第十三話:悲劇(その1)
世の中全体がバブルの後始末に追われている感のあった1990年代。銀行が潰れ、保険会社や証券会社が倒れていった。失業率が上昇し異常気象と呼ぶべき冷夏と猛暑が繰り返された。とどめを刺すかのような阪神淡路大震災が95年に発生した。
そんな世の中の動きとは無関係に私は80年代と同じように作曲を続け、日本に代わってITバブルの始まったアメリカへの投資に明け暮れていた。転生前の悲惨な出来事を思い出す事も既になく、この順調で幸せな人生が未来永劫約束されているものと確信していた。
故郷はといえば、おやじもおふくろも私からの有り余るほどの仕送りで悠々自適な生活を謳歌していた。由紀子のご主人はあれから6年も経つのに、未だ意識が戻らないままのようだ。何度か由紀子から電話があったが、その都度私からの援助の申し出ををかたくなに拒み続けていた。次第に思いつめたような口調に変化しているようで気になったが、本気で経済的援助を考えていた私は、出番が近づいてきているくらいにしか思っていなかった。彩香は苦しい中でも地元の短大を卒業し、今は由紀子を手伝っているとの事だった。彩香の話題になるとなぜか由紀子が口ごもる場面が多かった。
私はといえば、結局結婚もせず多くの女性たちと浮名を流しながらも、独身のままだった。実はあちらの世界で女房だった女性と一度出くわした事があった。買物の途中のようで大きな紙袋を抱え、見知らぬ子どもの手を引く姿だった。もたもた歩く子供を鋭く叱りつける姿に、あの日の……子供の手を引きずるように家を出ていった場面が重なり、久々に苦いものが胸の奥から込み上げてきた。それが原因とは言えないが、一度幸せな家庭の崩壊を経験した事が結婚の決断を躊躇させていたのかもしれない。
彩香が突然事務所を訪ねて来たのは、96年も押し迫ったある日の事だった。
事務員やマネージャーたちには早めの年末休暇を取らせ、一人で物思いにふけっていた時、突然呼び鈴が鳴った。出てみると一人の女性が立っていた。寒さのためか小刻みに体を震わせながらも、その顔には思いつめたような表情が浮かんでいた。一瞬それがあの彩香だとは思いつかないほど成長し、大人びた彩香がそこにいた。
「お久しぶりです。山元です、彩香です」
私の表情をうかがっていた彩香がゆっくりとそう告げた。
「……彩香ちゃん? どうしたんだ突然……お母さんはここに来る事を知っているのかい?」
驚きの一瞬が過ぎると不安と不信が押し寄せてきた。震える彩香を事務所に招きいれながら私は矢継ぎ早に質問を続けた。
「母は……知りません。黙って出てきたから……、でも私どうしても歌手になりたくて……」
彩香の言葉が嗚咽に変わった。
泣きじゃくる彩香を残し、裏のキッチンで暖かい飲み物を作りながら私はこの驚愕すべき状況にどう対処すべきか考えていた。
暖かいコーヒーを口にして少し落ち着いたのか、彩香はぽつぽつとこれまでの経緯を語り始めた。それによると―ーーーー中学で始めたバンドボーカルを高校でも続け、2年生の時県内のコンテストで準優勝した綾香は本格的に歌手の道に進みたくて、高校を卒業したら東京に出る事を希望したが、由紀子は絶対に首を縦に振らなかった。そればかりか勝手に短大進学を決めてきて有無を言わさず入学させられた。バンド活動も禁止され由紀子と交互に父親の付き添いをさせられていた。短大卒業後も就職さえ許されず家と父親に縛り付けられる毎日だった。それでも歌手の夢を捨てきれず、今日由紀子の目を盗んで家を飛び出した来た、という事だった。事務所の場所は以前渡した名刺の住所を探してきたとの事だった。
「……事情は分かったけど、それじゃあ向こうは大変な騒ぎになっているよ。すぐ電話しなさい! あとで僕が代ってあげるから……」
しぶしぶという感じで彩香が電話した。案の定由紀子は狂乱状態のようで、たまりかねた彩香はすぐに私に受話器を渡してよこした。
「……もしもし」
「坂本君! いいからとにかくすぐ彩香をこちらに帰らせて! あの子はまったく何も分かってないのよ……本当は歌手になりたいんじゃなくて今の状況から逃げ出したいだけなの! 本当にまだ子供なんだから、東京なんかに……東京なんかにやれないのよ………………」
電話の向こうで号泣する由紀子だった。私は受話器を耳に当てたまま立ちすくんでいた。
由紀子が落ち着くのを待って、私は今日はもう遅くて帰りの便など無い事、ちゃんとしたホテルに泊めて明日私が責任を持って帰るように説得するから安心してほしい事を伝えた。しぶしぶという感じで由紀子が了承したので、もう一度彩香に電話を代わった。
「もしもしママ………………私帰らないからね!」
そういうと彩香は急いで電話を切った。
「まったく彩香ちゃんも無茶するなー、物には順序ってやつがあるだろう。とにかくこれからホテルを手配するから少し待ってて」
それから私は思いつく限りのホテルに電話して宿泊を頼んだが、年末のこの時期しかももう午後10時を回ったこの時間から受け入れてくれる所はなかなか見つからなかった。
「私……先生の所でもいいですよ……」
いい加減電話掛けにも疲れてきた頃、彩香がぼそっとつぶやいた。
「バカ言うな、俺は独身だし部屋もろくに掃除なんかしてないし……泊まれるわけなんてないだろう。これから知り合いの女性に頼んでみるから待ってろ!」
「それは絶対いや! 知らない人と一緒に泊まるなんてできない!」
私を睨みつけるように彩香が言いきった。
……万策尽きた。急に疲労感を強く感じた。由紀子の私をなじる顔が脳裏に浮かんだ。そして……もうどうでもいいやという投げやりな感情がこみ上げてきた。
結局、彩香は私の家に泊めざるを得なかった。家に帰る途中で夕食をとった。彩香のリクエストで焼肉を御馳走した。さっきまでのやり取りが嘘のように彩香はよく笑い、よく食べた。彩香につられるように私もよく食べ、よく飲んだ。彩香が無性に可愛いと思えてきた。女子中学生の綾香は美少女だったが、いまの綾香は磨けば磨くほど輝きだすダイヤモンドの原石のような秘めたるそして妖しいきらめきを放っていた。―ーーーーそして私は記憶を失った。
翌朝頭の中を駆け抜ける鈍痛で目が覚めた。いつもの酔っぱらった翌朝と同じく状況がよく把握できなかった。眼に映る景色は確かに私の部屋だったし、ブラインド越しに差し込む陽光もいつも通りだった。でも何かが違う気がした。―ーーーー不意に『彩香』の事を思い出した!
その時部屋のドアが開いた。映画のワンシーンのように大きなYシャツを身にまとった彩香がドアの向こうから現れた。手に、溢れるばかりに水の入ったグラスを持って。
「先生、やっと起きたんですか。水飲みます?……あっYシャツ勝手に借りてますね」
満面の笑顔で屈託なく彩香が言った。
「……彩香ちゃん……これは……」
「もう! 先生覚えてないんですか? べろべろに酔った先生をここまで連れてくるの大変だったんですよ!」
「……それで、どうしたの」
「ひどーい! それも覚えていないんですか? 一緒に寝たじゃないですか、いびきすごかったですよ………………先生たら私をママと間違えて何回も由紀子、由紀子って言ってたんですよ。先生とママって昔付き合ってたんですか?」
最後のフレーズは耳に入って来なかった。(えらいことをしてしまった……)自らをなじる、その言葉が悪魔の襲来を告げる教会の鐘の音のように頭の中に響き渡っていた。
その翌日、彩香は一旦由紀子の元に戻る事を了解した。ただし、何としても由紀子を説得し、正月が明けたらまた東京に来て本格的に歌手を目指すと宣言した。
その時には私が面倒をみると約束させられた。最後はバイトをしてでもやっていくという固い決意に負けたという事もあるが、何よりあんなことがあった彩香を見放せる訳などなかった。
約束通り1月の半ば過ぎに彩香がやってきた。その前日由紀子から電話があった。長い長い電話だった。その電話で由紀子は何度も何度も歌手としての成功なんてどうでもいいから、とにかく彩香が傷つくような事がないように見守ってほしいと繰り返した。
(由紀子は何を恐れているのだろう)と思わせるほど執拗な懇願だった。あの夜の出来事が重く、鈍く私の心を縛っていた。それが逆に私に彩香の絶対庇護者となる悲壮な覚悟を決めさせていた。安心して私に任せてほしいと由紀子に誓った。
彩香の曲はすべて私が用意するし、デビューに向けても全面的にサポートするという条件で、懇意にしているプロダクションに彩香を預けた。正直才能については期待していなかったが、初めてその歌声を聴いた時、思わずプロダクションの社長と顔を見合わせた。透明感があり心に沁み入るような歌声は、5年後に彗星のように登場する予定のビッグアーティストを私に思い出ださせた。私の中で、彩香が歌うべき曲がその瞬間に決まった。
彩香にはプロダクションの手配でセキュリティー万全のマンションの一室が用意された。ベテランの女性のマネージャーを隣室に住まわせるという配慮もされた。すべて私からの要望だった。彩香は私と離れるのを嫌がったがデビュー前の大事な時期だからと納得させた。
彩香のデビューが3月に決まった。週刊誌ネタにされるのを過剰なほど気をつけながら、マスコミ各局の主要メンバーには私があらゆる人脈を駆使して売り込みを行った。彩香のために必死になってあれこれ仕掛けるのが楽しく、心地よかった。
……そして彩香はセンセーショナルなデビューを果たし、デビュー曲はいきなりミリオンセラーとなった。都会育ちにはない純朴さや植物状態の父親を抱えるその境遇までもが話題となり時代の寵児と言えるほど人気も高まった。
本来彩香の曲を歌うはずだった女性歌手の曲を私は2曲しか記憶していない事もあって、次曲の制作をその頃頭角を現し始めた若い作曲家に委ねた。―ーーーー今考えればこれが悲劇の始まりだったかもしれなかった。