第8回
●岩 場
問題の岩場は思っていたほど遠くはなかった。振り返れば、自分たちの出てきた防砂壁の門の上についた風車がかすかに白く光って見える。一番大きな岩に登れば、もっとよく見えるだろう。
「砂で隠れて見えないけど、岩盤がかなり露出しているから気をつけ――あ」
注意されたそばから靴先を引っかけてつまずいてしまう。
笑顔でつかまるようにと手を差し出した彩煉の目的の岩は、幻聖宮に背を向けるように半円を描いたもののようだった。
数多く突出した岩のほとんどが人の背丈ほどだというのにそれは抜きん出て大きく、はるかに巨大だ。
長く埋もれ、隠されていたためか、砂に研磨されて尖角はほとんどないが、凹凸が激しく、複雑な隆起をしている。
まるでいくつか岩を持ち寄って、溶接したみたいだ。瘤のようにも見える。
人でいえば右肩にあたるところで突然岩質が変わり、首でまた元に戻っている。想像力を働かせて見れば、全身まだらの鳥が背を向け、翼を広げているようにも見えた。
下半身を砂に埋もれさせ、天を渡る鳥たちを羨望の眼差しで見上げる岩の鳥だ。大地にからめ取られた半身は地に溶け、その身は二度と自由に空を翔けることはない。
あきらめきれずに羽根を広げてみるのだが、崩れきった風切り羽根は穴となって虚しく風の音を奏でるのみ……。
見る者の胸をしめつける、孤独な、そして孤高めいた姿である。
ただしそれは、それだけのロマンチシズムの持ち主であれば、の話だが。
夢を現実に持ちこんだところで腹はいかほどもふくれない。大切なのは、それがどう生かせるかという観察力だ。
そう思う傾向の強いレンは、むしろその岩陰の出来に、これなら鳥が渡る際に羽根を休めることができそうだ、とか、砂嵐があっても沈まずこのままずっと露出していれば、いずれ停留してくれる鳥が現れて、その羽根で運ばれてきた植物の種が瘤の所で根付くかもしれない、とか考えながら登る。
おそらく、それは前を行く彩煉も同じだろう。油断なく周囲に気を配るかたわらで、陰に目を止める時間が少し長い。
彩煉は特にこういった、自然がありのままにある姿が好きだから、もしかすると自分は彼に感化されたのかもしれない。
そんなことを思ってほほえましく彩煉を見つめながら、レンは彩煉の誘導によって岩を乗り越え、鳥の胸にあたる岩の曲線部に回りこんだ。
「やっぱり横穴があるな」
岩から下りて、初めて眉をしかめて彩煉がつぶやく。
向かって左寄り。今いる位置からだとちょうど正面に位置する所だ。入りロからすぐカーブになっているのか、内部はまるで見えない。
きっと封師たちもこれを見つけたに違いない。
「きみはここで待ってて……と言っても無駄だろうね」
苦笑しながら一応訊いてくる。当然だと頷くレンに、それ以上彩煉は何も言わなかった。
用意しておいた簡易たいまつに火を入れる。その彩煉の肩越しに横穴のほうへと視線を流して、突如レンは身震いを感じた。
「どうかした?」
敏感にそれを感じとった彩煉が問う。
「う、ううん、べつに……」
はたしてどう形容すればいいのか。分からずに首を振ってそう返した。
瞬間的で、そしてしこりとしていつまでも残ることもない感覚だったからだ。
背筋を駆け抜けた悪寒、というのかもしれない。体熱が、ほんの一瞬だけ奪われたような感じだ。
今となっては本当にあったかどうかもよく分からない。
この岩肌に、空気伝染する病原体か何かが付着していたのか……。
そう考えた直後、あり得ないことを考えた、とすぐ頭を振る。
大体、この岩が地上に現れて1週間だ。そんな大層なものがあったらとうに空気中に放出されている。
どうせ夏風邪のひき始めだろう。早々に結論づけて、レンはそれ以上そのことについて考えることをやめた。たいまつを手に、岩穴に向かって歩き出した彩煉の後ろをついていく。
もし。
もし、これから始まる出来事――それによる悲劇を嗅ぎ取れていたなら、レンは入らなかっただろうか? それでも、入っただろうか。
はたしてこのとき感じたものは何か。
それは予感だ、と言う者も数多くいるだろう。彼女を待ち構える、苛酷な未来からの警告。
分からない。
だが、あれは確かにレンが数多くある運命の道から1つを選択し、そしてその始まりを告げるものだったのだ。
◆◆◆
横穴に入った直後、まず、変なにおいが鼻をついた。
妙に甘ったるい、饐えたにおい。それが生ぬるい空気中によどんでいる。
たいまつを揺らす風がないことからみて、どこにも空気が吹きこむ横穴は開いてないようだ。だからこのにおいも外部へ漏れてないのだろう。
マントの端で鼻と口を覆って、少しでも嗅がずにすむようにしたが、その努力もむなしく、ゆるやかに下降する、奥へ行くにつれてにおいはきつくなった。
まだこの岩が砂に沈む以前に持ちこまれてあった物が、どうにかなってにおっているのか……刺激臭ではないが、腐臭に近い気がしたので、肉食獣の体臭かとも思えたけれど、こんな場にそんな生き物がいるはずもない。どちらかといえば前者だろう。
だが、そのどちらにしても到底心地よいとは言えないものであるのは変わりない。
これを気に入るのは死肉を好んでついばむ猛禽類、そして死者と生者の区別もつかない妖鬼や魎鬼といった類いぐらいか。
どうやら彩煉にも嗅ぎ覚えはないらしい。レンが訊いてみても、その返答はあまり要領を得たものではなかった。
「魅魎の気配は? しないみたいだけど」
習ってはいるものの、実際には1度も対面したことのない存在の気配を感じ取るのは不可能だ。
前を歩く彼を脇から盗み見るようにして訊く、その声は恥ずかしそうに遠慮がちなものとなった。
「うん、ないね。
でも用心するに越したことはないから離れちゃいけないよ。いいね?」
彩煉の言葉は、どこにいるとも知れないだれかの存在を気にしてひそめられている。その声に、今までにはなかった緊張が含まれている。
ここで何かが起こっているのは確からしい。周囲の闇にひそむ何かを警戒し、一歩ずつ、余計な足音をできるだけたてないよう、注意を払いながら進む。
互いに無言のまま、かなり下に向かったが、やはり冷気は一切なかった。地下水脈を避けているように、岩に湿り気はない。昨夜の雨も、この固い岩の内部まではしみこんでこれなかったようである。乾いた岩肌は紙やすりの粉のようにザラザラした細かな砂にまみれ、何かしらの音を求める耳がかすかに拾ったのは、どこかで砂の落ちる音だけだ。
「おかしいな」
ぽつり、彩煉が独り言をこぼした。
「えっ? どうかしたの?」
考えこむように足を止めた彩煉は、さらに深刻度を増した目をレンへと向けた。
「火の気配がこの奥にある。おそらく僕たちより先に来た封師の物だと思うんだけど、その封師たちの気配がないんだ」
彼は火炎系の魔断なので、火には敏感なのだろう。
あいにくレンには火の存在を感じることはできなかったが、人のいる気配がないことはさとれた。
何も動く気配がない。
「……もしかしたら、帰ったのかもしれないわ。こことは別に出入り口があって、そこから出たとか」
そう言った直後、全く説得力のない言葉を口にしたと恥じる。これは、単なる希望にすぎないと。
暗闇の中で、火を置いていく者などいるはずがない。
自分は、一番大きな可能性――魅魎にやられたという可能性を、否定したいだけだったにすぎない。
おびえによって可能性の幅を狭める、そんな弱さはこれから退魔師になろうとする者にとって不要なものだ。むしろ命とりにすらなり得る危険なもの。
彩煉は口に出してとがめようとはしなかったし、顔にも出さなかったが、そのかわりにこう言った。
「なんだか嫌な予感がするんだ。心配症な撲の思い違いならいいけど、でも、万一ってこともあるから。
きみは戻って、外で待っていてくれないか?」
「彩煉!」
「……じゃあ、せめてここにいてくれ」
時間を惜しむ彩煉の妥協を求める提案に、声にして返事はできなかった。
感情ではついて行きたいが、先の自分の甘えが軽い負い目になって胸に残っている。
「これを」
沈黙を了承ととった彩煉がたいまつをレンの手に移す。
「いいね? 絶対ここから先に来ちゃだめだよ。せめて僕が呼ぶまでは」
レンの性格を把握しきっている彼は背を向けがてら最後にもう一度念を押して頷かせる。そして、それを確認したあと、まるでここを隅々まで熟知しているかのようにすたすたとそちらへ歩いて行った。




