第2話 翔太、空を飛ぶ
さわさわと音を立てる竹やぶのすき間から瑠璃色の夜空がのぞく。
通行止めの柵の前に立ち、月の光をあびた宝蔵をふりかえる。
ここから、なにかを盗みだしたのだろうか?
いや、さすがに、それはないだろう。
昔ならともかく、今の時代に、木で組まれた蔵に宝物を置いておくなんて考えられない。
――だとすれば、あの人間は、なぜこんなところにいたのだろうか?
ペケがおちつかないようすで鼻をならしている。
どうやら、さっきの人影は見失ったらしい。
引き返してきたペケは、杉の木の根元から細々と立ち上がっている小さな木を見上げた。
高さは翔太の身長と同じぐらいだろう。
杉ではないことは一目でわかった。葉っぱが、いかにも広葉樹という形状をしていたからだ。
だが、それより先に目をうばわれたものがある。
月の光に照らされた、ふたつの赤い実だ。
店で売っているものに比べ小ぶりだったが、りんごにしか見えなかった。
「うそだろ?」
りんごが熟すのは夏の終わりから秋にかけてのはずだ。四月では早すぎる。
とはいえ、それでも、りんごにしか見えなかった。
しっかり見ようと顔を近づけると、あまい匂いにくらくらした。
その幻想的な輝きに目をうばわれた。
――気がつくと、その赤い実をひとつ、もぎ取っていた。
のどが、ごくんとなった。
気がつくと口の中につばがたまっていた。
自分でも驚くほど、食べたくて食べたくてたまらなくなった。
走った後で、のどもかわいている。
かじろうと口を開け、ふと手をとめた。
がん坊伝説を思い出したのだ。
その昔、このあたりに住んでいた、がん坊と呼ばれる子どもが、この神社の境内にあった赤い実を食べて、空を飛べるようになったという言い伝えだ。
その話が本当だったら――男の子ならだれもが一度は夢見たに違いない。
――だが、ありえない話だ。昔話だ。
人間が空を飛べるわけがない。
それに、これはどう見てもりんごの実だ。
しかも、毒々しさとは対照的なみずみずしさだ。
最近は品種改良で次々新しいものが店頭に並んでいる。
春に実のなるりんごだってあるかもしれない。
少なくとも、りんごに似た毒の実があるなんて聞いたことがない。
翔太は自分に言い聞かせ、一口かじってみる。
ちょっと固めだったが、汁が多く、おもったほどすっぱくもない。
あまずっぱい味が、口いっぱいに広がった。
「うん」
うなずいて、もうふた口ほどかじると拝殿に向かう。
二十メートルほど進んだその時、背後の宝蔵付近で何かが動くような気配を感じた。
木の枝にふれるような音も聞こえる。
さっきの空を飛んだように見えたモノか、あるいは出ることがあるというイノシシか?
気味悪さに鳥肌が立った。
少しでも早く離れようと足を速める。
そのとたん、首をふったペケがほえた。
驚いた翔太の手から、赤い実が転がり落ちた。
ふりかえるが、後方から追いかけてくるものはなかった。
「……なんだ、おどかすなよ」
ペケに目をやると、地面に落ちた赤い実にかぶりついている。
「ちぇっ、いじきたないやつだな」
自分のことは棚にあげ、ペケに文句をつける。
翔太の不満など気にする様子もなく、ペケはあっという間にかみくだき、のみこんだ。
それどころか悪びれた様子もなく、翔太を見上げしっぽをふる。
「なんだよ。それは。もっと食べたいなんて言うんじゃないだろうな」
ペケは、もちろん、とでもいうように、小さくほえる。
「だめ、だめ。あした、先生に見てもらうんだ。春に生るりんごの実なんて聞いたことないだろ? 証拠に、ひとつぐらい残しておかなきゃな――さあ、帰るぞ」
ペケは、未練たっぷりに、宝蔵の方角を見つめる。
それでも、翔太が走り出すと、しぶしぶ追いかけてきた。
翔太は疲れていた。
学校までペケと競走したあと、神社の石段をかけのぼり、さらには竹やぶまで走ったのだ。
地面をける足にも力がはいらない。
このままだと、ペケに追い抜かれるだろう、と思ったとき、後ろから強い風がふいて、背中をおした。
その勢いで、走るスピードがぐんぐんあがる。
まるで、体が軽くなったようで気持ちがいい。
しかし、目の前は、長い長い、百段近い下りの石段なのだ。
このままの勢いでは、ころげ落ちてしまう。
翔太は、あわててスピードを落とそうとした。
止まろうとした。
――が、止まらなかった。
そんなはずはない。
たしかに足をふんばっているのだ。止めようとしているのだ。
足もとを見て、あぜんとした。
両足が、地面からうきあがっていたのだ。
翔太は、それがどういうことか、考えてみようとした。
しかし、結論はでなかった。
結論をだすより早く、翔太の体は、そのままの勢いで前に飛びだしたのだ。
まるで、映画かドラマの中の、崖から海へダイビングする自動車のように。
すでに、体をささえる地面はない。
歩いておりるつもりだった石段は、はるか下だ。
〈落ちる!〉
声もあげられなかった。
全身から、血の気がひき、目の前が暗くなる。
だが、翔太が、石段にたたきつけられることはなかった。
風にのった体は、宙にういたまま、すべるように回転をはじめたのだ。
空中で、あおむけになったかと思うとうつぶせになる。
恐怖におそわれながらも、あるはずもない何かにつかまろうと両腕をのばす。
そのはずみに、白い帽子がぬけ落ちた。
帽子は、くるくると舞いながら、下の鳥居に向かって落ちていく。
翔太の体は、まるで風に舞い上げられたゴム風船のように、ゆっくりと回転を続けた。
石段をおおう赤松の枝をすりぬけ、入り口の杉の大木の上を越え、神社の前にある川を横切った。
ほとんど回転しなくなったのは、歴史資料館上空まで運ばれてからだった。
地面まで、三十メートル。いや、五十メートルはありそうだ。
川土手の道路を照らす街灯や、流れる車のライト。そして、家々の灯が目につきささる。
頭も体も、しびれたようにいうことを聞かなかった。
行き先は、風まかせだ。
資料館の先、小学校上空に来たところで、翔太の体は、ようやく下降をはじめた。
☆
しばらくは息もできなかった。
まるで、頭の中に心臓があるようだ。汗が吹き出し、耳鳴りがする。
ふるえが止まらない。力がはいらない。
鼓動もおさまらない。
また、宙にういてしまうのではないかと思うと、体を動かすのも怖かった。
つかめるわけのない地面をつかもうとしておしりが浮いた。
校庭の砂を、そ―っと、ポケットにつめこんでようやくひとごこちついた。
おそるおそる起きあがろうとしたそのとき、目の前の地面で影が動いた。
頭の上で何かが動いているのだ。
それは、三メートルほど上空で、声をあげることも忘れ、じたばたと足を動かしていた。
月の光をあびたペケだった。