第25回
●翠珂とレン
「あの、どうかしたんですか?」
突然至近距離から覗きこんできたレンに問われて、急ぎ翠珂は現実へと意識を向けた。
「え? 何が?」
レンの指は、翠珂の膝の上に乗った手を指している。
昨日、出立先からリオンが送ってきてくれた見舞い用の果物をむいてあげている途中だったことを思い出して、苦笑しながら翠珂は止まっていた手を動かし始めた。
「ああ、ごめん。ちょっと考えごとをしてたんだ」
流暢な彼の言葉以上によどむことなくするするするっとむかれ、膝に敷いた紙の上でとぐろを巻く皮を、感心した目で見つめる。
「上手ですね」
つい、口をついて出た言葉がそのまま自分の不器用さを物語っていることに気付いて、レンは口元に手をあてた。この失言の意味に気付かれてやしないかと、そっとうかがった翠珂は、今度は黙々と果物を8つに切り分けている。どうやらバレてはいないらしい。そう思う間も翠珂の手は動くことをやめず、食べやすいように小切りにしたそれを皿に並べてレンの手元へ置いた。
「さあ、どうぞ」
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。おかげで僕もめったに食べられないごちそうにありつけてるからね。これくらいはしなくちゃ」
にっこり笑い、枕元の棚の上に置いてあった果物の山の上から1つ取ってそのままかじりつく。笑気を誘う翠珂のその仕草についつい笑って、いただきます、とレンも皿の上の果物に手を出した。
「何かあったんですか?」
甘い汁気を含んだ果肉を噛みくずしながら問う。
「なぜ?」
「だって、最近、おちつかれないでしょう? 本を読まれている途中にも、考えこまれたりして、よく他方へ気を飛ばしてられるみたいですし……何か、気にかかることでもあるのかと……。
この2カ月半近く、ご厚意に甘えてすっかりお世話になってしまって。でも私も、もう大分よくなりましたし、ご迷惑ならこれ以上は――」
「迷惑? どうして?」
言葉尻をさえぎって翠珂が問う。
全然そんなことは感じてないという顔を向けられると、それ以上レンも言えなかった。
もともとこういうことは正面からは訊きづらいことだし、それに、翠珂がそう思う人でないことも分かっている。彼は、本当にしたいから、してくれているんだろう。
ただ、彼の気持ちと彼の置かれている状況は必ずしも一致してはいないと思うと、やはり気になってしまうのだ。
自分が迷惑をかけているのは事実だし、こうして回復した以上、いつまでも彼の自由を妨げて自分の側へしばりつけておくのは、わがままだ……。
「でもほんと、ずいぶん良くなったね」
まるで自分のことのように嬉しそうに見てくる彼に、レンも笑顔をつくろって顔を上げた。
「あ、はい。清華薬事長も、治りが早いと喜んでくださいました。やっぱり若いからだろうって。足や腕の骨もちゃんとくっついて、ときどき小さな痛みを感じることがありますが、問題なく動かせています。
何もかもあなたのおかげです。いろいろとありがとうございました」
深々と頭を下げる。
「大げさだな、レンは。照れるからやめて」
と軽く口走ったあと、不意に沈黙した翠珂に違和感を感じながら面を上げたレンは、彼の愁眉を寄せた目が自分の右肘から手首にかけて走る引き攣った傷跡に向いていることに気付いて、さっと袖を下して隠した。
「痕、残るそうだね……」
「……胸と、太股のも、少し……。
でも、これだけですんで本当に幸運でした。あんまり酷かったりすると、闇が残ったりするんでしょう? 後遺症が出て、何年も苦しんだりとか。
でも私は痕だけです。それも全然目立たないところで……胸や太股なんて、めったに他人には見せませんよ」
笑って見せる。こんなの、なんでもないことだと。同情する気持ちなど起きないように、完壁に。
この笑顔だけだと、レンは思った。2カ月半かけて身につけたもので役に立つのは、これだけ。
この人に安心してもらえるように、それだけを願って浮かべる。
「そういえば、歩く訓練もしてるんだって? 清華から聞いたときはびっくりしたよ。僕に内緒にするなんて、ずるいな。
一体いつから?」
「もうばれたんですか? やだな、走る姿を見せて、驚かそうと思ってたのに」
「あれ? そう? じゃあ楽しみにしておこうか。今度練習につきあわせてもらおうと思ったんだけど。
でも、じゃあ早くね。うずうずして、待ちきれないから」
「努力します」
くすくすくす。2人して、子どもの内緒話のようにいたずらっぼく笑いあった。
壁に備えつけた彼用の小さなテーブルと椅子に戻って、読みかけで伏せてあった本を開いた翠珂の、若草色の髪をしげしげと見つめる。
光波系の魔断は虹色の光のいずれかをまとう。翠珂は緑だ。その、身にまとった色と同じ、春の日だまりのように穏やかであたたかい人だと、あらためて思った。
2カ月半で築かれた、確かな愛情と信頼という絆。
翠珂のことを思うと、優しい気持ちになれた。長年の親友の彩煉を失いながら、その原因である自分を一切責めず、それどころかこうして気遣って、献身的につくしてくれる。あの日のことを詳しく話そうとしない自分をせっついたり、問い詰めたりするどころか、訊いてこようともしない。
これが彩煉を殺した敵について知りたいがための、みせかけだけのものであるなら彼女には直感で感じとれた。そういう勘には自信がある。でも、この人は違う。
この人は、全信頼を寄せるに値する人。
それだけに、なおさらレンは話せなかった。
もう頼れるのはこの人しかいないのだという思いが、のどをふさいで胃に重いものをためる。
嫌われたくなかった。この人にまで愛想をつかされたりしたら、一体どうやってあの恐怖を乗り越えればいいのか見当もつかない。
彩煉を失った恐怖。彼が血に染まるあの凄絶な光景は強烈な存在感となって今もまぶたの闇に焼きついていた。
まるでつい昨日起きた出来事めいたその鮮明な記憶による、身も心も凍りつくような喪失感は毎夜必ず訪れる。気を抜けば、昼間でも襲ってきた。
おまえを愛する者はもういないのだと、憫笑を伴って。
『二度と現れやしないさ。だって、そうだろう? おまえは自分で殺しちまったじゃないか。大切なものを自分の手で砕いちまった。気付いてないならいざしらず、知ってたくせに。いい気になって、調子にのってさ。
同じことがまた起きないってどうして言える? そんなぶっそうなやつはほかの者が迷惑する。
独りでいりゃいいのさ。
ああ、ああ、むごいねえ。あんなに心にかけておきながら、こんな裏切られ方をするなんてねえ』
(…………ッ……!)
「? レン、どうしたの。どこか痛い? 薬はちゃんと飲んだよね?」
身を強張らせ、唇を噛みしめているレンに気付いた翠珂が、急ぎ枕元に駆けつけ、手を差し伸べた。
シーツをつかんだ手の甲が濡れていることで、ようやく自分が泣いていることに気付いたレンが、それを確かめるように目に指をあて、翠珂の追及を逃れようとする。
「何でもないです」そう答える自分の言葉が、とても頼りなげに聞こえた。さっきまでは自信のあった笑顔も、今は中途半端な仮面に思える。
へたなごまかしだ、納得してもらえるはずもない。焼けつくような熱が胸から全身にじわじわと広がってゆく。
「だい、じょうぶ……何でもないんです、ほんとに。
あなたやみんなにこんなに気にかけてもらえて、私って、恵まれてるんだなって思ったら……嬉しくて、それで、涙が出たんです。嬉し泣きです、どうか気にしないで…。
ほら、もう止まりました」
心配をかけまいと懸命に笑うレンの姿に、翠珂はそれ以上追及することをやめた。
沈黙のあと、いつになく真剣な声を発する。
「ねえレン。きみは退魔師になる気はないと、以前蒼駕元補佐長に言ったけど、その気は今も変わらないの?」
問いを耳にした瞬間、面をつくろおうとするよりも早く体がびくりと反応する。
これは、レンの失敗だった。
こうも敏感に反応しては、ごまかすこともできない。
「……翠珂。甘えだとは分かってるんです。退魔師になることを渇望しながら夢で終わる人たちがいることを本当に理解していたら、とても口にできない言葉だと……。
でも、でも私は――」
「僕とではだめかな?」
「翠珂!?」
あまりの驚きに息を呑み、目を瞠る。
翠珂は彼女があまり深刻に受け止めることを望まないように微笑して、言葉を継いだ。
「あいつを失ったきみがそう思うのは当然だよ。それに、感応ばかりはしたいと思ってできるものじゃないから、僕がきみの魔断になりたいと言ったところでできないかもしれない。僕では彩煉のかわりにはなれないのも分かってるし、あいつといるときのような安らぎをきみに与えるのは無理だと思う。
でもね、きみを独りにしないで、ずっと側にいることくらいはできるよ。きみがだれかの手を必要としたとき、そばにいて、支えてあげられる」
きみが再びだれかを愛して、この手を必要としなくなるときまで。
「きみが感応式に参加して、やっぱりどの魔断とも感応できず、きみの魔断はあいつだけだったと確認する結果に終わったとしても、僕はきみと一緒に宮を出たいと考えている」




