第四百六十一話 完全なる存在
それは完全な油断だった。騎士団に所属して、戦いの技術はそれなりに身につけた。そのお陰で小隊を任されるくらいにまでなり、数年生き抜いてきたのだ。小競り合い程度では死なない自信があった。
ジークと喧嘩別れした、いや、俺が一方的に突き放してしまった後だから心が乱れていたことも原因の一つだろう。
だからこそ俺は見落としてしまった。敵勢力が武装集団だけでないことを忘れていたのだ。
大国ともなればそれに比例して不満を抱く者も増える。抗争を直接起こした人間にも家族がいる。その家族は身内の死にただ悲しむ者もいれば、国に対して敵対心を抱く者もいる。
それは村を盾に戦った敵を返り討ちにし、死傷者の確認をしている時だった。
俺の背中に短剣を突き刺したのは単なる村娘だった。最初は後ろから抱きつかれただけのように感じたが、背中から走る衝撃が全身を支配する頃には、俺は地面に仰向けになって倒れていた。
背中に広がる血の感触が暖かく感じるが、それとは反対に体の芯は冷たくなり始めていた。
頭上には憎悪に歪み、狂気の笑みを貼り付けたおさげの娘が見えた。
「あはは! 騎士団の人間を殺してやったわ! お兄様、仇は討ちましたわ!」
血が滴る短剣をうっとりと撫でた娘は、目尻に溜まった涙を拭い、首を切って自害した。俺の仲間が捕らえる前に。
「隊長! しっかりしてください! すぐに救護者が来ますから!」
部下が涙声で叫び俺の手を取る。手袋越しなのに力強く握られた手は暖かかった。
大丈夫だ。背中をちょっと刺されただけだから、すぐに傷も塞がる。何も心配はいらない。
俺は泣きそうな面をした部下を慰めようとした。だが口は思うように動かず、ひゅうひゅうと掠れた呼吸音しか出せなかった。
「分かってますとも……また王都に戻って一杯やりましょう! それで、ジークさんとも仲直りしましょうよ! だからこんなとこで死なないでください! 隊長!」
霞む視界の中、部下の必死な呼びかけが遠くから聞こえた。
何をそんなに悲しそうにしているのだろうか。
俺は死なない。まだやり残したことが沢山ある。リリー様のお顔も見納めていない上に、ジークに謝ってもいない。村への仕送りもまだ途中だ。
こんな傷、ちょっと寝ればすぐに良くなる。そう気楽に考えても俺の意識は深く沈み、闇に閉ざされていった。
それからどれくらい経ったのか、俺が目を覚ました場所は真っ暗な空間だった。
何もない。暗い空間を意識だけが漂う。手足の感覚も全くない。体を失い、意識だけが暗い水底に浮かべられている感覚だった。
俺は本当に死んでしまったのか……それなら、ここは噂に聞く死の国か?
周囲に意識を向けた俺は、寂しい空気に当てられたように胸がざわついた。体などないにも関わらず、焦燥感と押し迫るような感覚に支配される。
死にたくない。俺はまだ生きたい。生きて偉業を成し遂げたい。誰にも忘れて欲しくない。
虚しい心の叫びだけが俺の心を支配した。
どれだけ叫ぼうとしても声は出ない。どれだけ胸を掻き毟ろうとしても、掻く胸もなければ手もなかった。意識を落として眠りにつくことも許されない。ただ暗闇に恐怖するだけの意識が漂う。俺が狂うための世界だった。
だが諦めかけたその時、どこからともなく声が聞こえて来た。
『哀れで醜い人間よ。力が欲しいか? わしの力があれば、お前を生き返らせることは簡単なことだ』
俺の意識に直接語りかけるように鈍く響く。声の主からは邪悪な感情が感じられた。
俺を生き返らせると言っていたが、それはただの甘言で悪事を働かせようとする意思が見え見えだった。
だれだ!
誰もいない空間に向かって意識を飛ばした。今話しかけているやつは間違いなく悪いやつだ。俺は死んだ身だが、誰かの悪意のために働く気は無かった。
『わしは完全なる存在。光を従える者、ハイドだ。お前はわしと似ておる。強欲で、欲しいものは奪って手に入れたいと考える部類の人間だ』
だが返ってきた声に息が止まりそうになった。ハイドと言う名は聞き間違えるはずがない。
ハイドは俺達アトシア神聖王国を支える先導者の一人だ。彼は死者との交流ができると言われているので、死んだ俺と話すことは可能だろう。
それが余計に解せなかった。人々の中心に立つ者が自らを強欲だと言い張り、俺を同類だと言ってくる。
俺は良識ある人間だ。喧嘩別れしたからと言ってジークからリリーを奪う気はない。ジークとは唯一無二の親友で、リリーはこの国の王女だ。ただ二人の幸せを素直に祝福出来なかっただけなのだ。
見えない神に強く訴える。
しかしそれ以上俺に言葉が返ってくることはなかった。代わりに心の底から湧き出るような怒りが俺を支配していく。
俺がこんな目にあっているのは俺を刺し殺した村娘が悪い。その娘は死んでしまったから罪を背負うのは娘の親兄弟だ。生きているなら殺してやる。
そして、俺が村娘に遅れを取ったのは、ジークがリリーを俺から奪ったからだ。親友だと信じていたのに、あいつは俺から全てを奪っていった。許せないーー
真っ黒な感情で塗りつぶされていく。俺の言葉であって俺の気持ちではない。存在しないはずの頭が割れそうになるくらいに締め付けてきた。
怒りと痛みでどうにかなりそうになっていると、頭上に一筋の光が降り注いできた。
暗闇にいたから余計に眩しく感じる。ここから這い出せば、狂いそうな怒りの渦から逃れられるかもしれない。
希望をのせて俺は光の先へと浮上した。
そして、光に包まれた俺は、気がつけばアトシア神聖王国を見下ろせるベルネリア山の頂上に立っていた。
傷などない。そればかりか、体の内から溢れるような魔力で満たされていた。激しい怒りは残ってはいるものの、不思議な高揚感で満たされていた。




