死に彼の声を探した日々。彼を失い仲間を失い、絶望し抜け殻になった男に寄り添い、長年支えてくれた妻は眠るように先に逝ってしまった。

 二人の息子と一人の娘達は一緒に住もうと何度も言ってくれているが、その度に丁寧に断っている。


「東京は、遠いから」


 何十年も続けていた習慣を、走馬灯のように思い出す。

 毎月決まった日に妻に見送られて山へと入り、暫く語らってから戻った。

 その途中に山の実りを籠に入れて、妻の好物の木通を採った。

 渡す度、くしゃりと泣きそうな顔で笑う妻。

 起き上がれなくなった彼女に寄り添うと、あなたを置いて逝った不義理な男は私が叱っておきますからと胸を叩く。

 強く、笑顔の絶えない人だった。


「彼女がいない毎日は、覚悟していたより随分と寂しいよ」


 ───生きろ。


 朧げになり、今ではすっかり影になってしまった彼の顔。

 それでも、最期の声だけは鮮明に覚えている。


 ───おまえは、生きろ。幸せになれ。


 但し男は駄目だぞ、なんて笑い。

 たったの一度、それも瞬きの間だけ。

 その腕に包まれた瞬間に、共に逝きたかった。

 生きろと繰り返した彼は、月や星、そして空や海になった。

 骨のひとつも、遺らなかった。

 その後に迎えた終わりの夏の日。

 あの日の慟哭を忘れる事は、ないけれど。


「幸せだった」


 妻を幸せに出来たかはわからない。

 だが、妻のおかげで男は幸せだった。


「幸せに、なれたんだよ」


 ゆっくりと腰を上げた。

 もう一度名前をなぞる。


「妻もね、膝が悪いんだ」


 だから迎えは頼んだよ。


 いつもは離れ難く、一歩二歩進んでは足を止めて振り返っていたけれど、今年は振り返らない。

 山を降りる。

 次は来られないかもしれないなと、瞼を伏せる。


 かつての恋人と妻を想った。


 暑い、暑い夏の日の事だ。




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