カシューナッツ
ゴツゴツした机の感触。ピンボケした教室。遠くから聞こえてくる英語教師の声。
どれくらい寝ていたのだろう。僕は汗で肘に張り付いた教科書の42ページを剥がしながらグラウンドを見下ろした。
グラウンドでは長距離走の練習をしている。みんな蟻の様にグラウンドを回っている。
この授業が終わればホームルームがあってその後部活が始まる。
僕は憂鬱だった。高校ではテニス部に入った。中学まで文化系の部活に入っていたが、ヒエラルキー的に上位に位置する運動部に対する憧れもあり、高校からは運動部に所属することにしたのだ。
しかし中高一貫の私立校に通っていたがゆえ、高校テニス部は当然中学テニス部からの継続組に牛耳られていた。
僕は孤立した。練習帰りはいつも1人だった。時たま他の連中と帰ることもあったが、死ぬほど浮いていた。
ああしんどいな。テニス自体は好きなんだけど・・。
そう思っているとグラウンドの土の色がポツポツ、ポツポツと灰色から暗い灰色に変わり始めた。
長距離走の蟻の群れが室内に逃げ込んでゆく。ポツポツという音はバタバタバタバタという音に変わり、窓の外は縦線を引いた様な雨が降り始めた。見下ろすとグラウンドにさっきまでなかった水たまりができている。
「やった中止だ!!」
僕が心で思っていたことを棚橋が叫んだ。
棚橋はテニス部で、実力は部内の中では上の方だったが、練習嫌いでいつも雨が降るとああいう風にはしゃぎだす。
その棚橋の姿を部内ランキング2位の多羅沢が苦々しそうに見ていた。
練習は中止になった。
僕は一番仲の良い隣のクラスの柘植を誘って帰ろうとしたが、柘植は今度の修学旅行の話し合いがあるとかで、僕はいつもの様に一人で帰ることにした。
午後三時の下り電車は空いていて、車内の人はまばらだ。向かい側の席の運動部風の女子高生がサンドイッチを食べている。その子はブスではなかったが色黒でいかにも運動部といった感じだったし、電車の中で食べ物を食べている女の子に興味はひかれなかった。その分、食べているサンドイッチのビニールのパッケージに目がいった。「小倉トースト」と書いてある。
僕は家の玄関を開けてブレザーを抜いだ。母があら部活は?雨で中止?と聞いてきたので、うんと答えた。普段はすぐ二階に上がってデスクトップパソコンで2ちゃんねるを見る流れになっているのだが、今日はリビングでついていたテレビを見ていたらダラダラと時間が立っていた。テレビでは大昔の刑事ドラマの再放送の後、夕方のなんとなくパンチのない主婦向けの退屈なニュースが流れていた。その間、人気女優の神宮寺優香がコンビニのCMでしきり新製品の「小倉トースト」を宣伝していた。
次の日の学校。一番退屈な英語の授業ではやはり寝てしまった。机の上に突っ伏していると、真っ暗な視界の外から教師の声に混ざって生徒の話し声が聞こえてくる。クラスの左端の前の方の席で不良グループの東海林と英保が「売店の小倉トースト食った?ヤベーから」みたいな話をしていた。
その日は部活がない日だったのでまた1人で家に帰った。駅の改札に定期をかざしてホームに向かう。いつも改札の近くにダンボールを敷いて寝ているホームレスが今日もダンボールから足だけ出して寝ている。その薄汚れた足元にはなぜか開封済の小倉トーストのビニールゴミが落ちていた。
最寄りの駅から我が家に帰る。途中僕の母校の小学校の横を通る。ここは変わらないな。昨日の水たまりがまだ校庭に残っている。その表面が青い空を映しながらゆらゆら揺れている。
家に帰るとまたダラダラとテレビを見た。ニュースでは新製品の小倉トーストの売れ行きが好調だということをキャスターが嬉々として伝えていた。
次の日。今日は部活の日だ。憂鬱だな。眠い目をこすりながら小学校前の道を通る。交差点の「止まれ」という表示を作業員が塗り替えている。まだ塗り替え途中だったが、「小倉」という文字が見てとれた。
この日の英語の授業も寝た。東海林と英保は例に漏れず大声で話していて、売店に小倉トーストしか売っていないという様な話をしていた。
久しぶりの部活だ。顧問がテニスボールを硬式ボールから小倉トーストに変更すると言い出して、皆大騒ぎだった。硬式ボールに比べて小倉トーストはラケットの上でバウンドしずらいので物凄い練習がしずらい。皆いらだっていて、ただでさえ憂鬱な気分が増長された。
やっと練習が終わった。さあ帰ろう。
今朝の「止まれ」の前を通った。「小倉トースト」になっている。やっぱり。
家に帰ると、表札が「小倉トースト」に変わっていた。母親にそのことを聞くと小倉トーストを新しい父親として紹介された。今日はなにかと憂鬱だ。
次の日、学校に登校すると、全校生徒の内、42%の生徒が人間から小倉トーストに変貌を遂げていた。小倉トーストは足が生えていないので誰も登校してこなかた。
帰りの電車の乗客はみんな小倉トーストだった。電車そのものも小倉トーストでできていた。線路も、電線も、パンタグラフも、時刻表も。
家に帰ると母が「小倉トースト」と離婚して、「小倉トースト」と再婚したと言ってきた。なにが違うのかと聞いたら母はしばらく考えていたがよく考えるとどちらもいっしょだったと答えた。
次の日、僕は小倉トーストになった。
こうなると無性に小倉トーストが食べたくなってくる。
僕は自分の顔を食べた。足も。腕も。胸も。肘も。
そして僕はいなくなった。
そして誰もいなくなった。