第五百四十三話 未来の鼓動
二日間にかけてアトシア大陸に降り注いだ雪は、数日する内に溶けて消失した。人の住んでいないパテオ山脈やジストヘール荒原ではまだ雪は残っているが、街から見える雪景色もまた美しく、人々の記憶に深く刻まれる。
その景色は遠く離れたベネスからでも見ることができた。白く霞んで見えるパテオ山脈をリジーは学院長室から見つめる。
いつもなら綺麗な景色に目を輝かせる彼女だが、今日のリジーはいつもとは違った。白一色の衣装に包まれた彼女は浮かない顔をして窓に手をついていた。
この日はリジーにとって特別な日のはずなのに、胸の奥から溢れる緊張が彼女の表情を暗くしていた。
そこへシーズが大きな花束を宙に浮かせてやって来た。
「おーい、リジー、注文していた花が届いたぞ」
シーズの間延びした声はリジーの耳に届いたはずだったが、全く耳に入っていなかったようだ。シーズが二度呼びかけても、リジーの視線は動かず、生返事すらも返ってこなかった。
白い花束を執務室の机に丁寧に置いても動かない。シーズは上の空なリジーの側に立つと、注意を引きつけるために彼女の手を舐めた。
「ひゃっ! シ、シーズ?」
突然手の甲にくすぐったい感触が走り、リジーは声を裏返して驚いた。だが自分が上の空だったことを教えられ、頼んでいた花が届いていたことに気づくつ柔らかい笑みを見せた。
「お花を運んでくれたのね。ありがとう」
そう言ったリジーはいつもよりゆっくりとシーズの毛を撫でた。当然だがいつもと違う主人の撫で方にシーズはすぐに気づいた。
「リジー、少し熱でもあるのか? いつもより体温が高い気がするが……それに、今日は大事な日だろう? 体調が良くないならジークに日をずらしてもらうようにわしから言うぞ?」
シーズは心配そうにリジーを見上げた。普段リジーの側にいるシーズは、微かな香りや体温から彼女の体調の変化を敏感に感じ取ることができる。そのシーズの勘が最近のリジーは特に安静にしておくべきだと告げていた。
普段なら体調不良などあれば魔法をかければいいが、今のリジーには治癒魔法が効かない状態だ。シーズが過剰なほど心配するのは当然のことだった。
「体調のことは私もよく分かってるから大丈夫。でも、無理だって思ったらジークに連れて返ってもらうから、そんなに心配しないでよ」
リジーはいつも以上に心配するシーズに苦笑いを返すと、魔力操作で花束を軽く持ち上げた。
今日はリジーとジークの結婚一周年の記念日。そして二人きりで外出をする日だ。ジークはすでに魔法学院棟の入り口で待っているのでリジーの準備待ちだった。
「それじゃ、夕方には戻るから、留守の間はよろしくね」
花を携えたリジーが扉に手をかけると、
「ああ、任せておけ。リジーはしっかり羽を伸ばして楽しんで来るがよい」
と既に欠伸混じり返事がリジーの背中に返ってきた。ちらりと振り向いたリジーは、すでに寝そべって微睡み始めているシーズを見てくすりと笑ってジークの待っている外に向かった。
学院棟の外が近づくと同時にリジーの足は軽くなる。ここしばらくは体が重かったがそれすらも忘れさせるくらいにはリジーの気分を高揚させていた。今日一日はジークの腕にしっかりと甘える予定だった。
だがリジー達の旅はすぐには出発させてくれないようだった。
学院棟の出口に差し掛かった時、その入り口ではちょっとした騒ぎが起きていた。通りがかった学院の生徒達は人集りを作り、興味深かそうに騒ぎの中心にいる三人を見ていた。
「みんな、こんなところに集まってどうしたの?」
「あ! リジー様! 大変です、変な子供が二人、武器を持って攻めて来たんです!」
リジーの存在に気づいた女生徒が慌てて駆け寄り、人垣の中心を指差した。そこには大剣を構えた見慣れた双子と彼らに対峙するように槍を構えたジークがいた。
魔法学院に突然現れたヴァーレとメローが大剣を振りかざし、学院長の元に通せと騒いでいたのだ。
女生徒が事情を説明していると次第に他の生徒達もリジーに気づき始め、やがて騒ぎの渦中にいた二人もリジーの存在に気づいて目の色を変えた。
「あ! リジーお姉ちゃん!」
「見つけたわ! お姉ちゃん、勝負よ!」
ヴァーレとメローは不敵な笑みを浮かべると人垣を飛び越えてリジーの目の前に着地した。リジーの隣にいた女生徒は短い悲鳴をあげると地面にへたり込み動けなくなる。だがリジーは全く動じることなく前に出ると、ヴァーレとメローに笑いかけた。
「二人とも久しぶりね。私、今からジークと出かけるんだけど、勝負はまた今度でもいい?」
リジーは手に持ったつばの広い白い帽子と白い花束を二人に見せる。これから彼女がどこに行こうとしているのか、少し興奮している二人でも察することはできた。
「ちょっと待ってヴァーレ! 今日のリジーお姉ちゃんなにか変よ!」
先に冷静になったメローは立ち止まりヴァーレを止めようと呼びかける。
「それは僕達には関係ないでしょ! メローが行かないなら僕だけでーー」
ヴァーレはそう言うと肩に担いだ大剣を振り上げ、リジーに飛びかかろうとした。
だがヴァーレが飛び出した瞬間、隣にいたメローが彼の襟首をつかんで引き止めた。彼女の引っ張る力が強かったのか、喉がしまったヴァーレは空気を押しつぶしたような音を出し、頭から地面にひっくり返った。
「痛たい! もう、何するんだよメロー! 頭から落ちたじゃん!」
涙目になったヴァーレは頭を押さえつつ睨むも、メローはさらにヴァーレの首に手刀を入れて気絶させた。
「これだから男の子は空気が読めなくて困るのよね。女の人の変化くらい見分けられないといけないのに」
呆気にとられているリジー達を他所に、メローは仕方ないとばかりに首を振る。そして白目を剥いている兄を担ぎ上げるとリジーに向き直った。
「その体調だとあたし達の相手はできないね。また今度来るから、その時は遊んであげるね」
メローはリジーに小さく手を振ると小さな魔法具を取り出して姿を掻き消した。嵐のようにやって来て嵐のように去っていく双子だった。
遠巻きで見守っていた生徒達は、突然人が消えた高等魔法を目の当たりにして口を開けたままだった。
「一体あの子達は何しに来たんだろうか」
しばらくしてジークは正気に戻ったように呟いた。彼の問いかけに答えられる者は一人もおらず、唯一事情の知っていたリジーは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「また来るって言ってたからその時にでも聞きましょ。それより、早く行こ?」
リジーは不思議そうに首を傾げたままのジークの手を取ってメローと同じように転移魔法で街の外れまで移動する。
当然のことだが、学院長とその夫で街の騎士団長を務める男が忽然と消えたことで生徒達からは二つの悲鳴が巻き起こった。普通の人間では絶対に扱えない高等魔法を瞬時に使った驚き、そしてもう一つは二人がこれから出かけることに対しての嬉しそうな悲鳴だった。
ジークを連れたリジーがまず向かった先はジストヘール荒原のとある場所だった。
そこは五年前、リジーがストニアと対峙し最期を看取った場所だ。今のリジーがいるのはストニアから生きることを教わったからこそ。ここはリジーにとっては悲しい別れの地でもあり、始まりの場所でもあった。
リジーは白く美しい花を雪面に置くと、ストニアに報告するように目を閉じた。これまでに起きたこと、体験したこと、そして、これから作っていく未来のことを話していく。
時折り吹き抜ける心地よい風がリジーの髪を揺らす。いないはずのストニアがリジーの髪を優しく撫でるようだった。
「お待たせ、それじゃあ、次はどこに行く?」
しばらくして、ストニアにお別れを告げたリジーはジークの手を再び取った。彼女の行きたかった場所は終わり、次は二人だけの時間を過ごすのだ。
ジークは練りに練った行程を頭に思い浮かべると、自信たっぷりに笑顔を見せた。
「お任せください、すでに予定は決まっています。もちろん、ここから先は私がお連れしますよ。リジー様のお身体は、もうリジー様だけのものではありませんから」
そう言ったジークはリジーの体を気遣うように腰に手を回す。彼女の体調の変化を感じ取っていたのはシーズだけではないようだった。
リジーは旅の最後に告げようとしていたことを見事に言い当てられ、驚くと同時に嬉しそうに頬を赤く染めるのだった。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます!
この物語を完結できたのも、ひとえにこの物語を読んでくださった皆様のおかげです!
リジー達の物語はここで完結となりますが、彼女達の未来は続いていくのだと思えてもらえたらとっても嬉しいです!
本当にありがとうございました!




