16話 泣き下手とダブルデート(3)
再び試着室に押し込められた俺。
さっきとはまた違う紅愛の気配――ワクワクというよりギラギラ――をカーテンの向こうから感じる。
――脱ぎ終わった。
元々来ていた服に着替えた俺は、試着室から顔を出す。
念のため、聞いてみた。
「本当にこれを着るのか、紅愛?」
「……貸して」
「せめて別の服の上から――あ、おい!」
引ったくるように服を手に取り、入れ替わりに紅愛が試着室へ入ってしまう。
さっきまでのファッションショーと違い、いつまで経っても着替え始める気配がない。
若干の居たたまれなさを感じ、俺は言った。
「おーい紅愛。無茶すんな、やっぱり俺が一度着た服なんて」
「大! 丈!! 夫!!!」
「お、おう」
この気迫よ。
まあ本人がいいならそれで――と、このときの俺は軽く考えていた。まだ。
やがて微かに衣擦れの音がし始めた。静かに、音を立てないように、やたら慎重に着替えている。
試着室の前で待っていた俺と店員さんは、我知らず唾を飲み込んでいた。
静かすぎる。何だこの、鬼気迫る張り詰めた空気は。
冷たい汗が流れる。
このカーテンの向こうで爆発物の解体が行われているような、あるいは失敗すれば命の保証がない悪魔召喚の儀式が進行しているような――そんな恐ろしい緊張感を感じたのだ。
1秒1秒が……長い。
やがて、音さえしなくなる。
俺と店員さんは顔を見合わせた。お互い、緊張で強ばっている。
「紅……愛……?」
「……」
「おい、紅愛。大丈夫なのか? おい!」
俺が声を上げ、一歩前に踏み出したとき。
「姉様、失礼」
いつの間にか目を覚ましていた白愛が、返事も聞かずにカーテンを全開にした。
すでに着替え終わっていた紅愛が、こちらに背を向けて立っている。
俺がついさっきまで試着していたユニセックスの上下。やはり体格の差か、手足がずいぶんだぶついている。
しかし、それでも似合って見えるのは流石だった。
明らかにサイズ違いの服であっても、そして後ろ姿であっても、紅愛の華やかさはオーラとなって放たれている。
隣の店員さんが手を合わせて拝むほどに。
とりあえず無事に着替え終わっていたことに安堵すると同時に、俺はお世辞抜きで感嘆した。
「驚いたな、流石だよ。紅愛はどんな服を着ても華がある。さっきまで俺が着ていた服と同じに思えない。もっと見せてくれ、紅愛」
「……」
「紅愛? あの、紅愛さん?」
「説明しましょう、かっしー」
白愛が言った。
「姉様の脳内を言語化すると、こうです。『ヤバ、ほんとこれヤバい。この温もりと匂いはガチだ、癖になりそう』」
「………………ん? 癖?」
「続けます。『ああ、早く誤魔化さないといけないのに身体が動かない。なに、どうしてこの手はあたしの口元に袖を押さえつけて離れないのかしら。はぁああーふぅうーはああぁぁぁっー』」
いつものキリッとした顔で姉の脳内をシミュレートする妹。
試着室内には大きな姿見がある。
そこに映る紅愛の表情は、何というか実にこう――幸せそうだった。
俺は白愛の肩に手を置く。
「白愛。それ以上言ってやるな」
「ではセリフだけでなく女優として本気の再現演技を――」
「なおのこと止めろ。十分伝わったから。……柔軟剤と消臭剤、どれがいいか今度紅愛に聞いてみるか」
静かにカーテンを閉めながら、俺は苦笑する。
どうせなら紅愛の好みに合わせてやりたい。
すると、きょとんとした白愛と目が合った。
「どうした?」
「いえ」
小さくつぶやいた白愛は、何を思ったか俺の腕に触れる。
先ほどまでと少し違い、彼女は柔らかく目元を細めた。
「ああいう姉様を見ても、ちゃんと受け入れてくださるんですね。伝わってきました」
「今更、恥ずかしい姿の一つや二つで俺たちの関係が変わるわけじゃないからな。それは白愛、お前にも言えることだぞ」
「ふふっ」
珍しく白愛が微笑むので、俺も口元を緩める。
白愛の頭に手のひらを置き、ひとつ撫でてやる。直後、俺は万力のように力を込めた。
「とはいえ姉の恥を積極的に暴くスタイルは感心しない」
「なるほど。かっしーそこそこ本気で怒ってますね本当に申し訳ありませんでした痛いです、痛い、んふぅ」
――その後。
ようやく我に返った紅愛はゆでだこのように真っ赤になって試着室の隅に座り込んでしまった。
「紅愛。ほら、そろそろ出ておいで」
「やだ。はずい。しぬ。むり」
「姉様姉様。お着替えはどうしますか?」
「………………このままでいい」
「それでこそ姉様です」
「白愛ちょっと黙ってような?」
試着室内でノロノロと服の整理をする紅愛と、それを手伝う白愛。
少し離れたところで待つことにした俺に、ふと、店員さんが声をかけてきた。
俺は首を傾げる。このときの店員さんがバラエティーモードではなく、不安げな表情だったからだ。
「お客様。差し出がましいようですが、あのようなことはお控えになるようお伝えした方がよいと考えます」
「あのようなこと?」
「先ほど、あなた様が試着されたユニセックスの服を、紅愛様が着たがったことです」
ちらりと店員さんは試着室を振り返る。紅愛たちが出てくるところだった。
「紅愛様は、私のような人間でも名前を耳にしたことがあるアイドルでいらっしゃいます。相応のイメージがあるでしょう。身内と買い物をなさるのはまだしも、自ら男性の匂いを嗅いで悦には入られるのは、ちょっと……」
「まあ確かに、幻滅するファンもいるでしょうね」
「幻滅どころか暴動が起きます」
まるで自分もその参加予定者だと言わんばかりの剣幕に、俺は肩をすくめた。
紅愛の方を見る。ようやく落ち着いたのか、紅愛はいつもの笑みで軽く手を振ってきた。
俺は店員さんに言った。
「まあ俺からすれば――だからどうだと言うのです?」
「え?」
「アイドルとしてのあの子とは違う姿。別にいいじゃないですか」
「……本当に起きてしまいますよ? 暴動」
「だとしても、俺は言わなきゃいけないと思っているんです。だからどうした、と。他の関係者や、大勢の良識的な人たちが、紅愛のイメージ崩壊を諫めてくれたとしても、俺だけはそう言い続けるつもりですよ。だって――」
家族ですから、という言葉を飲み込んで、代わりにこう口にした。
「――嬉しいですから。そういう姿を見せてくれたことが」
店員さんはしばらくの間、呆気に取られたように黙っていた。
そこへ、紅愛たちがやってくる。
「えへへ。お待たせ」
「ああ。落ち着いたか?」
「うん。ばっちり。聞こえちゃったもの。さっきのパ――能登さんのセリフ」
そう言って紅愛は俺の袖を握った。
俺は微笑みで返す。
その様子を目にした店員さんもまた、フッと柔和な笑みを浮かべた。
「素敵なご関係ですね。先ほどは出過ぎた発言をしました。申し訳ございません」
「いえ。おかげで楽しい時間を過ごせましたよ」
「恐縮です。……それでは、恐縮ついでにひとつ」
店員さんの口調が微妙に変わる。俺と紅愛は揃って眉をひそめた。
「もしよろしければ、今後ともこの店をご贔屓にしていただければ、と。私、すっかり皆さんのファンになってしまいまして」
「あ、ありがとうございます。また、いずれ……」
「嬉しいですわ。もしこれから何日も放置されると考えると、今日の感動を忘れないように、うっかりSNSに記録してしまいそうですもの」
「……んふぅ!?」
固まる俺たち。
やっぱりこの店員は只者ではなかった。
隣で紅愛がプルプルと肩を震わせている。
彼女は言った。
「だっ、だったらこのお店の服、ぜんぶ買います!!」
「およそ200万円になります」
「カード一括で!!!」
「やめなさい」
再びパニックに陥りかけた紅愛を宥め、結局そこそこの量の服を購入し、俺たちは店を出た。
「……パパ。あたしどっと疲れた……何で単独ライブよりも疲れてるのかな、あたし……?」
「大丈夫だ紅愛。俺もだ。……けどまあ、おかげで良い買い物はできた。それでよしとしよう」
戦利品の数々を掲げ、俺は苦笑する。
紅愛はぼそりとつぶやいた。
「あたしやっぱりお店の人と――というかあの人と話すの苦手……」
「そこまであの方を忌避する必要はないと思いますよ、姉様」
ふと、後ろを歩く白愛が言った。
彼女は店の方を振り返る。
「あの店員さんは、きっと何があっても私たちの味方になってくださるはずです。そういう目をされていました」
「じゃあ白愛。あの人が最後に言ってたセリフもやっぱり冗談だってこと?」
「いえ。アレはマジでしたね」
「もうこの道通るのやめようかしら」
ぐったりする姉と、それをぞんざいに慰める妹。
双子姉妹の様子に微笑みながら、俺は空を見上げた。
まだ、時間はありそうだ。
「それじゃあ、次は白愛の買い物に行こうか。なにが欲しい?」
「では父様! 私、ぜひ行ってみたいところがあるのです!」
珍しく目をキラキラさせながら、白愛は手を挙げた。
【16話あとがき】
紅愛さん暴走モードは、やはり勝剛の言葉で鎮まったねというお話でした。
どんな紅愛でも受け入れると豪語する勝剛、カッコいいですよね?
ノリノリの白愛が行ってみたいところとは?
それは次のエピソードで。
紅愛って結構ヘンタイさんかな?と思って頂けたら(頂けなくても)……
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