第一話:転生(その1)
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―ーーーーーーーーーーーーーーーいい加減に起きなさい! 遅れるわよ!
鼓膜の奥がビリビリ震えるような甲高い声。
さっきまで少し遠くから聞こえていた声が、足音とともに近付いてくる、
近くでドアが開く音。大音量が響き渡る。遠い昔に聞いたまま記憶の中に封印されていたような懐かしさを含んで。
声に引きずられるように、のろのろと身を起こした。ゆっくり眼を開けると薄暗い、見慣れない部屋の景色がぼんやりと映った。
本や文房具が乱雑に散らかった勉強机。壁にかかったたくさんのペナント、その上にうっすらと浮かび上がったアルファベットの文字……BEPPU、 ASO、FUKUOKA……
大きなジャイアンツ長嶋のポスター。
呆然とあたりを見回しながら、私はつぶやいた。
「……どこだ……ここは?」
女は部屋に入るなり、カーテンを一気に開け放った。
まばゆい光が私の眼を射た。一瞬部屋の中が真っ白になった。
「まったく、何してるの! 早く支度を……ん? どうしたの?」
朝の光にさらされた私の顔を覗き込みながら、女が言った。同時にその手が額に当てられた。
やわらかな、その手越しに女が見えた―ーーーーーーーーーおふくろだった。
「ちょっと熱っぽいわね……大事な時期だし、そうね今日は休みなさい。うんそれがいい!」
何かを断定する時、自分を納得させるかのように必ず付け加えられたセリフ。
健康そうで、ちょっとふっくらとした顔。
心配事があると小首を傾けながら、眉をしかめる仕草。
―ーーーーーーーーーー目の前に立っているのは、まぎれもなくおふくろだった。
しかも私の記憶の最後にある、やせ細り、点滴のチューブや酸素マスク、さらには用途の分からない様々な医療機器から延びる線に縛り付けられながら、静かに病院のベッドで最後の時を待つ姿ではなく、ずっとずっと昔に見ていた姿だった。
その時ふいに思い出した。―ーーーーー崖から飛び降りた直後であることを!
(夢……か?)
夢にしてはリアルすぎる感覚に戸惑いながら、頬をつねった。−−−−−痛い!
食い入るように見つめていた、おふくろの顔から目線をそらし、自分の手を見た。
―ーーーーー小さい?
そこに見えたのは、到底自分のものとは思えないくらい、小さく白い手だった。しかし間違いなくそれは自分の体の一部を構成していた。微かに布団に触れている指先の感覚は、確かに私のものだった。
「いいからもう少し寝てなさい。あとで薬を持ってくるから」
押し付けられるように布団に戻された。
―ーーーーーどれくらいの時間だっただろうか。訳が分からないまま、私は天井を見つめ続けていた。天井板に浮かんだシミの一つひとつにも、見覚えがあるような気がしていた。
ここは間違いなく、かつての自分の部屋で、さっき来たのは紛れもなく若かりし頃のおふくろだった。………………ということは!
布団から飛び起きた私は、小走りで洗面所に向かった。家の間取りの記憶が蘇ってきた。
廊下の突き当たりを曲がったとたん、鏡に現われてきたのは……子供の頃の私だった。
写真や8ミリ映像の一場面でしか記憶にない、あの頃の私が、あきらかに戸惑った表情を浮かべながらそこにいた。手で頬や額や髪に触れると、そのままの行為が鏡の中の私によって行われた。
部屋に戻る途中で台所の横を通ると、おふくろが電話している声が聞こえた。受験を控えたこの時期なので、大事をとって休ませるということを、誰かに伝えていた。
部屋に戻ると、布団には戻らず机の前に座った。
やけに小さな机に見えていたものが、座ったとたん体にフィットするサイズであることに気づいた。
やけに懐かしい教科書や参考書。教科書の裏には『3年1組 坂本真一』の文字。机の横に貼られた風景写真のついた月ごとめくりのカレンダーには、華やかなクリスマスツリーの写真の下に、大きな文字で『12』、その横に小さく『1971』と印字されていた。
「昭和46年12月……」その頃私は確かに中学3年生、高校受験を2月に控え、猛勉強の最中だった。県下一の進学校を受験する数少ない生徒として、学校からも期待されていた。
合格への不安との戦い、その名残が散乱した机の上に感じられた。
ふと眼に入った英語の問題集をパラパラとめくってみた。かつて銀行の国際部門にいた私にとっては、呆気ないほど簡単な問題が並んでいた。
「当時は英語が苦手だったんだよな……」そっとつぶやいた。
同時に、体と環境が当時に戻っているのに、記憶と意識が変化していないことに改めて気付いた。
突然、どろどろとした不愉快な感情がこみ上げてきた。崖の上から見た漆黒と、そこまでの出来事が脳裏に甦ってきた。再び気持が押しつぶされそうになり、吐き気がした。
一段高くなった和式便器の前に屈み込み、顔を歪めながら吐しゃ物を見つめる私に、背中から
おふくろの声がかけられた。
「真一、大丈夫? お医者さん行こうか?」
「大丈夫だよ、ちょっとムカムカしただけだから……」
「そう……それじゃあもう少し様子を見ようかね。薬を枕元に置いておいたから、すぐ飲んじゃいなさいよ。母さんそろそろパートに行く時間なんだけど……一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。何かあったら、隣の綾野のおばさんに言うから」
今の少しかすれた私の声とは違う、まだ幼さの残るなめらかな響き。
その声が自分の口から発せられたこと以上に、綾野のおばさんという言葉が自然に飛び出してきたことに驚いた。
綾野というその女性は父の姉で、ご主人を早く亡くしてからは、我が家の隣の敷地に小さな家を建て一人で住んでいた。ご主人の残したわずかな遺産と着物の仕立てで生計を立てていた。
子供もいない独り暮らしの寂しさを、まぎらわすかのように、小さい頃から私のことを異常なほど可愛がってくれていた。
「???……隣の誰だって?」
「だから綾野のおばさんだよ」
「綾野のおばさんって……雪江さん? 雪江さんなら隣じゃなくて隣町でしょ」
「………………」
「まあいいわ、とにかく何かあったらお店に電話してきて! じゃあ行ってきます。ちゃんと寝てるのよ」
―ーーーーー何か変だった。私が中学3年当時には、確かにおばさんは隣に住んでいた。
母が出かける気配を感じながら、窓を開け、体を乗り出して隣を見た。
そこには当然あるはずの薄茶色の外壁はなく、冬枯れの雑草が生えた空き地が見えた。
12月の木枯らしにさらされながら、私はいつまでも、その空地を見つめていた。