序章
真っ赤に燃える陽が、まさにその姿を地に伏せるその瞬間、その壮絶な光で地表の全てを紅い影が覆い尽くす。
そして紺碧の空と、それを彩る輝く月と星々が顔を出す。
それが自然の理。
それがいつもの光景。
だけど、その日はいつもとは少し違っていた。
東の空が紅く燃えているのだ。
季節は早春。日が沈むとまだ少し冷える。
私は城壁から遥か彼方、本来なら夜闇に掻き消されて見えない筈の戦場を睥睨する。
この世の地獄と呼べる、その悍ましい光景を。
城門の先では勇猛な戦士達が、その命を賭して戦い、そして散っていった。
たとえ手足が千切れようが、腹を切り裂かれようが、そこから臓物が溢れようがかまわずに足止めしてくれた。
彼らはその命を投げ打って、敵の侵攻を食い止めてくれていた。
彼らが稼いだその一秒が、子供達の未来へと繋がっていると信じて、必死に。
私は王として、その献身に応えなければならない。
これ以上奴らの蛮行を許すわけにはいかないのだ。
視線を眼下に下ろす。
そこには美しかった私たちの都の変わり果てた姿があった。
家屋が戦火に曝され、崩れ落ちていく瞬間にまた一人の断末魔の叫びが聞こえてくる。
一人、また一人、その尊い命が散っていく様子が克明に見える。
まさに阿鼻叫喚の地獄だった。
彼らを助けたい。
今すぐ駆けつけ、火を放つ悪魔を引き裂いて、彼らをこの地獄から救い出したい。
だけど、私はその気持ちを押し殺す。
今、私がこの場を離れてはダメだ。
そんなことをしてしまっては、更に多くの人々が犠牲になる。
これまでに流れた血が無駄になってしまう。
それだけは絶対に避けなければならない。
だから、私は目を逸らさない。
この惨劇の一部始終を目に焼き付ける。
私にはこの光景を見届ける責任があるのだ。
口の中に鉄の味が広がるが、そんな瑣末なことは気にならない。
彼らの死に必ず報いる。そして、いずれ必ず復讐することを、ここに誓おう。
彼らの無念は必ず晴らす。
それだけが死に行く国の最期の王として、私の果たせる唯一の責務なのだから。
もう既にご存知だとは思うが、私たちは戦争をしている。
戦争とは言わばお互いに正義を押し付け合う行為。
こちらの主張と相手の主張にうまく折り合いがつけられない。相手が妬ましい。相手が許せない。相手を屈服させたい。
戦争を始める理由なんてのは様々だ。
国家なんてのはみんなワガママな子供みたいなものなのだから、この世界から争いが無くならないのは仕方がないことなのだと思う。
それに私たちも相手の命をたくさん奪って来た。
だからこそ、私たちだけが相手の略奪行為を非難するのは筋の通らないことなのも理解はしている。
そう、私達が住む土地を奪われ、街を焼かれ、大虐殺を受け、女子供に至るまで奴隷にするために狩り尽くされることでさえも、あるいは仕方がないことなのかもしれない。
だけど、そんな理屈で誰が納得できる?
戦争をしているのだから、大切なものを奪われることも覚悟はしている。
…つもりだった。
私の覚悟は、吹けば飛ぶほどに軽いものだった。
歯を食いしばり、迫り来る炎を睨みつけながら私は心の底から思う。
何故、私たちがこんな理不尽を享受しなければならないのだ、と。
こうして実際に蹂躙されているのを目の当たりにしてしまうと、はらわたが煮え繰り返って仕方がない。
今すぐ戦場に飛んで行って、目につく全ての人を八つ裂きにしたい。
私は必死になってその衝動を堪える。
よく復讐は何も生まないという奴がいる。
復讐を果たしても虚しいだけだと声を大にして主張するのだ。
そんなことを恥ずかしげもなく言えるのは、本当に大切なモノを失ったことがない奴か、本物の馬鹿だけに違いない。
かつての私もそんななんの価値もないカスみたいな倫理観を振りかざして、平和を説いていた。
今ではかつてのお利口ぶっていた自分にも、吐き気を催すほどの嫌悪感を覚える。
今なら世界を恨む人の気持ちが良くわかる。
私も今、この世界の全てを根絶やしにしたい程に憎んでいるのだから。
人という種族に対する憎悪が私の中で燻り、不快感が喉の奥から迫り上がってくるのを感じる。
私は玉座の間に戻り、侵入者の到着を待つ。
この城も既に包囲されているのだろう。
この玉座の間にも遠からず攻め入られ、いずれはこの城も陥落する。
その時私は死ぬのだろう。
死ぬのが怖くない、と言ったら嘘になる。
誰だって死ぬことは怖いと思うに決まっている。だからと言って戦わずに逃げ出し、自らの誇りを踏み躙るような無様を、私は良しとしない。
せめて事切れる最期の瞬間まで、私は誰もが恐れる【魔王】として、堂々と侵入者共に立ち向かってみせる。
私は覚悟を決め、迫り来る足音に向き合う。
そして玉座の正面にそびえる重厚な扉が、耳をつんざくような不協和音を立てて、今、開かれた。
開け放たれた扉の先に立っていたのは、十代半ばくらいの一人の少女だった。
その姿を見た瞬間、私は彼女こそが今代の【勇者】であると確信した。
その少女はとても可憐な出で立ちをしていた。
短く切り揃えた透き通るような白金色の髪。
怜悧な刃の如く、鋭さを秘めた瑠璃色の瞳。
陶磁器の様に滑らかな、シミひとつ無い乳白色の肌。
その身にまとうは黄金色に輝く豪奢な鎧だ。しかし、その鎧は歴戦の証か、すっかり返り血に塗れてしまっている。そのため本来の輝きを失ったその鎧は、今や鈍くくすんでしまっている。しかし、それで彼女の魅力が損なわれているかと言うと、そんな事はない。むしろ返り血に塗れた美少女という危険な魅力を引き出している。
そこにはまさに完成された美があった。
背後にある開かれた扉が額縁となり、一枚の絵画のように美しい。
そのあまりの衝撃に、私はつい無意識に口を滑らせてしまっていた。
「「キレイ……」」
しまった。口に出てしまった。
魔王たる私が、人間の、それもその象徴たる【勇者】を褒める?
ありえない。
いや、むしろあってはならない。
もしも、万が一彼女に聞かれていたら……末代までの恥だ。その時は何としても彼女を消して私も死のう。うん、そうしよう。
恐る恐る彼女の様子を確認するが、【勇者】はどこか呆けた様子でこちらを見ている。
どうやら先程の恥ずかしい独白は聞かれていなかったみたいだ。
その事実に安堵し、胸を撫で下ろす。
気を取り直して玉座から立ち上がり、改めて彼女と対峙する。
何度見つめても彼女の美しさは曇ることがない。
気を抜くと彼女に魅入ってしまいそうで、少しこわい。
魔性の美とはこういうもののことを言うのだろう。
そんな可憐な外見とは裏腹に、彼女の表情からは喜怒哀楽といった感情が一切見受けられない。
彼女にとって私は忌むべき存在の筈だ。
少なくとも他の人族は私を見るなり剣を振り上げ襲いかかってくるか、剣を落として泣き出し命乞いをし出すかのどっちかだ。
私はそれ以外の反応を知らない。
それなのに彼女は嫌悪も侮蔑も恐怖も憎悪も私には向けてこない。ただ無表情に私を見つめてくるだけだ。
それは初めての感覚だった。私は油断のならない相手が目の前にいるというのに、どうも出鼻をくじかれたかのような気分を味わっていた。
それと同時に彼女自身に少し興味が湧いた。
私とこれから殺し合いをする者がどんな人物か知るのも悪くない。
よし、少し話をしてみよう。
「クックック、蒙昧な人族の分際で良くぞここまで辿り着いたものだな。褒めてやろう。我こそが魔王だ!さて、矮小な存在である貴様に素晴らしい提案をしてやろう。抵抗する事なくその命を差し出すがいい。さすれば魔王の名の下に、貴様に苦痛無き死を与えてやろう」
やってしまった。
第一声から喧嘩を吹っかけてしまった。
これでは対話どころではないじゃないか。
はぁ…どうして私はいつもこうなんだ。
きっとこれはアレだ。
職業病というやつに違いない。
長年王族として甘やかされ続けた結果、口を開けばつい偉そうなことを言ってしまう。
お陰で今ではもうすっかりと一端のひねくれ者になってしまったみたいだ。はぁ…。
そんな私の挑発も、彼女には届いてないかの如く、まったく反応を見せない。
彼女からは一切の覇気というもの感じない。
本当に生きているのだろうか?
そんな生きる屍のような女を相手に私は微塵も油断していない。
まだ彼女の背後に伏兵が待機している可能性もある。
それに何より【勇者】という存在は本物の化け物だ。
彼女は人族共が私たちを滅ぼすためだけに創り上げ、満を持してこの戦争に投入した最終兵器なのだから。
戦場で勇者と相対した部下の話によると、彼女は恐ろしく冷徹で残忍な性格をしている。らしい。
曰く、彼女は行く手を阻む者はその全てを斬り伏せ、全身を返り血で真紅に染める。らしい。
曰く、彼女はそのあまりの苛烈な戦いぶりから、同じ人間からも怖れられている。らしい。
そんな恐ろしい存在を前にして油断など出来る筈もない。
私は例え相手が勇者一人だろうと決して侮ることない。
慎重に相手の出方を窺うことにした私は、彼女の一挙手一投足見逃すことなく睨めつける。
しばらく無言の時間が続いた後、彼女が返事を寄越した。
極めて平坦な声音で一言。
「……観念して。魔王」
ブチッ…。
余りにも挑発的なその要求に、私は頭の血管が切れる音を確かに聞いた。
溜まりに溜まった憤懣が吹き出すのを感じた。
「それは此方の台詞だ!人間!!」
そして闘いは唐突に始まった。
先程の勇者の発言に激昂した私は、玉座に立てかけていた身の丈程もある宝剣をかかげて、彼女に斬りかかった。
いくら勇者とは言え、魔王たる私に身体能力で勝る筈がない。そう思い、下手な小細工を捨て私は力のままに宝剣を叩きつけた。
切り結ぶ剣先から火花が飛び散る。
剛と大剣を叩きつける私に対して勇者の剣技は見惚れるほどに流麗だった。
叩きつけようが、薙ぎ払おうが綺麗に受け流される。
踊るように戦う彼女に腹が立ち、私はますます力を込めて大剣をブン回す。
膂力では圧倒的に優っている筈の私が、彼女には触れることすら出来そうにない。
私の力では届かない。そう思い知らされる程に、私たちの剣の技量では明確に開きがあった。
だからと言って諦められる訳がない。
私の背中には守るべき幾万もの民がいる。
侵略者とは背負っているものが違うのだ。
私には敗北なんて甘えは許されていない。
剣で勝てなくとも、勝負の勝ち方は無数にある。
私は一度勇者から距離を取る。そして大きく剣を振りかぶり、岩盤でできた床を力一杯えぐる。そして岩の礫を勇者に向かって打ち出した。
これで彼女は回避を選択せざるを得ない。その隙にこの剣で一刀両断してやろう。
そう判断し、踏み込むため身をかがめ、唖然とする。
勇者が飛来する礫など御構い無しに突っ込んでくるのだ。
当然のごとく彼女の身体はズタボロになる。
高速で飛んでくる岩の破片に自分から突っ込むのだから当然だ。
とても正気とは思えない所業だった。
私の元に到達した時、彼女は全身から血を流し、左腕は接着が怪しいくらいに千切れかけている。右のつま先は背中側を向いている。
思わず目を背けてしまう程にボロボロだった。
彼女はそんな呆然としたまま固まってしまった私を床に押し倒す。
彼女の血の雫が私の頬に落ちて、私は正気を取り戻す。だけど私が気が付いた時には、すっかり彼女に押さえつけられている状態だったのでもうお手上げだ。
勇者はただ淡々と、作業でもこなすかのように私を取り押さえる。千切れかけていた筈の左手もいつの間にか元に戻っていて、そこに痛みや苦悶は一切なかった。
私はそこに彼女の狂気を見た。
心の底から彼女という存在を不気味に思った。
そんな私の感情が彼女に伝わってしまったのだろうか。
刹那、彼女が悲しげな顔をしたように見えた。
すぐに彼女から表情は消え失せ、冷徹な声が反響する。
「……観念した?」
もう抵抗するのも馬鹿らしくなった私は、彼女の問いに答えてやることにする。
「ああ、私の負けだ。煮るなり焼くなり好きにすれば良い」
生まれて初めての敗北だった。だから少しくらい私が不貞腐れてしまってもそれは仕方ないことではないだろうか?
「魔王を煮ても美味しくないと思う」
仏頂面の私を余所に彼女がとぼけてみせ、その様子がさらに私を苛立たせる。
「何を馬鹿なことを言ってるの!殺すならさっさと殺しなさいよ!!」
私の返答に対して勇者はながい沈黙で返した。
あー、もう!反応が遅くてイライラする。
あんなにすごい剣技の使い手のくせに、会話のペースが遅すぎる。
「その必要はない」
ながい沈黙を経て、そんな素っ頓狂な答えを返す彼女に度肝を抜かれた私はまともな返事が出来なかった。
「え?」
今なんて言った?
彼女の言葉の意味がわからない。
まったく理解できていない私に向かって彼女がもう一度伝わるように言い直す。
「わたしはあなたを殺さない」
「は?」
素で聞き返してしまった。
これは人族の新しい遊びか何かか?
ああ、そうに違いない。きっと命が助かると思わせておいて、土壇場で絶望の淵に叩き落とすとかそんな所だろう。
私に醜態を晒させて楽しむ魂胆に違いない。
なんて趣味の悪い。
やはり人族とは野蛮で下劣な種族なのだ!
私はあらん限りの憎悪を込めて彼女を睨みつける。
「はっ!殺さないだなんてお優しいことね」
そう吐き捨てる。
「優しくはない」
いつまでもそんな惚けた言葉を吐く勇者に腹が立つ。
私は彼女に口づけを交わすほどの距離にまで顔を寄せ、吠えてやった。
「皮肉に決まっているだろ!私を馬鹿にしてるのか!?良いか、よく聞け人間!人族は今までも散々そうやって私たちを謀ってきた。今更私がそんな甘言に騙されると思うな!!」
そう捲し立てられた彼女は初めて困惑の表情を見せた。
そのことに私はほんの少しの満足感を得ていた。
どうだ見たか。一矢報いてやったぞ、と。
直後、そんな晴れ晴れとした気分は吹き飛ぶことになる。
彼女は少し迷ったような表情を見せた後、決意を込めた眼差しを私に向ける。そしてそのまま私に顔を寄せてきた。
私は何か文句でも言ってくるのだろうと睨み返していると、彼女の唇が私の唇に重なる。そして優しく啄ばまれる。
「ふぇ?」
むせ返る程に甘い匂いが鼻腔を満たす。
ほんのりと頬をあかく染めた彼女が囁く。
「これで敵意がないって分かって貰えた?」
だけど今の私には彼女の言葉は届いていなかった。
脳が機能しない程に蕩けきってしまっていたのだから。
いま、ゆうしゃはわたしになにをした?
くちびるとくちびるが………。
え?本当にどういうこと?
理解できない。
したくない。
頭がこんがらがってしまって、まともに考えることが出来なくなっている。
混乱する私に勇者が追撃の一手をかけてくる。
「魔王」
「な、なに?っていうか今の私のファースト……」
「結婚して」
「は?結婚?けっこんって…え?ええええええええええええええええええええ!?」
特大級の爆弾を投下した彼女は本当に無表情で、その鉄仮面の下に一体どんな思惑があるのか一切読ませてくれない。
たとえ読めたとしても意味がわからないに違いない。
っというか
「私、女なんですけど!?」
私の少し的外れなツッコミが玉座の間にむなしく響き渡る。
空虚に反響する声を聞きながら、私は頭を抱えたい衝動に駆られていた。
何故かこの先彼女には手を焼かされることになる。そんな不思議な確信が、この時の私にはあったのだから。
(まぁ…もうどうでもいいか)
相も変わらず無表情な彼女を見ていると、なんだか悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた。
ふと目線を外に移すと、そこには既に陽が沈みふかい紺碧に染まった空と、散りばめられた星屑が輝いていた。
美しい夜空から、一雫の雨が降り注ぎ、私の頬を濡らす。
その日の雨がやけにしょっぱかったことを、私は今でも鮮明に覚えている。