第二百六十九話 紅神の警告
アイルは短絡的なハイドとは違い慎重な神だ。常に世界の先のことに目を向け、危険が迫ればいち早く対応して表面化を防ぐ。
そして彼女が存在し続ける以上、それはずっと続いていくものと思っていた。
しかし、アイルは遠からず命が尽きてこの世からいなくなる。
そして世界に残る厄災の種に対処するため、星の雫を継承させる仕組みを神殿に備え付けたと言う。
継承の条件は神器に認められ、困難に立ち向かえる実力があること。
私の役目は力を受け継いだ者を正しく導き、厄災を止めることだった。
「お主に酷なことを頼むことは分かっておる。だが、世界のため、協力してはくれぬか?」
しばらくの沈黙の後、アイルは私の白い手を取って小首を傾げた。
しかし、私はその手を振りほどき立ち上がった。
確かに世界の行く末は大事だが、今はリリー様のいない世界。そしてベオも消滅し、私も一度死んだ身だ。
しかも次の継承者が現れる時期も、次の混沌が芽吹く時もいつになるか分からないと言う。それは数年後かもしれないし、数百、あるいは千年以上も経つかもしれない。
そんな長い時をリリー様のいない世界で、誰かも分からない者を待ち続ける。そんな酷な使命を前に、この世に残る意味が見出せないでいた。
「アイル様、私にはその頼みを引き受ける利点が見受けられません。地の魔核を受けた時はリリー様を助けるためでしたが、今回の頼みはそうではありませんよね」
私はアイルを突き放した。それが世界の破滅に繋がると分かっていても私にはどうでもよかった。
彼女の話は聞くだけ聞いた。後はこの体の解除をどうにかするだけだ。
そう思い、俯くアイルを置いて神殿の出口に向かおうとすると、
「ここは妾の作り出した夢の世界。お主が死んでからは既に数千年も時が立っておるというのに、どこに行くと言うのじゃ?」
と少し声の低くなったアイルに腕を掴まれ引き戻された。
だが私はアイルの言った言葉を理解するのに意識を割かなければならなかった。
夢の世界? 私が死んでから数千年も経っている?
「それは一体どう言うことですか……っあ!」
そうアイルに言いかけて、私の頭の中に流れてきた様々な記憶に驚いて声を上げてしまった。
星神殿の守り人として存在し続けた記憶。アイルの頼みでも絶対に従うまいと、どの継承者にもついて行かなかったこと。この神殿でリジー様と出会ったこと。新しい時代でリジー様と過ごした日々。
今までどうして忘れていたのか。
私は今の今までストルク王国でリジー様に仕えていたはずだ。アイルが今の時代にいるはずがない。
何故なら、あの時アイルは理由を告げることなく、ただ継承者を導けとだけ言い残して消えたはずだった。
こんなに丁寧に話してくれた記憶はない。
「これは、夢? それなら、アイル様も幻、なのですね?」
目の前に佇む少女に小さく問いかけた。
アイルは数千年前に力を使い果たして消滅したはず。しかしその認識が間違っているとしたらーー
「夢だの。じゃが、妾は幻ではない。本物のアイルじゃよ。時期が近づいてきたのでな、こうしてお主の夢に潜り込んだのじゃ」
アイルは私の言葉を否定するように首を振り、浮き上がって私と視線を合わせた。
赤い瞳は私を真っ直ぐ捉えて離さない。それが嘘偽りのない話なのだと直感できた。
「本当に……アイル様なのですか? 時期が来たとはどう言う意味です?」
彼女が未だに存在していることも衝撃だったが、それよりも後半の内容が気にかかった。
さっきまでの会話で得た情報と照らし合わせればよかったが、本能的に私はアイルに聞いていた。
「そのままの意味じゃの。混沌が目を覚ます時期が迫っておる。その対策を伝えるために来たのが……お主を屍人にした二つ目の理由じゃ」
アイルはそう言うと両手で私の頬を挟んだ。窄まる視界にアイルの顔だけが映り込む。
その吸い込まれそうな瞳に黙って従っていると、アイルはいつにも増して真剣な表情になった。
「ジーク、お主に新たな命令を下すぞ。今の主人のリジーを今まで以上に支え、そして導くのじゃ」
私と目を合わせると、アイルは静かにリジー様の名を口にした。それだけで私が今どの時代にいるのか、はっきりっと理解できた。
だが彼女の命令は今回は聞かなくても怒られないだろう。
「言われなくとも、私はリジー様のお側を離れるつもりはありませんよ。この身が果てるまで、どこまでもついていくつもりですから」
アイルの挟む手から抜け出した私は彼女から距離を取って言った。
この二年の間、リジー様に仕え続けた私にとって、彼女に従うことは、最早呼吸と同じになるまで深く根付いていた。
「そうか、どうやらうまく吹っ切れてくれたようじゃな」
アイルは私の返答に意外そうに目を細めた。私がリリー様への後悔を乗り越えたことが余程嬉しいのか、私の肩を叩いてはしきりに頷いていた。
「今のおぬしなら大丈夫そうじゃの。のう? お主、今はリジーのことが異性として好きなんじゃろう?」
アイルは悪戯するように私の肘を指で突いてくる。
何故彼女が私の気持ちまでも知っているのか分からなかったが、図星を突かれた私は咳払いで胡魔化すことにした。
確かに私はリジー様のことが好きだ。バシモンク山で一晩過ごしたあの日から、私の中でリジー様が居座るようになった。
その想いは二年かけてゆっくりと成熟し、自分でも自覚できるほどになっている。
「その話は今は重要なのですか? 要件が済んだのでしたら、もう目覚めさせて欲しいのですが?」
私が顔をしかめて問いかければ、アイルはそれに応えるように笑った。柔らかい音色を響かせて笑うアイルは本当に嬉しそうだった。
「照れずともよい。恋というのは突然やってくるもの。それに、恋を知った人間はさらに強くなれる可能性を秘めておる。お主も、リジーも、のう?」
今はその思いを育むが良い。進むも止まるもおぬしの自由じゃーー
そう言い残すと、アイルは薄くなり始め、やがて神殿から姿を消した。
それと同時に私の視界も暗転を始め、徐々に私の意識も遠のいて行った。




