第1回
●レ ン
ずっと、もうずっと長い間泣いていた。
のどの奥が擦り切れて、血の味が広がっている。大声で泣いていたため口の中も砂でざらざらしているし、こすりすぎた目許もじんじんする。しゃくりあげるたびに横腹が引き攣って、ずきずき痛んだ。
涙の跡がついた頬はひりひりするし、足は岩と砂のせいで切傷だらけだし。
「おかあさん……」
ひび割れた小声でそう呼んで、前に横たわった母親の、じっとりぬれた体に触れた。
たしかにそれは母だけれど、しがみつくには冷たすぎて、しかもまるで別物のように硬い。
「おかあさん、起きて。起きてよ、おなかすいたよ」
肩をつかんで揺さぶった。最初は弱く、だんだん強めて。けれどどんなに揺すっても母親はその目を開くことはなかった。
胸のところに乗っていた手が横にずるずると落ちて、ぴちゃりと水飛沫のはねる音をたてる。
ぜいぜい息を切らせてそれ以上揺らすのをやめると、その脇で尻もちをついた。
目の前、頑なにまぶたを閉じ、仰向けになって眠り続ける母の姿に無性に腹がたつ。
こんなに呼んでるのに。こんなに一生懸命起こしているのに、母は目を開いてもくれない。
自分を見てくれない。
「おかーさんッ!」
手をこぶしにして、ぽかりとその胸を叩いた。
途端、べっとりした冷たいものが手につく。それがはたして何かを知ろうにも、ここには明かりとなるものは一筋たりと存在していない。
錆びた鉄のような生臭い臭いが濃く充満していたが、それはここに入る前の、自分を抱いていたときからしていた母のにおいだった。鼻が慣れてしまったのか、今となってはよく分からない。
完全、と表すには少々浅めの暗がりで、少女は独りぼっちで泣いていた。
寒かった。もしかすると外は夜なのかもしれない。
四つん這いになって布を探りあて、それを間に挟んでもたれた石壁から伝わってくる、ひんやりした冷たさにそう思う。ぐるりと円を描いたぼこぼこの石壁はどこを触っても冷たくて、少女はあわてて伸ばした手を引っこめた。
「おとうさん……」
鼻をすすって名を呼ぶ。はあっと息を吐き、凍えて抱いた膝に押しつけた額も、暖かみを得ることはできない。
何も巻いていない足先から徐々に痺れがきて、かじかむ。
「おとーさあん……」
呼んで、返事の返る名ではなかった。
父はもうずっと前に消えた。上にある、岩でできた天井の一角をふさいで。
「ここでじっとしていろ。絶対声を出すんじゃないぞ」と言い、自分と母をこの穴底に閉じこめて。
「必ず戻ってきてくださるわ」
そう、母に励まされたのはいつだったろう? きつく自分を抱き、張りつめた顔をしてここで震えていた。
父は「ミリョウ」とかいうものの仲間の「リョウキ」という化け物の群れに襲われて、それで自分たちをこの岩穴に隠したのだと、あとになって母親は教えてくれたけれど、その「リョウキ」に襲われたらどうなるのかすら知らない幼い少女には、なぜここに入れさせられたのか、どうして父はいつまでも母と自分を迎えに来てくれないのか、不思議でしかたがなかった。
そうして、母もとうとう自分を見捨ててしまった。
自分を遠ざけ、だんだんお話をしてくれなくなったと思ったら、ついに口もきいてくれなくなってしまった。いくら揺さぶっても返事すら返してくれないし、食べる物もくれない。
空腹に堪えかね、叱られるのを承知でさぐった袋の底から出てきたのは固いパンのかけらで、カビくさいのを我慢して口にしても、どこへ消えたか分からないものだった。当然ながらおなかは膨れない。
「おとーさん! おとーさん!」
あまりの腹立たしさにぎゅっと目をつぶり、全身で叫び続けた。
おかあさんが意地悪するの! あたし何もしてないのに、おかあさん、口もきいてくれないの!
そう言いつけて、この冷たい母をしかってほしかった。
「おとーさん!」
声を出すなと言われたことも忘れて、両脇でこぶしをかため、上に向かって幾度となく呼び続ける。そのうち、天井岩の向こうから人の声らしきものが聞こえてきた。
はたして何と言っているかまでは分からなかったけれど、ここから自分たちを出してくれるという、ずっと待ちわびていた存在が嬉しくて、さらに強く呼び続ける。
やがて、ぼこりという音とともに砂礫が降り、岩のひとつがはずされたとき。
そこから見えたのは、月明かりを背にした青年の顔だった。
てっきり自分と母を迎えに来た父だとばかり思っていた少女は、その初めて見る青年に目を丸くしてしまう。
「だれかそこにいるの?」
青年は岩穴を覗きこんでそう言うと、さらに穴を広げるべく隣の岩をはずした。
ぱらぱら落ちる砂の、ちょうど真下の陰で動く物を確認した青年が、ひらりと穴の中へ身を滑らせる。
深いと思っていた穴も、青年の背丈ほどしかないと分かると、途端、少女の中から暗闇へのおびえは消えた。
下着の裾をぎゅっとつかみ、隅の暗闇に逃げ込みたい衝動を抑えて、少女は正面に立った黒衣とマントをはおった青年をあらためて見上げる。
ななめに入ってくる強い月明かりに闇からぽっかり浮かんだ青年の上半身は、いつか、父親にもらった絵本の中に出てくるお気に入りの火の王子とよく似ていた。
末の王子と水の精霊の恋の手助けをしてあげた、心優しい火の王子。
燃え盛るたいまつの炎のように紅色した髪は上から流れ入ってくる夜の冷気にも揺れるほど軽く、さらさらの前髪の奥から見える大きめの瞳もやはり同じ、赤い色をしている。
上質の絹を思わせるなめらかな白い膚。上品なロ元。優雅な曲線を描いてすらりと伸びた手足は少女の知るだれより抜きん出て美しい。
「ああ……」
青年の口から、そんな頼りない声が漏れる。
青年は、どうやら自分の腰までもない、幼い少女の泣き腫れた顔に、すっかり困惑してしまっているらしかった。
少女の後ろにある母親の遺体を見て、ここで何が起きたかをさとったこともあるだろう。
のどを伸びきらせて自分を見上げていることに気付き、とりあえずしゃがみこんで目線を同じにしたものの、それから先どうすればいいか、青年は分からないようだ。
とにかく下着姿の少女を肩からはずしたマントでくるみこみ、腰につけていた袋の中から取り出した布で顔の汚れをぬぐってやりながら、ようやく思いついたといった顔で青年はこう言った。
「ぼうや、いくつ?」




