第五話:邂逅(その2)
私が中学生の頃、土曜日も午前中は授業だった。
昨日までの晴天とはうって変わり、その日は朝から今にも雨が落ちてきそうな曇り空だった。
いつものように登校し教室に足を踏み入れた途端、女の子たちの笑い声が響いてきた。
「由紀子3日間で何だか性格変わったわよね! おもしろい!」
「ほんとほんと! ねえもっと小柳ルミ子の話してよ」
由紀子のまわりを4〜5人のクラスメートたちが取り囲み、芸能ネタで盛り上がっているようだった。輪の中心にいる由紀子が嬉々としてデビュー秘話めいた話をしていた。
(そんな情報、あの頃オープンになっていたかな?)
少し不安を感じたが、どうでもいいかと自分を納得させていた。
授業が終わるとみんなが一斉に帰り支度を始めた。その雑音にかぶせるように先生の声。
「月曜日から父兄懇談だから、さっき配った学級通信を親に渡すのを忘れるなよ。進路希望表も、ちゃんと書いて持って来いよ。それから……」
後半は聞き取れなかったが、いよいよ受験する高校を確定する時期になっていた。これからの展開は分かっていた。私はH高校、由紀子はF女子高校のはずだった。
ざわつく教室の中で由紀子の姿を捜した。ちょうど席を立った由紀子と眼が合った。どちらからともなく小さくうなずいた後、私たちは別々に教室を後にした。
学校の前の『なんでも屋』(文房具からパン類・飲み物まで何でも置いてあった)で菓子パンをいくつかと缶ジュースを(念のため)2本買った。
学校を出た時、相変わらず空はどんよりとしていたが、成願寺に着く頃には雲が少し薄くなっていて、境内は幻想的な光に包まれていた。
由紀子は先に来ていて、昨日とおなじ石のベンチに座っていた。少しうつむいてじっと何かを考え込んでいるようだった。私が近づいて来ることさえ気づかなかった。
「昼飯どうした? よかったら食うか?」そう言って菓子パンの入った包みを差し出した。
「……ええ、ありがとう。でもあまり食欲ないから……」
「じゃあジュースだけな」手にした缶ジュースの一本を、ちょっと強引に手渡した。
健康な15歳の少年らしい空腹に耐えきれず、菓子パンにかぶりつく私の横で、由紀子は手にした缶ジュースをじっと見つめていた。
「私ね……高校2年の時、子供を産んだの……」唐突に由紀子が口を開いた。
「えっ! どうして?」口にくわえたパンを吐き出すと、急いで由紀子の方に顔を向けた。
それから由紀子は彼女の身の上に起こった出来事を、絞り出すような声で語り始めた。
高校に入学してすぐ、通学途中の電車の中で近くの男子校の生徒とふとした事で知り合い、交際を始めた事。すぐに大好きになり一線を踏み越えてしまった事、子供ができ、あたふたしている内に産まざるを得なくなった事、世間体を気にする両親から東京の叔母の元に送られ、ずっと暮らしていた事、周りから説得され子供を養子として手放した事……
そこまで話した所で、由紀子は一口ジュースを口にした。眼にはうっすらと涙が滲んでいた。
呼吸を整えるかのように少し深呼吸をした後、話は続けられた。
短大を卒業し出版社に就職した事、女性誌の記者になった事、初めて任された特集記事の取材で知り合ったデザイナーと付き合い始め、その後結婚した事、子供ができず夫婦仲がおかしくなっていった事、覚醒剤の不法所持で旦那が逮捕された事、自分もしつこく取り調べを受けた事、それが伝わり会社にいずらくなっていった事、やりがいを失って自暴自棄になっていった事、出会い系で相手を探し寂しさを埋めていた日々、そして壊れていった精神……
―ーーーーどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
私は由紀子の口から語られる壮絶な人生の実像に圧倒されていた。手にしたままの菓子パンの存在も、尻の下から伝わってくる石の冷たさも忘れ、ただ茫然と聞き入っていた。
出会って2日間という時間の経過の中で、由紀子の姿は9割がた中学3年生に見えるようになっていたが、話し終えた由紀子は初めてその姿を見た時と同様に、何かに疲れきった中年婦人としか見えなかった。
足元をすり抜ける木枯らしが少し強くなった。境内の木々の枝がこすれあうカサカサという音が周囲に充満していた。
「これで終わり……軽蔑した?」下を向いたまま由紀子が尋ねた。
「いや……俺の人生だって同じようなものだ。軽蔑なんて……」
「でも……お互い繰り返しちゃいけない過去があるんだって事は一緒だよな。失った時間は取り戻せないって言うけど、今こうしてここに、中学3年生の俺たちがいるって事は、何故だか分からないけど俺たちにはもう一度やり直すチャンスが与えられたって事だろう? 二人で協力して、もう一度生き直そうよ! それに……」
それから私は初日に気づいた重大事項、つまり私で30年、由紀子でさえ25年の未来情報を知っている事の価値を、そして職業の違いからお互いの持つ情報が、優れた補完関係を有しているであろう事を必死で語っていた。いつしか由紀子の手を取り揺さぶりながら……
初めは怪訝そうな表情を浮かべていた由紀子も、私の興奮に煽られたかのように眼を輝かせていった。
「……そうよね。神様のくれたチャンスなのかもしれないわね……でもこれからどうしていけばいいのかしら」
あたりが暗くなっていくのにも気づかず、私と由紀子はこれからの事を話し続けた。
取り合えず今の知識量なら合格間違いないから高校は同じH校を受けようという事、家族を含め周囲との会話には細心の注意をはらって疑いを持たれない事、等々を確認した。
帰りの坂道を下りながら、私は二人の前に前途洋洋たる未来が用意されているような気がしていた。しかも秘密を共有する相手が由紀子であることに改めて感謝した。自然に足取りが軽くなっていくのが分かった。
坂道を下り切って平坦な通りにたどり着いた頃、後ろを付いてくる由紀子を振り返った。予想を裏切り、浮かぬ顔をしながら歩く由紀子がいた。
「どうした? まだ心配事でもあるのか」
「……ねえ、ここって本当に私たちが過ごしてきた過去の時代なのかしら……」
「もちろんほとんどの事は、記憶にある通りなんだけど……微妙な処で記憶と違うのよね。
あなたはそんな風に感じる事ない?」
やはりそうだった。私の感じていた違和感は正しかった。由紀子の投げかけた疑問に同意しながらも、その事実をどう扱ったらいいのか戸惑っていた。漠然とした不安がさっきまでの浮き浮きとした気分を消し去っていた。
すっきりしない想いと不安を残しながらも、いやだからこそ、私たちはそれぞれの(将来には二度と得られない)無条件に幸せな場所へと逃げ込むように急いで帰っていった。