第三話:転生(その3)
翌日の朝も、甲高いおふくろの声から始まった。
久しく味わったことがないほど、さわやかな目覚めだった。
昨晩、おふくろに追い立てられるように、午後10時過ぎには床についたにも関わらず、起こされるまで寝ていられることに驚いた。
9時間という睡眠時間は、ここ何年も記憶になかった。
(やはり体は成長期なんだ)
当り前のことに妙に納得しながら、学生服に着替えを済ませ、台所でおふくろと一緒に朝食をとった。慌ただしくも、やはり幸せなひと時だった。
授業の時間割は前夜の内に確認していた。受験間近のこの時期、今時の私立学校では当たり前の自習時間という配慮は、その頃の公立中学にはまったくなかった。
木曜日のその日も、1時間目の国語から始まり、6時間目の男女別の技術家庭まで、ぎっしりと教科が埋められていた。
教科書を、肩掛け式のキャンパス生地のカバンに詰めていた時、久々に手にした『技術』というタイトルが新鮮だった。
家を出て、記憶を頼りに川沿いの道を中学校に向かった。
学生帽をかぶり、薄汚れた肩掛けカバンを引きずるように歩く自分の姿を想像した時、その滑稽さに思わず笑みが浮かんだ。
「坂本君おはよう! もう大丈夫なの?……朝から何にやにやしてるの、気持悪い!」
横道から駆け出してきた少女が、私の顔を見るなりそう言った。
昨日、いくら記憶をたどっても、机の引き出しを漁って見つけた、修学旅行の時らしき写真を穴があくほど眺めても、顔と名前が一致する同級生なんてほとんどいなかった。
しかし、こいつは数少ない例外だった。
近所に住む中谷ひとみ。幼稚園から中学まで一緒という、数少ない女友達だった。今はクラスも同じだった。
(最初に会ったのがこいつでよかった……学校までの間にしっかり情報収集しなくちゃな)
心の中でそうつぶやきながら、肩を並べて歩いた。
自分のクラスが第2校舎の3階の隅というのは、何となく記憶していた。
久しぶりに足を踏み入れたそこは、始業前の喧騒に包まれていた。
自分の席が思い出せなかった私は、「トイレに行ってくるから頼む」と、ひとみにカバンを渡した。
名前を思い出せない何人かの同級生から、声をかけられたが、あいまいな応対で切り抜けながら、トイレに向かうふりをした。
半分開いた教室のドアのガラス越しに、ひとみの動きを見ていると、校庭に向かった窓側の前から3番目の席が私の席であることが分かった。
しばらくの間、教室のあちらこちらで小さな輪を作って会話する同級生たちの顔を、記憶をたどりながら順に眺めていると、始業を告げるチャイムが鳴った。カバンが置かれた席に急いで向かった。
当時の担任だった加地先生が教室に入ってきた。当時はずいぶん大人に見えていたが、久々に見たその姿は、『本当の私』より明らかに年下だった。
授業自体は退屈で幼稚なものだったが、その日一日必死で同級生を覚え直し、一人ひとりのプロフィールを頭の中で確認する作業に没頭した。
6時間目の授業が終わる頃には、ほとんどのクラスメートの名前と顔が一致していた。
それと同時に、当時一人ひとりに対して抱いていた感情や、記憶の底に沈んでいたさまざまな出来事までもが蘇ってきていた。
ただ、会話の中で微妙に記憶と異なる出来事がいくつかあった。しかしそれは、
・10月に行った修学旅行で一緒に女風呂をのぞきに行ったはずの奴に、真顔で否定された事
・夏に野球部が市の大会で優勝したはずが準優勝だと訂正された事
・独身のはずの加地先生が春に結婚していた事
等々、ほんのささいな事で、自分の記憶違いと納得させられるレベルの内容だった。
クラスメートたちとの会話は、時期柄、高校受験の話題が中心だったが、特に男子の中では、デビューしたての小柳ルミ子の可愛さや、封切られたばかりの日活ロマンポルノの噂も秘めやかに語られた。
もともとどちらかといえば寡黙な方だった私は、間違って来年以降の話題に触れてしまうことを恐れ、もっぱら笑顔で聞き役に回った。
授業が終わりみんなが帰り支度を始めた頃、ふと朝から感じていたささやかな疑問を、隣の席の大野という名のクラスメートに尋ねてみた。
「坂井さん、どうしたのかな」
「病気じゃないの、今日で3日連続休みだものな」
大野はそう言い残すと教室を飛び出していった。
坂井由紀子は私が中学時代、密かに憧れていた女の子だった。
校則ぎりぎりの肩までかかる、いつもさらさらの髪。アーモンドのようなクリクリした眼。笑うとこぼれる、きれいに並んだ真っ白い歯。そして、えくぼ。
当然、私以外にも憧れていた男子生徒は多かったと思うが、誰かと付き合っているという噂は
聞いたことがなかった。
「何ボーっとしてるの、帰ろう。」肩を叩かれ振り向くと、ひとみが笑っていた。
「うん……いや由紀子どうしたのかと思ってさ」
「へえ気になるんだ、わたしというものがありながら、このー浮気者!」
「何言ってるんだ、いつお前なんかと付き合ったんだよ」
「まあいいや、でも由紀子が気になるなら、これから先生に頼まれた学級通信を届けに行くから、一緒に行く?」
「由紀子の家、どこだっけ?」
「〇〇町よ、近い、近い」
その住所は私やひとみにとっては逆方向だった。普段なら遠回りになるのが分かっていながらわざわざ同行することはありえなかったと思うが、由紀子のことが妙に気になった私は、結局
ひとみに付き合うことになった。
学校を出た時は、まだまだ明るかったが、冬の夕暮れは想像以上に早かった。あたりが薄暗くなり始めた頃、由紀子の家に着いた。
ひとみがチャイムを鳴らすと、奥から「はーい」という母親らしき声がして、玄関のドアが開けられた。
「あらあら中谷さん、あれ坂本君までどうしたの?」
「先生に言われて、学級通信を届けに来ました。……由紀子の具合はどうですか?」
「それは、わざわざごめんなさいね。由紀子! 由紀子!……中谷さんと坂本君が来てくれたわよ、降りてらっしゃい」
「熱もないし、顔色も悪くないのに、何かボーとしてるのよ。何を聞いても上の空だし、学校にも行きたくないって言うし……全くどうしちゃったのかしら、受験も近いのにねー」
母親の言葉にかぶさるように、2階から誰かが力なく下りてくる足音がした。
玄関の明りに照らされた、その顔を見た時、私は一瞬息を飲んだ。それは記憶にある由紀子の顔ではなかった。それどころか少しやつれた明らかに中年の婦人の顔だった。
いや、よくよく見るとその顔と二重写しのように、記憶にある由紀子の顔が同じ表情を浮かべたまま、うっすらと浮かんでいた。
「……ああ、ひとみありがとう」
「大丈夫? でも元気そうじゃない、明日は学校においでよ!」
さすがに記憶にはなかったが、ひとみと話すその声は、まだかすかに幼さの残る15歳の女の子らしい声だった。
由紀子の視線が、狭い玄関に入りきらず、外のうす暗さの中にたたずむ私に向けられた瞬間、
彼女も私同様、眼を大きく見開きながら息を飲むのが分かった。
「………………坂本君?」
彼女の眼に何が映っているのか、すぐ理解できた。
私と由紀子は唖然としたまま、しばらくお互いを、いやお互いの実像を見つめていた。ひとみと由紀子の母親は、そんな二人を、何事かと言わんばかりに不思議そうに見比べていた。