第12回
岩でぼろぼろに傷ついたその体には乾いた血が黒くこびりついており、腕や足がそれぞれ奇妙な方向にねじれているせいで歩行もまるでおぼつかない。なにやらへたな人形師の操る人形のようで、その動きはどこか滑稽ですらあった。
泥にまみれた青白い顔。うつむいて、足元をさまよう白濁した目は壁中に閉じ込められていたころと同じで、自我はかけらほどにも見出せない。
生きてはいない。少なくとも、人としての生は失われたままだ。
一体どこまで死者を冒涜しようというのか……その低劣極まりない傲慢さには嫌悪を感じる。
同時に、彼らの全身からにじみ出ている煙のような負の歪みに、それらがはたして『何』かをさとった彩煉は、岩陰のレンへと目を移した。
逃げるんだ。
朱に染まった唇はそう告げている。
僕はもう、だめだから。
しかしその願いにレンは力いっぱい首を振って拒絶を返した。
そんなこと、できない!
そんな姿の彩煉を残して離れるなんて……魅魎がいるのなら、なおさら!
死なないで……あなたが死んだら、あたしも死ぬ……!
涙でぐしゃぐしゃの顔で、両手を祈りのように組み合わせたレン。
彼女の切ない願いが届いて、彩煉の胸をしめつける。
「……レン……」
弱々しくつぶやいた名は、こみあげた血によって消えた。
柊はそんな2人には目もくれず、勢揃いした3体を下に見て、失望の言葉を吐いて息をつく。
「ちぇっ。せいぜい魎鬼どまりだな、これじゃ。ま、餌が封師なんかじゃ、これでも上出来かもね。
あーあ。やっぱり短気を起こすもんじゃないね。もう少し待ってたらおまえっていう極上の餌が手に入ったのに。
ともかく、力だめしだ。そら、そこに隠れてる女をやるから、喰ってこい」
「! レン、走れ!!」
あの魅魎は自分のことを指したのだと理解したのと同時に、3体の魎鬼に押し倒され、むさぼり喰われるおぞましい光景が脳裏を閃光となって駆け抜ける。その恐怖にからめ取られ、凍りついてしまったように動けなくなったレンの頭中を、彩煉の強張った叫び声が貫いた。
「逃げるんだ!!」
頭ごなしに怒鳴りつけられ、正気を揺り動かされる。
こうなってはもはや隠れていても意味はない。
とにかくあの新たに現れた魎鬼たちだけでも彩煉から引き離さなければ。
その思いですっくと身を立たせた直後、彼女の足元でカツンと何かが岩に当たる音がした。
反射的にそちらへ目を向けたなら、それが背側の腰帯に挟みこんであった自分の魔導杖であると気付く。
魔断を刀身として収め、唯一、魔を断つことのできる剣柄。
すっかり気が動転してしまって、これの存在を忘れていた。
これを使えばあるいは、この絶望的な状況も逆転できるかもしれない――そんな考えが閃いた。希望が頭中で弾け、広がる。
もとよりこれはそのために用いる物。
その扱い方は、十分すぎるほど習ってきている。
「彩煉! きて!!」
開けた砂場で足を止め、向かってくる魎鬼たちに向き直るとレンは魔導杖を構えてその名を呼んだ。
彼等の歩みは遅い。この距離なら間に合うと踏んで。
主であるレンの意志に反応し、キイイィィン、と振動音を発して、魔導杖は己の内に収まるにふさわしい刀身を呼び始める。
悲劇は、その刹那に幕を上げた。
●遊 戯
「レン! 危ない!」
叫び、岩から離れる。どこにそれだけの力が残っていたのか、不思議なほど強く、足は砂を蹴っていた。
レンが何を望んでいたのか、気付いたはずなのに。
もしかすると、彼にはもはや刀身化する力もなかったのかも知れない。
彩煉はレンのもとへ走り、彼女を背に庇って魎鬼たちとの間に割り入った。
「ばーか!」
その捨身の行為を愚かとあざ笑う少年の声が、頑なに現実を拒絶しようとするレンのしびれた耳に届く。
彼女の目の前で、彩煉はわが身に残された最後の力を振り絞って天高く噴き上がる紅蓮の炎を導き、肉迫した魎鬼たちへと叩きつける。だがそれは3体を瞬時に燃やし尽くすには到底足りず、炎のカーテンを抜けて現れた魎鬼たちが倒れ込むように彩煉へと襲いかかる。
火に全身を焼かれながら、それを意に介さず。ひたすら目の前の獲物に食らいつくことしか考えていない魎鬼たちの牙が彩煉の肩や腕に突き立てられる。そしてナイフのような鋭利な爪が、容赦なく体を切り裂いた。
声を上げることなくその場に崩折れた彩煉の血が飛び散って、レンを赤く染める。
彩煉は、もはや起き上がろうとしなかった。
痛みに身を震わせてさえくれない。砂をつかむように伸びた指先すらも。己から噴き出した血の海に、ただ横たわっているだけだ。
永劫とも思われる時間、繰り返される一瞬。
強烈な死の光景に、ドクン! と全身が引き裂けんばかりの動悸が起きる。体中の血が逆流して一度に脈打った、そんな感じだ。
心臓が破れたと信じて疑わず、ぎゅっとつかんだ胸元で、服が深いしわを刻む。
「さい、れん……」
悪夢だと、レンは引き裂けた心で繰り返し考えていた。
これは、悪夢に違いない。彩煉が死ぬなんて。そんな現実などあるはずない。あたしたちは、一対なんだから。今日、感応して、これからずっと、一緒にいるって誓うの。それはずっとずっと前から決まっていたこと。たとえどんなことが起きようとも。いつまでも、いつまでも、2人は一緒なのだ。
だからこんなこと、あり得ない。
彩煉があたしを残して、死んでしまうだなんて!!
「さいれん!!」
魔導杖を投げ捨て、焼け焦げた体でまだ火がくすぶっている魎鬼たちの死骸を押しやると、レンは横倒しに倒れた彩煉の背にすがりついた。
膝に抱き起こし、顔にかぶさっている血にぐっしょりと濡れた髪をはらって頬についた血と砂をぬぐう。
「彩煉、起きて……目を開けて! 彩煉!」
お願いだから!
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ひたすらにそればかりを何度も、何度も、哀願する。
「ええっ? もう死んじゃったの?
あっけないのー。そいつ、ほんとに魔断?」
柊のあきれ声も、レンの耳にはとどいていない。
割れたようにがんがん痛む頭は柊の存在を完全に排除し、狂ったように、レンはひたすら彩煉から血をぬぐい続けた。
とても命を奪うほどの苦痛が襲ったとは思えないほど、小さな歪みひとつないきれいな面はまだ温かく、まるで眠っているようだ。今にもまぶたを開き、そのあざやかな紅色の瞳で見上げてきそうで、まばたくこともできない。
「前に戦った魔断は、もうちょっと手応えがあったよ。根性足りないんじゃない? 火炎系のくせに。この程度で死んじゃうなんて、全然もの足りないなあ、まったくもお。
……でも、まあ、ぼくがせっかく作った3体を灰にしちゃったんだから、根性のほうはともかくそれなりの力はあるってことだよね。そうしときましょ、とりあえず」
ふんふん、と勝手に納得した柊の目が、レンへと向く。
たかが剣が1本なくなったくらいで、表をつくろうことも忘れて、あろうことか自分という存在すら忘れきって目に入れようともしない厚かましい小娘。
持ち上げられた指先が、空中で線を引くように横に振られた。
何気ない、単なる振りだと思われたその先から巻き起こった風は衝撃波となってレンを襲う。
他の一切に無防備でいた彼女の体は数千の真空によって裂かれ、たやすく背後に弾き飛ばされた。
「ああっ!」
先の崩壊で割れて、尖った岩が腕に刺さり、岩に強くぶつけた右のふくらはぎがボキリと鈍い音をたてる。身を裂くような鋭い痛みを走らせて骨折したことをレンに告げたが、しかしこんなもの、自分を護るために彩煉が負った傷を思えばいかほどのものかと言うように、レンは悲鳴をかみ殺して身を起こすと吼えた。
「きさま! 彩煉を返せ!!」




