プロローグ
凍えつくような真冬の夜風が、さえぎるものとてない崖の上を吹き抜けていた。
中空で冷たく淡い光を放つ月は、稲刈りで使う鎌の先のような三ヶ月だった。
山寺の裏手にあたる、この切り立った崖の手前には、落下防止の鉄柵が設置されていたが、
私は柵を乗り越え、鉄柵にもたれかかりながら、崖までのほんのわずかな空間に立ちつくして
いた。
「何で、こんなことになっちまったんだろうな……」
山寺の長い石段を登りながら、何十回目となく繰り返した問いかけ。
「あの時……酔った勢いのままにあの娘に手を出さなければ……」
「あの時……うるさがらずにあの娘の話をちゃんと聞いていれば……」
「あの時……あの娘の思いつめたような表情の裏にあった決意に気づいていれば……」
彼女の自殺はくい止められたかもしれない。そしてお腹の中の子供も……。
入行したての部下の女の子と不倫関係に陥り、あげくの果てに彼女を自殺に追いやった支店長の末路は決まっていた。
行内で、そして警察で何度も重ねられた事情聴取。
管理者としてあるまじき行為と断定され、突きつけられた懲戒免職。
殺人の嫌疑こそ晴れたものの、(見る人が見ればはっきりとわかる)匿名で、スキャンダラス
に書き立てられた週刊誌。
半狂乱になり、二人の子供を引きずりながら家を飛び出して行った女房。
あの娘の両親からの損害賠償請求訴訟。裁判所からの呼び出し状………………。
人もうらやむ一流大学を卒業し、一流銀行に就職し、そこそこ資産家の娘と結婚し、同期最短で支店長に登用された。順風満帆を絵にかいたような人生だった。
……つい、三か月前までは。
否応なく『天国から地獄に突き落とされる』という意味を味わうことになった。
結婚当初から住んでいた、女房の父親名義のマンションも、あらゆる預貯金も、株も、車も
……すべてを失っていた。
手持ちの金も底をつこうとしていた。そして何よりも夜まったく眠れない辛さにまいっていた。
二日、三日眠れない夜が続き、真昼間のネットカフェで疲れ果てて泥のように眠り込む日々。
いびきがうるさいと若い店員から叩き起こされる惨めさ。
絶望なんていう生やさしいレベルじゃなかった。自分の存在自体が煩わしく思えてきた。
伸び放題で、フケだらけの髪をかきむしっても、皮が破れ血がにじむほど指を噛んでも、
人目のなくなった公園の大木に、激しく拳を打ちつけても、脳裏に焼きついた一連の記憶は、
薄れるどころか、より鮮明に果てしなくフラッシュバックを繰り返した。
……もはや、生きている限りこの苦しみから逃れる方法はないと感じた。
寒空の下、あてもなく街をさまよった。冬空が夕暮れの赤銅色から濃紺に変化し始めた頃、
なけなしの金で切符を買い電車に乗った。足が無意識の内に、この山寺に向かっていた。
この寺には、結婚前に女房とハイキングの途中立ち寄ったことがあった。
音をあげる女房を励ましながら長い石段を登り切り、本堂の裏手に回り込んだ瞬間、
切り立った崖と、その先に広がる壮大な山並みが眼の中に飛び込んできた。
「ここから落ちたら助からないよね」
鉄柵越しに崖を覗き込みながらつぶやいた、女房の言葉を思い出していた。
崖の下は漆黒の闇に覆われてていた。
「昼間だったらとてもこんな場所に立てないな……」
ぼんやりとそんなことを思った。
「もう一度やりなおしができないのかな……」
あの事件以来、何度も目が覚める度にすべてが夢であることを願った。
眼を開けた瞬間に、いつもの寝室で、いつものように優しく肩を揺すって私を起こす女房の姿が飛び込んでくることを期待した。
しかし、現実はいつも期待を裏切った。
手の平から伝わってくる鉄柵の冷たさが、改めて、はかない幻想を飛び散らせた。
私の中の何かが弾けた。
意外なほど強く握りしめていた鉄柵から、指を一本ずつゆっくりと引き剥がした。
背中から吹き付ける強風に身を任せるように、眼を閉じたまま体を前に倒した。
足が大地を離れ、真っ暗な空間が私を飲み込んだ。
二年前に家族で行ったオーストラリア。子供たちにはやし立てられて無理やりやらされた
バンジージャンプでの、あの風を切り裂いて落ちていく感覚が蘇ってきた。
「もう一度やり直したかった!」
走馬灯のように、次々に脳裏に浮かぶ45年間の記憶の断片をたどりながら、心の中で
そう叫んだ。そして……意識はまっ白い光に溶けていった。
初投稿です。前々から身近なテーマでパラレル・ワールドを書いてみたいと思っていました。サラリーマンをしながらなので、完結まで時間がかかるかもしれませんが、ご容赦下さい。ご意見をお待ちしています。