第六話:邂逅(その3)
年の瀬は慌ただしく過ぎていった。
結局由紀子は両親や先生の反対(当時の由紀子の成績では合格可能性は低かった)を押し切って、私と同じH校を受験することになった。
由紀子はみんなの心配をよそに、12月の半ば過ぎから頻繁に行われ始めた模擬テストでは、まわりが驚くような高い点数を取った。あまり目立つのはまずいと話し合って、その内にわざと間違えるようにしていた。
私の後を追うように急に志望校を変えた事や、なるべく避けてはいたものの、どうしても会話する時間の増えた私と由紀子の関係が噂に上り始めていた。
もちろん当時のまだまだ純朴な中学生の噂話に悪意のかけらもなかった。折にふれて冷やかされる機会はあったが、私も由紀子も笑い飛ばすだけの余裕があった。むしろそんな風に話題にされる事が心地よくもあった。
次第に由紀子とは人前でも堂々と話すようになっていった。クラスメートのいない時には、どうしてもお互いが体験してきた人生の話が中心となったが、子供を養子に出したあたりの話になると、由紀子は口を濁す事が多かった。
しばらくすると冬休みに入った。
正月には綾野のおばさん夫婦が我が家に遊びに来た。亡くなったはずの叔父さんはピンピンしていた。おばさんも記憶にある印象よりふっくらとして、子供こそいないものの幸せそうな夫婦仲を想像させた。
その話題は、おふくろとおばさんが盛大な正月祝いの料理作りに精を出し、叔父さんと父親が祝い酒を酌み交わしている時、その横でテレビを見ていた私の耳に突然飛び込んできた。
「坂本さん、あんたも仕事で車を使う事が多いんじゃから、ホントに運転には注意せにゃならんよ……ほんまあの時は死ぬかと思ったわ。今でも思い出すと震えがするよ」
「義兄さんも、あの状況でよく事故を避けられたもんですね」
「結局生まれてこなんだけど……あの子が守ってくれたように思うんよ……なにしろほんまに
『停まって!!』って叫ぶ子供の声が聞こえてきたんじゃけん」
「何々! 何の話?」どうしても聞いておくべき話のように思えた私は口をはさんだ。
「真一には話した事なかったかの……」と言いながら、叔父さんが語ってくれたのは次のような話だった。
10年ほど前の事。隣町で運送業を営む叔父は、自分でもダンプカーを運転して近県中心に走り回る毎日だった。おばさんとの間になかなか子供ができず、半ばあきらめかけていた頃、おばさんが妊娠した。経過は順調で後は出産の日を迎えるだけと思っていた矢先、近県に砂利を運び終え帰ろうとしていた叔父に、出先事務所の電話が鳴った。おばさんの急変を告げる電話だった。叔父は慌てて病院に駆けつけようとした。普段は絶対に出さないようなスピードでダンプを転がし、県境の峠を越えようとしていた時、耳元で「停まって!停まって!」と必死の口調で叫ぶ子供の声が聞こえた。はっとしてスピードメーターをみると制限速度を30キロもオーバーしたまま下り坂に差しかかるところだった。急いでブレーキを踏みやっと速度が落ちてきた時、次のカーブの向こうに見えたものは、バスと乗用車の事故だった。あのままのスピードだったら間違いなくそこに突っ込み、多重事故になっていた。いや勢いで崖下に転落していたかもしれなかった。
「それがのう、後で聞いたらちょうどその位の時間に、子供が亡くなっていたそうじゃ」
「……あの子は生まれてこんまま死んだけど、雪江だけじゃなく俺まで助けてくれたと思うちょるんよ」
おばさんが妊娠した経験があったかどうかは、私の記憶にはなかった。ただ何億分の一という確率の精子と卵子の出会いが『あっちの世界』では起こらず、『こっちの世界』では起こり、
その事がこの奇跡を呼んだとしか、私には思えなかった。
(やはりここは単純な私の過去の世界ではない)―ーーーーその確信が私の中で高まった。
三学期が始まると、受験に向かって一直線だった。
絶対に合格間違いないと思いながら、受験勉強を楽しむ日々だった。由紀子も同じように熱心に勉強しているようだった。二人ともどっぷり中学生に浸っていた。
由紀子の顔から中年の顔の二重写しが消えているのに気づいたのは、1月も終ろうとしていた頃だった。すっかり記憶通りの由紀子がそこにいた。そう告げる私に由紀子も私の顔から中年の影が消えている事を指摘した。
とっくに『あっちの』夢は見なくなっていた。ようやく嫌な思い出と訣別できた喜びが込み上げてきた。そう言うと由紀子は静かに笑った。
私も由紀子も無事H校に合格した。これで由紀子の人生が明確に変わったと思った。H校とF女子高校では通学ルートもまったく違うし、仮に街中で『あの男』を見かけても相手にしないと由紀子は断言した。
私たちの中学からは、二人を含めて結局8名だけがH校に進学した。
合格発表、入学手続き、謝恩会、卒業式……と慌ただしく時が過ぎる中で、同じ高校に進む者どうしが集まる場面が増え始め、私と由紀子はますます接近していった。
そして、卒業式の終了後、同じ高校への進学という事で盛り上がり始めた双方の母親を尻目に二人でそっと抜け出すと、久しぶりに成願寺に向かった。
芽吹き始めた茶褐色のつぼみが、頬を撫でるそよ風の優しさが、春の近さを告げていた。
境内の片隅の梅の樹が、ひっそりと花をつけていた。
私と由紀子はどちらかともなく寄り添い、初めての口づけを交わした。