第七話:遭遇(その1)
私と由紀子が通うH高校は、綾野のおばさんの住む隣町にあった。高校のあるH市は県庁や大学のある、この地方の中核都市だった。ちなみに実際の人生で由紀子の通ったF女子高校は、H市とは私たちの住む町をはさんで反対側のF市にあった。
高校へは私は自転車で、由紀子はバスで通学した。
私は史実通りのA組、由紀子はC組とクラスは分かれたが、昼休みや放課後になるとどちらからともなく相手を探し一緒に行動する事が多くなった。それは二人にとってはごく自然な行動だったが、恋愛まっただ中の恋人同士が時間さえあれば一緒にいるといった、ほのぼのとしたものではなかった。
『こちらの』世界にすっかり溶け込んだつもりでも、時として脳内ににじみ出てくる45歳と40歳の意識が16〜17歳の集団と完全に融合する事を本能的に回避するかのようにお互いの存在を求めさせた。
しかし周りのクラスメートたちから見れば、私と由紀子の行動は明らかに熱愛中の恋人同士のものに他ならず、入学早々から冷やかしの対象とされた。
それでも二人は(特に私はほとんど顔なじみのクラスメートに囲まれて)高校生活になじんでいった。
H校では、余程の事情がない限り何らかのクラブ活動に参加する事が奨励された。史実では筋肉ボディーを夢見て柔道部に所属していた私だったが、由紀子と話し合って一緒に過ごせる物理クラブを選んだ。
私たちに起こったこの不思議な現象の解明を、無意識に求めていたのかもしれない。
当然の事ながら、物理クラブは人気がなく、実際に授業で物理を教える定年間近の年配の先生の指導の下、私たちを含めて6名のクラブ員がいるだけだった。今年の新入生でこのクラブを選んだのも私たちだけだったし、2・3年生のメンバーも消去法でここを選択したような、まったくやる気の感じられない様子だった。
そんな物理クラブにもメリットはあった。
もともと理数系が強いH校出身のOBには学術分野で活躍した人も多く、死後・生前問わず彼らから寄贈された多くの蔵書が、図書室に併設された特別展示室に保管されていた。量・質とも、ちょっとした大学顔負けと言われていた。
(もちろん指導教官の了解前提ながら)物理クラブのメンバーは比較的容易に特別展示室への
出入りと閲覧ができた。年配のその先生は、ほとんど毎日のように特別展示室で書籍を読み漁る私たちの熱心さに目を細め、いつも入室カードにはめくら判を押してくれた。
しかし、予想していたとはいえ、私たちの身の上に起こった現象の解明につながるようなものは見あたらず、失望と落胆の日々が過ぎていった。
授業が午前中で終わる土曜日には、由紀子と一緒に綾野おばさんの家に立ち寄る事が多くなっていった。
初めて由紀子を連れていった時からおばさんは、同級生として紹介する私を無視し、可愛い甥っ子の恋人として由紀子を扱った。常々女の子が欲しかったと言っていたおばさんは、愛らしい笑顔の由紀子の訪問を私のそれ以上に喜び、いつも嬉々としてもてなしてくれた。
一緒にボーリングにも行った。叔父さんを交えて夕食を共にする事もあった。
そんな雰囲気に次第に由紀子もなじみ、おばさんの家では本当にリラックスした表情を浮かべるようになっていった。お世話になっているお礼にと、一度由紀子の母親がおばさんを訪ねてきた時も、由紀子の話で大いに盛り上がり、いつしかおばさん宅訪問は両家公認のものとなっていった。
春が過ぎ、8年ぶりといわれたカラ梅雨が過ぎ、そして灼熱の季節がやってきた。
「夏休みはどうする?」
夏休みが近づいたある日、由紀子に尋ねた。
「東京の叔母のところに行ってみようと思うの」
「東京の叔母さんってあの……」
「そう、お父さんの妹で、妊娠した私を引き取ってくれて出産にも立ち会ってくれた人。本当は迷惑だったでしょうに、そんなそぶりは一度も見せずに優しくしてくれたのよ。……綾野の叔母様をみていたら、どうしても会いたくなったの」
「……せっかく『あっち』の事を忘れかけているのに……どうしてわざわざ……」
「だからこそ会っておきたいの……そりゃあ『あっち』での最後の方の記憶は今でも思い出す度に気分が悪くなるし、できることなら完全に封印してしまいたい事ばかりよ。でもあんな事がなければ、叔母さんの優しさに気づくこともなかったでしょうし……ホントに辛くて苦しかったけど、女として新しい命をこの世に誕生させた、何ともいえない悦びを味わう事もなかったと思うの………………こっちではそんな事起きないんでしょう?」
確かにそうだった。私にだって、一向に薄まらない45年の記憶の中には、決して消し去りたくない無上の喜びを感じた瞬間のものもたくさんあった。ずっと忘れていた子供の名前が突然脳裏に浮かんだ……健一……真弓。
記憶の最終ページのインパクトが強すぎて覆い隠された名前………………事情も分からず、女房に追い立てられ、「パパー! パパー!」と叫びながら玄関のドアの向こうに消えていったシーンが目の前に浮かびあがった。……場面は一転し……健一の生まれたてのしわくちゃな小さな顔を初めて見た時の光景が、その時の驚きと感動と共に甦ってきた。初めての七五三、入園式、入学式、学芸会、家族旅行………………フラッシュバックのように様々な光景が浮かんでは消えていった。
おそらく追憶に浸りきり、たたずんでいたであろう私に、由紀子はそっとつぶやいた。
「……坂本君にも消しきれない、ううん消し去りたくない記憶があるでしょう……私たち嫌な思い出から逃れられた事ばかり喜んでいたけど、それよりずっとたくさんの素敵な思い出、感動的な記憶からも切り離されてしまったのよね……これから先、その記憶を形にしていく事はできないのよね……」
ふと見ると由紀子の眼が涙で潤んでいた。
「……だから『こっち』で、もっともっと素晴らしい人生を送らなければいけないんだよ。普通だったらありえない第二の人生を与えられていながら、それをつまらないものにしてしまったら、俺たち何の為に蘇ったのか分からないじゃないか!」
無意識の内に由紀子の手を握りしめながら、私は叫んでいた。
夏休みが始まって間もなく、由紀子は東京に旅立っていった。
一種間ほどして戻ってきた由紀子は、「どうだった?」という私の問いかけにも多くを語ろうとしなかったが、その表情には少し険しさが増したような気がした。
夏休みが終わり二学期が始まった。全員が体育館に集められた始業式の場で、物理の先生の休職が発表された。体調不良との事だった。次にその間の代行として新しい物理の先生が紹介された。壇上に登るその先生の姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
20代後半と思われる若々しい顔つきと重なるように、明らかに老人と思われる苦悶の表情を浮かべた影が揺らめいていた。私の視界に由紀子の姿は見えなかったが同じように驚いている姿が想像された。
会場を見渡しながら自己紹介をしていた先生(老人の影)がこちらを向いた。驚きの表情と共に明らかに私に視線が止まった。向こうも気づいたようだった。
こうして私は3人目の『あっちの世界』からの来訪者に遭遇した。