第16回
その内容にはっとなって翠珂の顔が上がる。
それは一体どういう意味かと食い入るような視線を向けてきた翠珂に、矩水は一瞬面食らった表情をしたものの、すぐに彼が事情を詳しく知らないでいることに気付いて説明を補足した。
この近辺一帯を揺るがした大地震。これは翠珂も知っていた。それがただの自然現象にあらず、魅魎の仕業であるということも、彩煉の死を教えてくれた者から聞いている。自分たちの管轄地である西に、ほんの数日前砂嵐によって生まれた鳥岩(彼ら西方警備長たちはその形により、こう呼んでいた)が崩れたこと、自分たちが手配した封師たちの様子を見に向かった彩煉が、そこで遭遇した魅魎の手にかかり、散ったこと。それだけしか翠珂は知らなかった。
それは白瑛たちの受けた報告とほぼ同じである。しかしそこにはレンという存在がいたことが抜けていた。
「向かわせた自分たちの手落ちを釈明するつもりはないが、まさか候補生を宮外へ連れ出すとは思ってもみなかった」
と、白瑛は苦々しい声で告げた。
「いくら多忙を極めていたとはいえ、確認を怠った私たちのミスだ」
なぜ同行を許したのかはいまだ不明のままだ。
とにかく彼は候補生のレンを連れて現場へと向かい、そこで中級魅魎に襲われた。
助かったのはレンのみ。
「それと、封師たちの死体を回収した。いや、元封師であったものと言うべきか……。大部分が消し炭状態で判別はほぼ不可能だった上、現場に散乱していた肉片は既に腐乱していた。
いくら炎天下とはいえ、その腐敗速度は魎鬼としか言いようがない」
退魔服の一部が燃え残っていなければ、封師だというのも分からずじまいだったろう。
3度の地鳴りが起きたあと、近場で爆発的に膨れ上がった負の気配は宮中にいる全員が感じとり、あまりの強さに鳥肌立った。
経験の浅い、若い魔断の中には無防備な状態で強烈な衝撃波を正面から浴びてしまい、失神する者すら出たほどだ。
希望者を選んで編成する必要もなく、宮に所属している退魔剣師や上級退魔剣士たちが魔断を手に現場へと駆けつけた。
そこで彼らが目にしたものは、元の形状がどうであったか想像もつがないほど完全に崩壊した岩場と、そして岩片を抱くように倒れ伏した、血まみれのレンの姿だった。
「右肩と左大腿部に約2センチの貫通痕、右の下腿腓骨が閉鎖骨折、全身打撲、そのほかにも小さなひび・骨折が10カ所以上、皮膚には数十に及ぶ裂傷……深いものでは骨まで達しているそうだよ。
幸いどれも急所ははずれていたけれど、どう見てもあれは相手がわざとはずしてつけた傷だと、薬師長の珠璃が言っていた……」
感情を交えず、淡々と蒼駕が説明する。それが何を意味するかは明白だ。
すぐに死んだりしないよう、気を配りながら弄ぶ。魅魎の中で最もタチの悪い部類のやからだ。
自分より遥かに弱い相手であるとみれば、さながら猫が鼠をいたぶるように、動く限りなぶってじわじわ切り刻むのだ。自分の与える激痛に身をねじり、喘ぎ、地に這いつくばって哀願する姿に悦楽を感じ、優越感を存分に味わおうとする……悪辣な、歪んだ性格の持ち主だ。
「あの状況下で彼女が助かったこと自体、ほとんど奇跡に近い。多分、剣師たちの出動が速かったのが幸いしたんだろうね。
今はまだ意識不明の重体だけれど、きっと数日中には意識を取り戻すと思うから、それから詳しい事情を聞くことにしている。
ああそれと。今日か明日、きみの元へも通達が行くだろうけど、今から1カ月ほど西方警備長を増員して、見回りを強化することになったよ。
きみの言うとおり、わざわざこの宮の近辺に現れたほどの豪胆な魅魎だ。現れたのにはきっと何か理由があるんだろう。そんな相手が、魔断を殺し、候補生をなぶった、これで終わりにするとはとても思えないしね」
その言葉は、翠珂の胸にわずかな光を見出させた。
彩煉を殺した魅魎が、再び現れるかもしれない。
もしそのときがきたなら、必ずこの胸の痛みの礼をさせてもらう、と。
しかし蒼駕のこの見込みは、大きくはずれることになる。
それらしい魅魎は姿を現さず、レンも、この日より7日を経ても一向に目を覚まそうとはしなかったのだ。
◆◆◆
「レン。レン? 聞こえてる? 目を覚ましなさい、レン。ほら」
枕元に腰かけ、銀麗牙の化身・珠璃がぱんぱんと軽く頬をたたくが、レンはぴくりとも反応を返さなかった。
ため息をついて、覗きこんでいた顔を上げて身を起こすと翠珂を振り返る。翠珂は控えるように壁際に立ったまま、心配顔でレンの頭に巻かれた包帯を見つめていた。
「やっぱり駄目みたいね」
肩を煉めて珠璃が立ち上がる。
「ずっと? 1度も目を覚まさないのか?」
「そう。1度もね。
睡眠導入剤とか、そういった薬は使ってないわよ、言っとくけど」
銀色に輝く髪を梳いて、ピンでまとめながら珠璃が断りを入れる。翠珂は、同じことを訊こうとした矢先に言葉を奪われたことに渋い表情をしたものの、とがめる視線を向けて責めたりなどはしなかった。
彼女と入れ代わるように寝台へ近づくと、そっと額にはりついた前髪をはらってやる。
桃色に染まった頬はてっきり傷のせいだとばかり思っていたため、熱を帯びた額に驚いた。
「昼間はそう高くはないのよ。夜中にときどき上がるけど、でもそれ以上は下がらないわ」
何を訊かれるか先刻承知だと、振り向いた早々またもや珠璃が言う。
どうにも話し辛さを感じて翠珂は眉をひそめたが、今はそこまで人を気遣う気力もないといった様子で珠璃は椅子を引き出して腰かけ、足を組むと頬づえをついた。
「とりあえず病状は安定してるけれど、肝心の傷口がなかなかふさがらないの。食べ物も受けつけてくれなくて、経口カテーテルで無理矢理流しこんでるって状態。
夜中に吐き出してることもあるの。栄養剤や解熱剤の注射もあまり効いてるようには見えないし、外傷の治りも遅くて……まるで、体が死にたがってるみたい」
吐き出された重い言葉に、ぎくりとする。そっと様子をうかがうと、珠璃はほとほと困りはてたように、乱れた前髪を硫き上げていた。
「友達がね、毎日様子を見に訪ねて来るの。自分たちだって出立の準備やら何やらで忙しいでしょうに、時間を作っては覗きにくるわ。目を覚ましてないかって。
彼女たちにも呼びかけてもらったけど、やっぱり反応なし。こんなとき、せめて彼女と感応した魔断がいてくれたら、直接意識に話しかけて無理やりにでも起こしてもらうのに……。
このままだと、本当にやばいわ。覚悟する必要があるかも」
その魔断を失ったからこそこうなっているのだと承知していながら愚痴ってしまったことに、自ら滅入って顔をおおう。彼女はすっかり疲れはてているように見えた。
この前の感応式で彼女が感応したのは聞いている。出立の決まった身では引き継ぎなど雑務もあり、薬事医療室のほうもそうそう留守にはできないだろうに、時間が許す限りずっとレンについてくれている。
レンがどう苦しみ、弱っていくかをだれより知って、無力感を味わっているのは彼女だ。
苦悩を感じとり、側に寄ると翠珂はその身を抱き寄せ、いたわりをこめて髪に口付けた。
腰に回された細い指が、力なくすがりつく。
「僕が見ているから、きみは少し休んでくるといい」
「……あなたが?」
申し出に、くすりと笑う。顔を上げ、そこにある明るい翠の瞳と互いを覗きあって、それから珠璃は応じるように立ち上がった。
「じゃあ少しだけお願いするわね。私は南館の医療室にいるわ。
あ、それから多分もうじきミシェルたちが来ると思うから、何かおかしな様子だったら、くれぐれも暴力はだめよって言ってちょうだい」
「暴力?」
「そう。昨日なんか、すごい険幕で怒鳴ってたわ。大変だったんだから。いいかげん目を覚ませって揺さぶって……。
泣いてたの、あの娘。私、何も言えなくて。
いやね……。いやだわ、こういうの。ときどき無性にやり切れなくなるの。どうして人の体って、生きることを拒絶できるの? そのことに、どうしてあたしたちには何もできないの? こうして側にいるのに。
くやしいわ」
最後、戸口で独り言のようにつぶやいて、珠璃は部屋を立ち去った。
彼女の言葉が胸に焼きついて、閉じたあともしばらくドアを見続ける。
やがて彼女の靴音が遠ざかり、消えたころ。翠珂はレンへと向き直った。珠璃が座っていた椅子を枕元へ引き寄せて腰かけ、その寝顔をうかがう。
レンの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。悲しみも、憎しみも。その身を侵す負の療気による苦痛も、ない。
初めて魅魎につけられた傷は、負の気に対して抗体のない分衝撃が凄まじいという。それを全身に負いながら生きていること自体奇跡だと、だれもが言っていた。まるで、だから彼女は助かるに違いないと、自分に思いこませようとするように。
目を覚ましてほしい。それは、翠珂の心底からの願いである。
初めて彼女の部屋を訪れたとき、傷ついた彼女へのいたわりよりも、彩煉を失った怒りのほうが強かった。それは否めない。
昏睡したままの彼女を見舞うたび、心の中で何度も語りかけたものだ。一刻も早く目を覚まして、自分たちからあいつを奪った魅魎がどんなやつなのか、教えてほしいと。
特徴や名が知れたなら司書室にある、過去に現れた魅魎の備忘録リストと照合できるかもしれないし、大陸中に散っている退魔師に手配することもできる。
彼の仇を少しでも早く討つために、目を覚ましてほしかった。
その考えは今もある。それに、さっき珠璃が言ったことだって深刻な問題だ。このまま目を覚まさなければ、彼女まで失ってしまうだろう。
ただ。
「きみは、望んでないんだね……」
翠珂はつぶやき、汗ばんだ額をサイドテーブルに置かれた水の入った洗面器に浸かった布でぬぐうと、水で濡らした布をかけてやった。




