第19回
「レン?」
うつむいたレンの唇が震えていることに気付いて、翠珂は驚く。
「触れられ、なかった……」
かすれ、ひび割れた、声にならない声でレンはつぶやいた。
それは現実世界でも同じで、翠珂は急ぎサイドテーブルに置いてあった布を取り、水を染みこませ、拭くようにして、乾いてひび割れた唇をなぞる。
閉じたまぶたの下からあふれて次々と伝う涙が潤滑油となったように、彼女は苦し気な息をもらして、ずっとせき止められていた言葉を吐き出した。
「……彩煉を、殺した……あいつ。殺してやるって、言ったのに。剣先で、触れることも、できなかった……!」
「レン……」
そっと、目許をおおった両腕をはずさせる。
止めようのない涙に濡れそぼった瞳が正気の光を放ち、間違いなく自分を映していることを確かめて、翠珂は彼女を胸に強く抱き寄せた。
腕の中で鳴咽をもらす彼女の細い指を背に感じて目を閉じる。
彼女は慰めの言葉など欲していない。
そうと悟った翠珂は、しがみつこうとする弱々しい力を補うように、ただ黙って抱きしめてやる。
そうやって、ずっと彼女の内にあった思いを、受け止めてやったのだった。
●前 兆
レンが昏睡より目を覚ましてはや2カ月。少しずつだが、彼女の体は回復へと向かっていっていた。
彼女が目覚めたことにより体の中の負の瘴気も賦活して、あらためて面会謝絶の札がかけられたが、それも今では外されている。
「あのまま、死んじゃうかと思ったんだから……!」
泣き怒ったものの、最後にはレンを抱きしめ、嬉しそうな笑顔を見せてリオンは出立し、リジーもまた、そのあとを追うように出立していった。
まだ出立には日のあるクリスとミシェルは喜々とした顔で時間を作っては毎日彼女の部屋を訪れている。
もし彼女たちが現れたとき寝ていようものなら、また目覚めないのではと疑った彼女たちに顔を引っ張って強引に目を覚まさせられるため、レンは必ず昼間は起きていなければいけなかった。
満身創震でただひたすら寝台に横になっていなければならない身にとって、それは厄介でもあり、心待ちなひとときでもある。
まだ心から笑顔になることはできないけれど、それでも、二度と死を望むことはできないのだと、レンはさとっていた。
彩煉のいない世界で生きること。それは彼女たちの心配するとおり、自分にとって何よりも恐ろしく受け入れがたい苦痛ではあるけれど、一方で、それが最も自分にふさわしい罰に思えたからだ。
死ぬことが罰ではない。それは解放と逃避でしかない。
あの人のもとへ行くこともできず、この永遠に消えない喪失感と絶望、罪悪感を胸に生きるのが自分に課せられた一番の罰なのだ――そう言ったなら、きっとこの人は「ばかなことを言うんじゃない!」と本気で怒り出すのだろうな、と。そんなことを想像しながら、レンはサイドテーブルに薬を用意する翠珂へと目を移した。
痛み止めに解熱剤、化膿止めに栄養剤に、薬事長から説明を受けたけれど1つも頭に入らなかった効能の内服薬が5つ。それが小袋に分けられて、点滴の替えの袋と一緒にどっかり机上を占領している。
机上を見るたび、これだけ薬潰けの毎日でよく死なないものだと彼女自身感心していた。
「はい飲んで」
水の入ったコップと一緒に差し出されたそれを、気のりのしないまま受け取って膝の上に置いた。
「飲まなくちゃいけません?」
つい、愛想笑いで顔色をうかがってしまう。
「当然だよ。早く良くなりたいならね。
そのままだとお尻から根が生えて、寝台から出たくても出れなくなったあげく、ぶくぶくっと太っちゃうよ。レンは太りやすい体質みたいだしね。今もその寝着見てると窮屈っぽいみたいだし。
それこそ服をぜーんぶ買い替えないといけなくなっちゃうかもね。そうなったら大変だ」
からかう口調でなかなか痛いところをつかれ、嫌そうに眉をひそめたものの、レンは黙って薬を口に含んだ。それを見て、
「よし」
と満足そうににっこり笑う。
次に何を言われるか、とうに承知しているレンは、コップを返した早々もぞもぞとベッドにもぐりこむ。そうして二の腕の影からそっと、足元の椅子に腰を下ろした翠珂の様子をうかがった。
「なに?」
読みかけで伏せてあった本に手を伸ばしていた翠珂は、視線に気付いてその動きを止める。
なんでもない、との意を視線に織りこんで首を振って返すと、レンは目を閉じた。
独りになることを怖がるレンの心の内を察するかのように、目を覚まして以来、翠珂は西方の警備を夜間に変えて、昼間はこうしてつき添ってくれるようになった。
浅い眠りから目覚めるたび、彼の気配を身近に感じて安心し、ほっとするとともに申しわけなさを感じて胸がじくじくとうずく。
自分の意志を尊重してくれて、口にしたりせかしたりしてこないけれど、彼があの魅魔について詳しく知りたがっているのは分かっている。
でも、思いだせないのだ。
ごまかしだとか、彼を傷つけたくないとかでなく、本当に、あのときのことはよく思いだせなかった。
みんなの思うとおり、思いだしたくないのかもしれない。
あの岩場での出来事を振り返るたび、徐々に頭の中が空白化していく。胸がどきどきして、息苦しくて、手足が冷たくなっていく。
彩煉の死の瞬間でそれは最高に達し、今度は反対に脈が遅くなりはじめる。うなじのところから冷たい痺れが起きて、背骨を伝い降り、腰のところでたまってゆく。
あきらかな拒絶反応。事情を聞きに訪れた補佐長たちも、珠璃薬事長から説明を受けて、しかたないと引き下がってはくれたけれど……。
部分部分で途切れた記憶。
魅魔……柊といったか、あいつに向かって破魔の剣で切りつけたことは覚えている。だが剣を赤く染めているのは己から流れ出た血のみで、その身にかすらせることもできないでいた悔しさは、今も思いだせる。
いつの間に、気を失ったのか。
柊が、何かを言った気がする。嘲笑するように自分を見下ろして……何かを言った。
さっき飲んだ薬の効果が出始めたか、ぼんやりし始めた頭でうとうとしだしたときだ。ノック音がして、さっと翠珂がそちらへ行く。ドアが開いた。
人の入ってくる気配を感じて薄目を開ける。その人が元執務補佐長の蒼駕と知って、一気に目が覚めた。
あわてて身を起こし、居住まいを正そうとする。
「ああいいから。楽にして。そんな、きみに無理をさせるつもりできたわけじゃないんだ」
「いえ、大丈夫です。ついさっきまで起きていて……睡眠導入剤も飲みましたけど、あまり眠気がこないんです。寝すぎなんですね、きっと。
本当に大丈夫ですから、どうぞ」
横に回りこんで、背中にクッションをあてがってくれた翠珂に礼を言う。
蒼駕は彼女の面を覗きこみ、顔色をうかがってそれが本当であると確かめると、翠珂が持ってきた椅子に腰かけた。
「具合はどう?」
「あ、はい……。大分いいです。最近は熱も出なくなって。なかなか消えてくれなかった鼓膜の痺れと耳鳴りもとれましたし……吐き気のほうも、どうにかおさまりました。瘴気もほとんど体から抜けているそうです」
「そう。それは良かった」
ほっと、詰めていた息を解く。
その姿には、心底から彼女を心配する気持ちがこもっているのが感じ取れて……レンは、目を伏せることで視線を合わせることを避けた。
彩煉をあの岩場に向かわせたこの人を、憎んだこともあった。
彩煉の性格を考えれば、自分から望んで行ったのは分かりきっているのに。この人にまで責任を負わせることで自分の罪を軽くしようとした。
その弱さが、今は情けない。
「どうかした?」
黙りこんでしまったレンになんらかを感じた蒼駕が問う。
レンは首を振り、黙したままサイドテーブルの引き出しから魔導杖を取り出すと、彼に差し出した。
「お返しします。もう少し、見苦しくない程度に身を整えることができてからお伺いしようと思っていたんですけれど、今がいい機会と思いますので」




