第二百七十四話 紅神の工作
ジークが俯いてからしばらく時間が経った。物音ひとつしない部屋では、それが永遠に続くような長さに感じた。
その間、私はジークの真剣な顔を見ながら先程の言葉に意識を向けていた。
アイルがジークの記憶を書き換えたこと、それは普通に聞けば悪いことのように思う。
改竄とは不都合な事実を隠すために行うはずだからだ。
アイルがジークを殺した事実を歪めるため、別の記憶を植え付けるなら話は分かる。しかし、実際はその逆。何か別の意図があっての行動とも捉えることができる。
「一つ、アイル様の名誉のために言っておきますが、彼女は私を騙すつもりで記憶を弄った、という事ではありません」
考えていることが顔に出ていたようで、ジークは私の思考を的確に読んだように言った。
絡ませた指に顎を乗せるとジークはさらに言葉を続けた。
「実はこの夢、私が昔の記憶を思い出すためと、これから来る敵を知らせるためにアイル様が仕込んでいたものだったようです」
そう言うと、ジークは長い息を吐き出し水で喉を潤した。それに合わせるようにシーズが私の膝で起き上がり、大きく伸び上がった。
「話が見えてこんの。あの女は一体何を考えておる? 敵がいるなら初めから伝えおいた方いいに決まっておる。何故そんな周りくどいことをする?」
大きな欠伸を挟んだシーズはジークに言った。私もそれに同意して頷いた。
シーズの言う通り、敵が既にいると分かっていながら事実を隠蔽するのは不自然だ。
ジークもそれは当然とばかりに頷き、シーズと私を交互に見ながら言った。
「ええ、最初は私も同じ疑問を持ちました。ですが、これは私を守るために書き換えたようなのです」
混沌は人々の負の感情が集まり、一つの意思を偶然手に入れてしまった人の成れの果て。そのため強い支配欲を持ち、暴走を始めると神でも抑えることは難しいらしい。
ジークの時代に顕在化した混沌は、ジークの親友の死体に乗り移った。ベオの欲望を忠実に引き出した混沌は、その欲に導かれるように街や村を滅ぼしたと言う。
当時、ハイドと戦争していたアイルにとって、ベオの存在はハイド以上に危険因子だった。
しかし、ベオは期せずさてハイドを殺し、大陸戦争を終わらせた。そして、アイルも襲おうとした所を返り討ちにした。
そうして世界から神ハイドの恐怖と混沌による脅威が取り除かれ、平和が訪れたはずだった。
「しかし、混沌はこの世から完全に消えた訳ではありませんでした。次の種が芽吹き、再び世界に顕現する機会を窺っている、と」
そう淡々と話すジークを私は視線を落として聞いた。
神などと大それた存在が関わるので嫌な予感はしていたが、事態は私の想像を遥かに超えた最悪が待っていた。
アイルがジークを屍人として復活させた理由の一つに、敵の接近を知らせる目的があった。それが意味している答えは一つ。混沌神の復活が近いと言うことだ。
「つまり、天教会にいる本当の敵は、混沌神……あるいは、それに類する力を宿した者、ということですね?」
ジークの説明がひと段落した頃を見計らい訊ねた。私を真剣な表情で見つめていたジークは無言で頷く。
「そうです。そして、私の記憶を書き換えた理由は、私に早まった行動をさせないための予防線でした」
「予防線?」
私の聞き返しにジークは再び相槌を打ち、困ったような苦笑いを見せた。
そんな珍しいジークの顔に瞬間的に私の胸が脈打ったが、ジークは気づかなかったようでそのまま続けて言った。
「死んだ当時の私がこれから来る敵を知っていれば、恐らく一人で乗り込んでいたはずですからね」
無謀もいいところです。と頬を掻いたジークは自嘲気味に笑った。
ジークは新たな力の継承者を導くために使役されている屍人だ。混沌に立ち向かうには継承者の力が必要不可欠らしい。
しかし、ジークは絵に描いたように愚直な人間で、それは死んでも変わっていない。そんな彼が世界の危機を事前に知ってしまうと、継承者が現れる前に一人で挑んでしまう。
彼は替えのきかない唯一の神の使いなので、世界を救う前に消滅されては意味がないのだろう。
そんなことを考えていると、シーズの不機嫌な声が聞こえた。
「思い出したぞ、ジーク! あの時はよくもわしとエンカを檻に閉じ込めてくれたの?!」
膝を蹴られる衝撃の後、シーズが小型化のままジークに飛びかかって行った。彼の頭に飛び乗ったシーズは小さな前脚で連続で叩いていく。
「シ、シーズ、待て。あの時のことは以前に詫びただろう。今更思い出してなぜ飛びかかって来る!」
シーズのパンチを受けまいと頭を手で防いだが、シーズはジークの手を魔力操作で開き、そこに再び前足を振り下ろした。
ただ不機嫌とは言っても本気ではないようで、高速のパンチも当たる直前でほとんど止められていた。
それでも嫌そうにしていたジークは無理やり剥がそうとシーズを持ち上げる。しかしシーズは服の裾に爪を立てて引き剥がされまいと踏ん張っていた。
「うるさい、黙って叩かれておれ! あの後わしがどれだけ心配して、どれだけ後悔したと思っておる! 忘れたとは言わせんぞ!」
袖口にかけた爪を器用に外されたシーズはムキになって大型化し、ジークの上にのし掛かった。
彼の肩と足を踏んで押さえつけ、さっきの攻撃を続けようと、ジークの頭と同じくらいの前脚を持ち上げる。
さっきまでとは攻撃の威力が違う。当たればただでは済まない。
「ま、待てシーズ!」
「シーズ止まって! ジークが消えてしまいます!」
咄嗟に声が出た私は、シーズの攻撃を止めるためジークとシーズの間に割って入ろうとした。
しかし私が動いた瞬間、シーズは私を横目に見てニヤリと笑った。そして次の瞬間には小型化して私の足を掬った。
突然軸足を浮かされ、支えを失った私はベッドに倒れていたジークの胸に飛び込んでしまった。
「リ、リジー様!?」
頭上からジークの驚く声が聞こえたが、私はそれどころではなかった。
目の前にジークの広い胸板がある。シーズの悪戯だったが私は意図せずしてジークに抱きついてしまっていた。
それを意識するだけで胸の鼓動が限界まで早くなり、顔が熱くなって湯気が出そうになった。
「リジー様、大丈夫ですか!」
緊張して固まっているとジークが私を抱き起こした。
宝石のような青い瞳が至近距離で私を映す。その中に緊張した様子の私が青い鏡から見つめ返していた。
私は今はジークの膝の上で抱き寄せられている。どこに手をついてもジークに触れてしまう。その考えが浮かぶ度、頬が熱くなっていく気がした。
「だ、大丈夫だから。そ、そろそろ降りても、いい、かな……」
目の前のジークから少し視線を落として言ったが、恥ずかしさで声が萎んでしまった。
さっきまで彼と話すのも平気だったはずが、今は一言発することも難しかった。
私の背後ではシーズが床を転げ回って笑っている声が聞こえた。




