第二百六十一話 姫と騎士
ジストヘール草原は季節が巡る中、緑の草原が白銀に染まる時期がある。
元が草原であるため、雪が積もれば見渡す限りの銀色の世界だ。
何にも汚されない美しい世界。それを目にした人はその光景の美しさに息を飲む。何度でも目にしたいと思うほど、ジストヘールは調和の取れた草原だった。
しかし、今はその白い世界が赤と黒で染まっていた。どの方向に目を向けても誰彼の骸が転がっている。そこはまさに血で彩られた紅の世界。死者達の集落となっていた。
神ハイドとアイルが敵対してから頻発していた両軍同士の小競り合い。その終着点がジストヘール草原での戦いだった。両軍の数はほぼ互角で、全面激突した戦いは双方の戦力がなくなるまで続いた。
この戦いに負ければハイドによって蹂躙されて世界は終わる。
アイルの軍は、ハイドが操った人々やアトシア王国のリリー姫を解放するため、その命を燃やした。
そして、この戦いで最後まで生き残った二人、それぞれの神より力を授かったリリーとジークは死者達の観衆の中、最後の戦いを始めていた。
吹雪く雪の中を柔らかい黒髪が翻る。
無表情な赤い瞳は、無言のまま青い剣を持つ青年に斬りかかった。
赤と青の剣が激しくぶつかり甲高い音が雪原に響いた。
互いの力が拮抗し、押し合う中で二人の顔が軽く触れる程にまで近づく。
「はあっ、はあっ……リリー様! 返事をしてください、リリー様!」
ジークは苦しそうな表情をさらに歪ませ、目の前の少女に向かって叫んだ。
彼は戦いが始まってもなお、二つの選択の間で苦しみ続けていた。
リリーを殺さない限り、彼女はハイドに縛られ続け、世界が滅びる。しかし、彼女を殺せば彼が愛を誓った者は永久にいなくなる。そして、世界を救うことは、リリーの望みでもあったということ。
それを知っていたジークだが、それでもなお彼女を救う手立てはないか、と戦争が激しくなる中で模索していた。
だが、神アイルですら見出せなかった解決方法を、ジークが見出せる訳もなく、最後の戦いが始まってしまったのだ。
そんなジークの悲痛な叫びはリリーの顔を少し歪ませるだけだった。再び表情がなくなったリリーの猛攻が始まる。
しかし、元々華奢な体で一国の姫として育った彼女に戦闘技術はない。今まで戦って来られたのは人知を超えた力、天の魔核と神器の力による恩恵だった。
そのため、同じ力を持ち、王国一の騎士だったジークに勝てるはずがない。
ジークに攻撃を防ぎ続けられ、彼女の体は既に限界に達していた。
魔力を使用しすぎた精神的な疲労も、神器を振り続けた疲労も相まり、彼女の動きは徐々に鈍くなっていく。
そして幾度と攻撃が交わった頃、ついにジークの剣が彼女の剣を弾き飛ばした。
空に舞った神器は赤い軌跡を描いて二人の近くに落ちた。荒い息遣いをしたジークは剣をリリーに向けたまま立ち止まる。
「リリー様、申し訳ございません。このまま貴女をアイルの元に連れて帰ります。彼女なら……あるいは殺さずに解除する方法を見つけられるかもしれません」
ジークはこの場にいないアイルに祈るように言った。
今はどうすることもできなくても、何年かかってでもリリーを助けてみせる。その間は彼女の自由を奪うことになるが、その分私が彼女を支えてみせる。
彼がそう覚悟を決めた瞬間、目の前に立つ最愛の女性は彼に優しく微笑んだ。
「リリー様……」
今まで無表情だった彼女の変化にジークは息を呑む。
王城で見た柔らかな微笑み。辛い時にもジークを何度も立ち上がらせた彼女の笑顔がそこにあった。
「このまま……何も言わずに死んだ方が良かったのかも。でも、貴方の前だと不思議ね……その覚悟すらも揺らぎそうになるもの」
しばらく無言で視線を交わらせていたリリーはクスリと笑って言った。
そして、その愛らしさにジークが言葉を詰まらせた瞬間、リリーは真っ直ぐ彼に飛び込んだ。構えを解かず、前に突き出た剣に向かって。
それはジークが僅かに気を抜いた瞬間だった。
突然のことで動けなかったジークは、両手を広げたリリーの胸に、自身の持つ剣が突き刺さるのをただ見ていることしかできなかった。
剣から手に伝わってくる鈍い感触。その手にはらりと垂れたリリーの髪は、ジークを優しく撫でるようだ。
リリーは地面に顔を向け、ジークはリリーの胸を凝視する。そして僅かに訪れる静寂。
しかし、それはジークの叫び声ですぐに破られた。
「リリー様、リリー様! 何てことを……!」
剣を離せば彼女は死ぬ。神器で急所を貫かれたのだ。彼女の治癒魔法でも助からないだろう。
それが本能的に分かっていたジークは剣から手が離せず、その場でリリーの名前を呼び続けた。
途中から溢れた涙はジークの頬を伝い紅い雪を融かした。
その涙を下から伸びてきた小さな手が拭う。
「ごめんね……ジーク。あなたに辛い思いさせちゃった、わね」
俯き血を吐いていたリリーは顔を上げてジークに微笑んだ。雪のように白い服に胸元から赤色が広がっていく。
だがリリーは気にすることなく近づき、血の涙を流すジークの顔に両手を添えて拭き取る。
その入れ替わりのように、今度はリリーの頬に涙が伝い落ちていく。
「でもね、私は今、とっても幸せよ……だって、あなたの腕の中で眠れるんだもの……」
泣きながらはにかんだリリーは、剣が刺さったままジークの首に両腕を回し、その小さな唇を重ねた。
彼女の最後の口付けは、今までで一番静かで、柔らかくジークを包み込む。一瞬驚いたジークだったが、すぐに目を閉じて彼女の肩を掴んだ。
幸せに結ばれるはずだった二人の最後の時間。リリーもジークもその一瞬の時を忘れないよう、全身で温もりを感じた。
そして、血と涙を混ぜあった二人は自然と顔を離した。
「リリー様……愛しております。ずっと、これからも……」
彼女はもう助からない。
しかしそれでも伝えなければと、ジークは何度目かの告白を彼女に捧げた。
それを聞いたリリーはジークの腰に手を回し、満足そうに微笑んだ。
「ジーク、こんな私なんかを愛してくれて、ありがとう。私もジークのこと、愛してるいるわ。だからーー」
小さく囁いたリリーだったが、最後まで言葉が続かず力が抜けるように地面に倒れた。
ジークは震える手で少女の華奢な体を抱き起こした。
それに応えるようにリリーの手がジークの頬にそっと触れる。その手に力はなく、既に冷たくなり始めていた。
「ねぇジーク……どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
静かな草原に少女の涙ぐむ声が囁いた。
倒れる前の笑顔はもうない。ただ静かにリリーは泣き続けた。
ジークはその問いには答えられず、彼女を抱く腕に力が入る。
薄く目を開けたリリーとジークの目が再び交錯する。燃えるような赤い瞳には、血にまみれたジークが映り込んでいた。
「だから……ね、ジーク。私のことは忘れなさい。私の騎士だったことも、全て。それが、最後の命令よ。どうか、貴方だけでも幸せに生きて……」
そう言った彼女は最後に小さく笑い、静かに目を閉じた。
ジークに触れていた冷たい手が地面に垂れる。
安らかに眠るその顔は動かない。もうあどけなく笑うこともない。
そして、この白い世界で生きているのはジークだけとなった。
彼はリリーを優しく地面に下ろし、胸に刺さった剣を引き抜く。血に濡れた刀身が碧く瞬いた。
「申し訳ありませんリリー様……私はその命令に従えそうにありません」
静かな雪原の中、ジークの囁くような声がリリーの頬を撫でた。




