第九話:遭遇(その3)
「君たちは時間というものは、過去から現代そして未来へと流れているものだと思っているだろう?」
「ええ……」
「ところが、今の物理学には時の経過という概念はないんだ。時間は流れず、ただ存在するだけという考え方なんだ。君たちも知っている、かのアインシュタインが相対性理論を唱えて以来、時が流れるというのは哲学の領域で科学的ではないとされている……だから、時の経過というのは、この宇宙ができて以来連続して発生している物理的・不可逆的変化に過ぎないという考え方なんだ、従って過去に戻る、すなわち変化を元に戻すとか、未来に行く、すなわち変化の順番を飛ばすとかいう事はありえないとされているんだ。」
「でも……僕たちは実際過去に戻っているじゃないですか!」
「そう……だからここは我々がいた世界、正しく言えば我々がいた時空での過去ではないだろうと思う」
「……?」
「さっき、今の物理学の常識ではという話をしたね。ただ古代から信じられている別の考え方もあるんだ。それは……時間というのは、いや正確に言えば『時空』というのは一つではなく無数に存在しているという考え方なんだ。普段、我々は特定の時空に存在し他の時空に移動する事はできないが、何らかのきっかけで時空の間の『壁』を超える事ができる。その鍵が人間の精神構造の中に隠されているというんだ。例えば、これから10分間目をつぶれと言われた時に目を開ける時間はみな同じだろ? でも夢中で何かをしている時に感じる時間と、嫌々何かをしている時に感じる時間は、例えば同じ10分でも長さが違うだろ。つまり大げさに言えば人間の精神が時空に影響力を発揮しうるという事だ。……そして精神構造と時空の構造が強烈に共鳴し合った時、壁が突破されるのかもしれない……」
「だから……みんな、きっかけは自殺なのね」
由紀子がつぶやいた。
「そう、生き物には本来強い生存本能が備わっている。その本能を押さえつけて自らの意思で自分を殺そうとする時、おそらく精神構造は通常ありえない異常な状態になっているに違いない。その時何かが時空構造と共鳴して………………いやまったくの想像だけど」
「でも……それじゃあ元々この体にあった俺?……精神?……はどこにいってしまったんですか?」
「………………また別の時空に押し出されてしまったのか、あるいは子供の遊ぶ移し絵のように、移ってきた私たちの強烈な精神に塗り込められてしまったのか……」
何ていう事だ。俺はこの世界にいた自分の精神を乗っ取ってしまったというのか!
ただ、………………佐倉が話す内容は正直言ってよく理解できなかったが、確かに今の状況を一応説明できそうな気がした。
ふと見ると由紀子もじっと考え込んでいた。
「もといた世界、いえ時空の私たちはどうなったのかな……」
「あっちの時空にいる連中にとっては、我々は全員死んでいるだろう。ただ我々にとっては、あっちの時空はもはや変化していない、凍りついた時空とも言えるんじゃないかな。変化を認識すべき精神がこちらに来てしまっている以上はね……」
「それじゃあ、25歳の女性が変わってしまったのは……」
「おそらく、自殺の瞬間までに蓄積された記憶によって支えられていた精神が、その瞬間を過ぎた時、拠り所を失った……言い換えれば、あちらの時空での『自我』を失ったという事かもしれないな」
「でもそれって結局………………あっちの自分が死んじゃうって事じゃないのかな……」
「………………いずれにしても、その時までは、私たちにやり直しの人生が与えられていると言うことだ。……どう生きるかは君たち自身で考えるべき問題だ」
佐倉は、そう言いながら腰を上げた。
「遅くならない内に帰れよ」
やかんと湯呑を持ち、佐倉が部屋を出て行った。後に残された私と由紀子は彫像のように座り込んだままだった。
その日以来、私もそして由紀子も気が抜けたような日々を過ごした。
あれほど足しげく通っていた特別展示室にも、パッタリと行かなくなった。物理クラブにはときたま顔を出すものの、佐倉とは無意識の内に距離を置くようになっていた。
何となく状況は理解できたものの、いや状況が理解できたからこそ、これからの『限られた』人生をどう生きていけばよいのか決めかねていた。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、いつしか季節は冬を迎えていた。私たちがこちらに来てから1年という時間が過ぎようとしていた。
時々街中で転生者らしき人影を見つける事があった。意識を集中して見つめない限り、向こうは私たちに気づかない事が分かった。
「きっとあの人も、この状況に戸惑っているのよね……」
とある土曜日の午後、由紀子と一緒に綾野のおばさんの家に向かう途中に転生者を見つけた時、彼女がそうつぶやいた。
「何が起こっているのか教えてあげようか?」
「………………やめておきましょうよ……知らない方が幸せかも」
「……そうだな」
私たちは、その人物に意識を向けないように昨晩のテレビの話題を語りながら、すれ違った。
―ーーーー二人とも事実を知ったことを少し後悔し始めていた。