第四百七十三話 神速を超えて
シーズの魔力強化は外観にも変化をもたらした。美しい毛並みの外側を覆うように半透明な魔力が覆い、風に揺れる。青く美しい毛並みはさらに虹色に光を通した。
だがそれは、ただシーズを守るためだけに広がっている訳ではなかった。ゆらゆらと揺れていた魔力は、シーズの意思とは無関係に混沌に向けて魔法の矢を飛ばし始めた。
シーズが驚く間に青白い魔法の矢が何本も混沌に突き刺さる。
混沌も神獣を覆った魔力が攻撃して来るとは思っておらず、光速で飛んできた矢を避けることができなかった。
「痛え! このっ! 小賢しい真似をしやがって!」
アイルの魔力を使った攻撃ではないので致命傷とはならないが、体を貫かれた痛みは襲って来る。
体に何本も刺さった光の矢を混沌は苛立ちを隠さずに引きちぎる。その瞬間をリジーは見逃さなかった。
混沌が腕を振り、僅かに視界が隠れた時を見計らってリジーは前に飛び出した。
リジーを見失った混沌は、勘を頼りにしゃがんでかわし、反撃に黒剣を振り上げた。黒剣はまっすぐリジーを捉えるが、混沌の手にリジーを切った感触はなかった。
黒剣に切られる直前、リジーは後ろに下がって回避し、混沌に切らせたように錯覚させた。
そして、間髪入れずに再び踏み込んだリジーは混沌の首を狙って振り抜いた。
だが混沌は黒い霧に体を溶かして逃げ、リジーの間合いから逃れた。
殺気の篭った剣が鋭く空気を切り裂く。逃げるのが少しでも遅ければ胴体を切り離されていただろう。少し前の痛みを思い出した混沌は既に修復されている腹を撫でた。
『直接やりあっても俺の攻撃は絶対に当たらんな。まず剣の技量が違う。悔しいが、小娘の方が格上なのは間違いないな』
混沌はじりじりと後ろに下がりながら呟いた。
今は膠着状態だった。リジーから攻撃を受けても痛いが死ぬことはない。致命傷の攻撃を持つ神獣だけに注意すればいい。
だがその一方で、少女の戦闘技術が高すぎるので、混沌も少女に傷一つ負わせることができない。思いの外長引きそうな戦闘に、混沌は盛大にため息をついた。
リジーもまた混沌の厄介な戦法にため息を吐きそうになっていた。
「体が霧に変わるなら剣をいくら降っても当たらない……体を固定したところを切るしかないようだけど、どうやって固定させたらいいの?」
直前の攻防を振り返ったリジーは、今のままでは攻撃が当たらないのは理解していた。
何度も切ればもちろんその対策がされることは分かっていたが、剣の攻撃そのものが無効化されるとは思っていなかった。
リジーが何とか混沌の隙を作っても、シーズが攻撃する瞬間に霧化してそれを避けられてしまうのは目に見えていた。
混沌の出方を伺うために何度も切りすぎたとリジーは少し後悔を挟んだ。
何か方法はないかと、リジーはちらりと後ろを振り返る。
アイルの魔法を準備していたシーズはリジーと目が合うと申し訳なさそうに首を振った。最後の一撃を当てるため、相当の集中を強いられているシーズにできることはなかった。
混沌の霧化の阻害と拘束を一人でやらなければならないようだった。
だがその逆境が、リジーの決断を早めた。
策は既に思い浮かんでいる。問題はそれに集中するために防御が疎かになってしまうことだった。
それでも、他に策が思いつかない以上やるしかなかった。
覚悟を決めたリジーは、神器の魔力を解放して攻撃に移った。
さっきとは違い、混沌の視界を撹乱するように周囲を駆け回る。
その中で混沌の視界が外れた一瞬を狙って、背後から神速の突きを放って混沌を抉る。その後反撃が来る前に離れ、再び距離を取って混沌を撹乱する。
目まぐるしく変わる攻撃に混沌は苛立ちを隠せなかった。
不用意に近づかなくなった少女は、視界から消えたと思えば背中を刺したり足を刺してくる。その過程で霧化による回避も何回か失敗していた。
リジーが霧化ができない状況を確認しているのは明らかだった。そのせいで少女は鬱陶しい虫のように飛び周り、ちくちくと刺してくる。混沌にとってこの上ないくらいに面倒な相手だった。
『くそっ、ちょこまかと動きやがって鬱陶し、痛え!』
再び視界から消えたリジーに背中を大きく切られる。
引きつる痛みに歯を食いしばって、魔法弾を雨のように降らせた。
だが少女の動きは混沌が目を見張るほど速かった。まるで少女の体だけ何倍も時が速くなったように動き、雨粒のように襲う魔法弾を回避し姿が消える。その次の瞬間、混沌は足に走った鈍い痛みで膝をつかされた。
『畜生、あの小娘、ただの人間じゃねえ。一体なんなんだあの速さは……くっ』
いつしか苦い表情になっていた混沌はリジーへの評価を改めていた。
アイルを殺す前の腹ごしらえと軽く見ていた相手はアイルに匹敵する厄介な人間だった。
混沌の霧化は簡単な魔法ではない。膨大な魔力を消費してようやく実現できる絶対回避の魔法だ。
それには大きな弱点がある。全身を霧化しての維持が難しいことと、不意を突かれるとその場所の霧化が間に合わないことだ。
リジーに散々切られ、既に弱点はバレていると混沌は悟っていた。それならわざと隙を晒し、少女が飛び込んできたところを狙い撃ちしよう。
新たに背中を刺された痛みで仰け反った瞬間、混沌は地面に魔法弾を打ち込んで地面を巻き上げた。
混沌に考える余裕がなくなったと感じたリジーは、再びがら空きとなった混沌の背中を襲った。
「もらったぜ!」
背中に全神経を注いでいた混沌は、リジーの気配を察知した瞬間に黒剣を大量に出現させた。そして、まっすぐ飛び込んできたリジーの全身を串刺しにした。
勝った、と歯を見せた混沌だったが、すぐに感じた違和感に眉根を寄せた。
生身の人間なら傷口から血が出て当然。何万年と見てきた人間の壊れる様に例外はない。だが少女は黒剣で穴だらけになるとその体はまるで霧のように揺らぎ始めていた。
その違和感に気付いた時には、混沌は既にリジーによって胸を刺し貫かれていた。
魔法で作った偽の体を囮に、リジーは混沌の視界外からその胸を穿ったのだ。リジーは瞬時に大量の魔力を流し込み、混沌の体を固定した。
「今だよ! シーズ!」
「いいぞリジー! くらえ!」
混沌の体を固定したまま持ち上げたリジーが叫ぶと、既に準備を終えていたシーズが混沌の真下に転移した。
そして、シーズから放たれた光速の魔法弾は、混沌を巻き込んで空へと昇っていった。




