第百七十五話 灰王の目覚め
目が覚めるとそこは薄暗い見慣れぬ天井だった。
さっきまで昔の夢を見ていた気が、するがどんな内容だったかはすでに忘れていた。
ここはどこだろう?
そう思って首が動く範囲で周囲を見回すと、ボロボロなベッドが数台置かれた窓のない部屋が目に入ってきた。
どこかの地下だろうか。湿った空気と地上にはない冷たさが感じられる。微かな潮の香りもするのでここは海辺の地下のようだ。
「てことはここは第二拠点か、助かった……」
そこまでぼんやりと考えた僕はようやく今の状況が掴めた。
僕らは何とか戦場を離脱して撤退地点まで逃げることができたようだった。
生き延びたことに安堵した僕は無意識に頭を掻いていたが、その頭を掻く自分の右腕が繋がっていることに気づいた。
「右腕は……確かリジーに斬られたはずじゃなかったか、いっつ!」
斬られたはずの右腕をよく見ようと腕を伸ばすと、肘から筋を引っ張られるような痛みが走った。
突然の痛みは腕を通り、寝起きの頭に直接叩きつけられる。
だが痛みに呻いている間に僕は先の逃亡時に自分の腕と剣を回収していたことを思い出した。
あの時はリジーから逃げることに必死で腕のことなど忘れていたはずだった。それでも僕は無意識の内に回収していたようだ。
逃げる時の記憶が曖昧なので何とも言えないが、きちんと回収した自分を褒めてやりたくなった。
しかし少し喜んだ僕は現実を受け止めるため一度冷静になった。
今回の戦闘、結果としては惨敗だ。
こちらが待ち伏せする状況で敵の戦力をうまく分散し、追い詰めることに成功した。
しかし、それでも僕はリジーに重傷を負わされ、最後は瀕死の仲間を抱えて逃げることしかできなかった。
だってそうだろう。リジーがあそこまで力を持っているなんて想像すらしていなかった。
あの光はきっと星の雫による力ではない。もっと何か別のーー
「あら、もう起きたのね。もう少し寝てると思ってたけど、案外回復早いのね」
突然陽気な声が飛んできて、物思いにふけっていた僕は心臓が飛び出そうになった。
とっさに口を押さえて声の方に目を向けると、薄暗がりの中赤い獣のエンカが近づいてくるのが見えた。
頭の上には盆に載せた水差しが載せられている。寝ている僕に水分を摂らせに来たのだろう。
「エンカか、脅かさないでくれよ。びっくりしたじゃないか」
水差しを受け取った僕は心臓の鼓動を落ち着けながら言った。
そのエンカはニヤリと笑うように長い牙を見せた。
「そこはありがとうございます神獣様、だよ! 全く、あんたはもう少し人の心を持たないとダメね」
何故か茶化し気味に説教されてしまったが、僕はそれを無視して水差に直接口をつけて喉を潤す。
程よく冷えた水が寝起きで火照った体に染み渡る。神殿で目覚めた時に飲んだ水よりも美味い。
そう言えばあの時もエンカと一緒だったな。あの時はエンカは隣に座って……
一息ついて昔を思い出していると、僕はエンカの右側が不自然なことに気づいた。
注意して目を凝らすとエンカの右前脚が根元から消えてなくなっていた。
「エンカ、その脚はどうしたんだ。まさか……逃げる時に?」
僕は激しく鳴る心音に負けないようにエンカに訊ねた。
リジーに追い詰められた時のことは辛うじてだが覚えている。
確かフォレスを回収したエンカは、僕が転移魔法を構築する時間稼ぎにリジーの攻撃を防いでくれたはずだ。
「ああ、この脚? 別に気にしなくていいよ。あんたの命を助けるのにあたしの脚一本で済んだんだから安いでしょ?」
僕が緊張したようにエンカを見つめていると、そのエンカは何でもないと言うように失くなった前脚を見て言った。
「いやいや、気にするでしょ? エンカだって僕の大事な仲間なんだからさ、心配くらいするよ」
僕はエンカに反発するように言った。
僕は世界を敵に回す非道な人間だ。
それでも数少ない仲間のことは大切にしたいと心から思っている。決して踏み台にするなど思いたくなかった。
エンカは一瞬ぽかんとしたように口を開けたが、すぐに嬉しそうに笑い始めた。
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。あんたがそんなこと言うの初めて聞いたかも」
エンカは照れ臭そうにそう言うと、顔を横に向けチラチラと僕を見てきた。その仕草に僕は思わず鳥肌が立ってしまった。
純情な乙女がするような仕草は赤い毛だらけの獣がやっても似合わない。今すぐやめてほしい。
それが口を出る前に僕は急いで飲み込んだ。
仮にも身を呈して助けてくれた神獣様だ。下手なことを言って拗ねられては後で面倒なことになる。
「そ、そうかな。ま、まあ、何だその……助けてくれてありがとう。エンカがいなかったら僕は死んでたからね」
エンカの期待の眼差しに耐えながら僕は礼を述べた。
久しぶりに礼を言うのでしどろもどろに言ってしまったが何とか言えた。
「えっアルがお礼言った!? もしかして今から世界が崩壊するの?」
しかし僕が礼を言ったのが意外だったのか、エンカは目を見開いて言った。
僕が下手なことをすれば天変地異でも起きそうな反応は流石の僕も傷つく。
「なっ、エンカが欲しそうにしてたから言ったのに! それはちょっとひどいぞ!」
落ち込むほどではないけど文句を言いたくなった僕はエンカに水差しを投げて返した。
エンカはそれを空間魔法で固めて受け取り、盆の上にゆっくりと戻した。
「ふふっ、冗談よ冗談。ありがとう、アル。言葉と行動は全然真逆だけど、それでも嬉しいわ」
元気に尻尾を振るエンカを見て僕は急に脱力しそうになった。
だめだ、今のエンカには何を言ってもご機嫌取りになってしまう。でも礼は言ったから寝直すと言って出てもらえばこの場はしのげるか?
そう思って口を開いた時、エンカの後ろから新たに人影が現れた。
「取り込み中のところ悪いな。アルドベル、客人が来たぞ。出迎えできるか?」
白い青年の姿をしたリーグは僕とエンカを交互に見ながら言った。その手には青い紋章の入った布切れが握られていた。




