第18回
深い、深い意識の闇の底。密度の濃い、ねっとりとした無感動の闇が、レンをくわえこんでいた。
じわじわと喰いこむそれは、すでに彼女の裸心の大部分を侵している。まるで一片の月明かりも存在しない暗い夜の海に沈んでいるように彼女の感覚全てはほとんどが麻痺していたが、それでも、思考する力はわずかに残っていた。
なぜ、と彼女は数百度目の反すうを行う。
なぜ、あたしの心は壊れてしまわないんだろう?
彼女は、とうに目を覚ましていた。何を試しても反応を返さず、外界を拒否していると思われた心。それは彼女があえてしていることで、彼女は自分の周辺で起きていること全てを感じ取れていたのだ。
むしろ、以前よりも鋭い感応力で。
けれど心には何ひとつ響いてこない。暗く、重い、虚無の闇ばかりが広がっている。
リオンたちが何を言おうと、どうされようとも言葉どころか拒絶ひとつ返す気になれない。
それは悲しく、そして絶望的な呪いだった。
なぜ壊れないのか。あの人がいないのに。
唯一浮かぶ疑問は、自分自身への憎悪である。
あたしにとって彩煉の存在は、その程度のものだったのか。
あの人を失えば生きていけないと思っていたくせに、心は死ぬどころか狂いもしない。
そんな自分が許せなかった。
離れ離れになったというのなら、捜せばいい。大陸中、捜して、どこまでも捜して、互いを見出せばいい。それだけだ。でもあの人は消えてしまった。永遠に、もうこの世のどこにもいやしないのに、どうしてこの体は動くことをやめない?
止まってしまえ! と叫んだ。
ただ裂けただけの心など、役立たずだ。あの人のいない場にいることに、どうして堪えられるだろう?
あの人がいなければ、とうに消えていた命だ。あの人がいたからこそ、生きようと思えたのだ。
冷たくなって死んだ母……。
家族という衝立てを失った子どもは、みじめだった。
魎鬼の群れによって商隊が全滅し、彩煉に救われたとき、レンはまだ5つを越えたばかり。保護してくれる者なくして到底生きていけない、弱い存在だ。けれどもこの生き辛い世界で、赤の他人の面倒を喜んでみてくれるほど慈愛にあふれた存在はめったにいない。
あの冷たい岩穴の中で3日を過ごしたレンの体はひどく衰弱していて、軽度の栄養失調にかかっており、しばらくは宮の医療室で治療を受けて過ごしたが、体が回復するとやはり前例にそってサキスへと里子に出された。
幻聖宮とてそう裕福ではない。補充組として受け入れるにしても、レンはまだ幼すぎた。退魔師としての才があるかどうかも不明だ。それに、退魔師になるよりも普通の少女として生きるほうが安全だということは明白である。
『じゃあ、元気でね』
乗り気でない、いかにも不承不承といった顔をして、あの人は手を放した。
『ときどき会いに行くからね。体に気をつけて。お2人の言うことをきいて、いい子でいるんだよ』
そう言われたとき、涙がこぼれた。離れたくないと泣いて、だだをこねたかったけれど、そうしても彩煉を困らせるだけだというのは分かっていた。
仮親となった夫婦に手を引かれて宮をあとにする。
止めてくれはしないかと、そればかりを気にして何度も何度も振り返って。宮の門に立ち、坂に隠れて見えなくなるまで自分を見送る彩煉の姿はまぶたに焼きついて、夢にまで見た。
夜中に目を覚ますたび、涙をこする。
会いたくて、会いたくて。
あの人のいない夜の闇は恐ろしく、あの冷たな岩の檻を思い出させる。
もしや今もまだあの岩の中にいて、今まで夢を見ていたのではないか。あの人が助けてくれたことも、優しくしてくれたことも、全て自分に都合よく見ていた調子のいい夢……現実じゃない。
それを認めることが怖くて、朝まであの人の名をつぶやき続けたこともあった。
そんな自分は、仮親となった2人にはさぞ扱いづらかっただろう。最初は実の娘と同等にしようとしてくれていた彼らも、やがて愛想をつかした。
ぐずってばかりで可愛気のない、気難しい子だと悪し様に言われ、いつしかその家では水汲みから使い走り、雑用を言いつけられる小間使いになりはててしまっていたけれど、そんなことは苦ではなかった。
彼らを満足させられなかった罰に食事を抜かれても、家から一晩追い出されても、あの人を思い出すことによる胸の痛みに比べたら、とるに足らなくすら思えたからだ。
商隊にいて、もともと恵まれた食生活や日常を送っていたわけではない。飢えによる腹痛も、夜の寒さも、我慢すればすむ。けれど、彩煉を思い出すたびに感じる孤独は、胸の中まで凍りつくようだった。
彼のあたたかなほほ笑みがまぶたの闇に浮かぶたび、止めようのない涙があふれて胸が震える。硬く、冷たな氷の芯が心の中に生まれ、引き裂かれてしまう気さえした。それをまぎらわせるには、思考も満足にできないくらい肉体を酷使するという手段が一番有効だった。
どうしてあの宮を出てしまったのか。あの人がいなくては、あたしは決して幸せになれないのに。
夕焼けの中、手をひかれて帰宅の途につく者たちの背をぼんやりと見送る。
もう、諦めるしかないのだ。あの時間は二度と戻らない。
そう思い、泣きたくなる気持ちをこらえて水桶を持ち上げたとき。ふわりと体が宙に浮いた気がした。
『帰ろう』
耳元近く、噛みしめるようにつぶやかれたのは、夢にまで求めた人の忘れ得ぬ声。
抱きしめた腕も、頬に触れた髪も。どのような暗獄の闇に突き落とされようと忘れることのない、自分自身よりも愛しいものだった。
『一緒に帰ろう』
赤ぎれと血豆だらけで荒れた手に、まるで彼自身が傷ついた顔をすると、謝罪のように何度も何度も唇を押しつけた。
同情でも、嬉しかった。
自分があの宮へ戻ること――それが彼にとって少なからず負担となることが分かっていても、素直に頷けた。この人が自分を忘れないでいてくれたことが、本当に、嬉しかったのだ。
彩煉は仮親の元へ行き、レンとの仮親契約を解消することを告げた。
あの家ではすでに面倒ごと一切を押しつけるに適した存在となっていた自分を手放すことを、彼らはしぶってなかなか承知してはくれなかったけれど、彩煉は譲らず、結局は説得に折れた。
しばらく宮で暮らしたあと、彩煉が見つけてきてくれた次の仮親は、子どもができずに自分たちの子どもを持つことを諦めた、若い夫婦だった。よく笑い、よく泣く父親と、そんな父親が巻き起こすちょっとした事件を笑って赦す優しい母親だった。
彩煉もよく会いにきてくれて……。
それからの記憶の中には、いつも、あの人の姿がある。
『おいで、レン』
うっとりするほど優しい、甘やかな声で名を呼ばれる。彼の瞳の中に自分が映る、それがどれほど幸せなことか。
彼はだれよりも優しく、強く、きれいで。上にばかがつくほど、お人良し。いつだって人のことばかり思っていた。そのせいで自分が損をしているというのに、「でも、良かった」と、本当にうれしそうに笑って。
そんなんじゃだめだと叱りながらも、そんな彼を見ているのがうれしかった。
この、夢のような日々がいつまでも続きますように、この人と二度と離れないですみますように。そのためなら何でもするから、どうかこの人といさせてくださいと、毎日毎日神様に祈ったのに。
どうして……
どうしてついて行ったりしたんだろう……!
『レン! 危ない!』
自分の元へ駆け寄り、その身を挺した彩煉。魎鬼の爪に貫かれ、赤く染まり、血の海に横たわった。
足手まといの自分さえいなければ、あの人は助かったかもしれない。
無事逃れて、今もそばにいてくれたかもしれないのに。
いくら犯したあやまちへの罰とはいえ、これはひどすぎる……!
自ら心の傷をかきむしる。それでも足りない。あの人を殺してしまった愚かさは、この程度では償えない。たとえ手足をもぎとられ、罪を犯した亡者が永遠に苦しみ続けるという煉獄の炎の中へ突き堕とされたとしても、決してあの人の死を贖えるはずがないのだ。
◆◆◆
はたしてどれほどの時間が流れたろう。
自己憐憫の闇の川の中にあお向けで横たわり、ひたすら死の訪れを願っていた彼女はふと、頬をかすめる微風を感じた。水気を含んだ冷たいそれに、夜と翠珂の気配を感じとる。
翠珂は、そっと部屋に滑りこむと枕元に立った。
翠珂は彩煉の親友で、同室者で、レンも特に親しくしていた魔断であったため、その姿を思い浮かべるのはたやすい。きっと、今度の出来事には彼も深く傷ついたに違いなかった。
かけがえのない友を失った彼の悲しみは自分のそれにもっとも近く、罪悪感を強く感じてしまう。
知らぬうち、彼に敏感になっているレンに向かって翠珂は身を折ると、額に額を重ねてささやきかけた。
「レン、自分を責めるのはもうおやめ。あいつはきみにそうなってほしくて消えたわけじゃないんだから。
あいつはきみをとても大切にしていたし、誇りにしていた。きみがきみであり続けることを、あいつは自分の命より望んでいたと思うよ」
闇の底の底、淵まで深く深く沈み込んでいたレンの元へ、なぜかその言葉はひらひらと光る紙吹雪のように降りてきて……思わず上半身を起こして手のひらで受けたレンのとなりに、いつの間にか、ほのかな光に包まれた翠珂が座っていた。
「翠、珂……?」
彼は言葉と同じくらい、優しくほほ笑み。そっと、脇に置いてあった、白くて厚い、折りたたまれた布のような物を差し出してきた。
「これは……」
見たことのない服だった。
なめらかな手触りの、高品質の布で作られた美しい服。
「これが何か分かるかい? 今日の昼、仕上がって届いたんだ。きみを驚かそうと思ってあいつが用意していた、退魔師としての正装衣だよ。
あいつは何時間もかけて布帳をのぞき込んで、この布ならきっときみの髪によく映えると笑っていた」
ぴくりと、かすかだがレンの指が引きつる。
「僕と戻ろう、レン。
あいつはきみのために散ったことを誇りに思いこそすれ、きっと悔いてなかっただろうけど、そうしてきみがきみでなくなることを望んだりはしなかったはずだ。
きみまで死んでしまったら、あいつは何を護って消えたのか、分からなくなる。
あいつの死を無為なものにしないためにも、僕たちの元へ、戻ってきてくれ」
翠珂は立ち上がり、ほのかに輝く手をレンに差し伸べた。




